世界は「無関係」でできている
『WHAT^』第40回

12月 22日 2021年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

筆者撮影

『巨匠とマルガリータ』(ミハイル・ブルガーコフ、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集I-5、河出書房新社、2008年)は面白くて読むのを止められないぐらい、危険な小説だ。ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与えたという逸話があるらしい。しかし、ブルガーコフがこの長編小説の原稿を書いていた時には、出版される見込みは全くなかった。

筆者は故人となった友人との雑談をきっかけにして、17世紀の哲学者、スピノザが残した発禁本「エチカ」を読んで衝撃を受けた。同時代の数学者で哲学者でもあるライプニッツは、最初のスピノザ主義者として死んだのではないか、結局スピノザの「エチカ」は死ななかったと勝手に解釈している。ブルガーコフについては、小説を読んでいる途中なので、先入見は無いほうがよいだろう。とにかく、ブルガーコフの小説は死ななかった。ありえたかもしれない文明の暗号となって、未来の読者を魅了し続けるだろう。

『世界は「関係」でできている‐美しくも過激な量子論』(カルロ・ロヴェッリ、NHK出版、2021年)は世界的に話題になっている新刊本で、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ、NHK出版、2019年)の続編としての完成度は高い。物理学という専門性に守られているかもしれないけれども、ありえたかもしれない文明の暗号という意味では、十分に過激な文章だ。スピノザやブルガーコフの時代には想像すらできなかった量子論は、現代の多くの人びとにとって意味不明であって、ロヴェッリの文章が発禁本とならなかったのは、それだけでも祝福に値する。しかしもし、「世界は無関係でできている」という文章であれば、出版はされなかったかもしれない。ロヴェッリは、人が理解できる意味ある世界は関係でできていることを見事に記載しているけれども、人には意味不明な量子の世界そのものは、ほとんどが無関係な、相互作用のないスカスカな世界であることも記載している。特に、確率現象の量子論的な解釈に足を踏み入れると、「世界は無関係でできている」としかいいようのない、確固とした足場のない、不安な世界が見えてくる。

上述したスカスカで不安な世界こそ、「データの世界」なのだと思う。筆者のようにデータの世界にどっぷりつかっていると、人が理解できる意味あるデータは「ほとんどない」ことに驚かなくなる。データの意味を理解する最良の処方は、データの世界を無作為化してしまうことで、無作為割付けによって、多くの変数の隠れたもつれを断ち切ってしまうことだ。しかし、そのような人為的な実験が、倫理的または経済的に不可能な場合がほとんどなのだ。「世界は無関係でできている」としかいいようのない、理不尽さを感じざるを得ない。

普通の意味の「データの世界」と、物理学の量子の世界は、ともに数学的には行列で記載されるなど、似ていることもあるけれども、決定的に異なることもある。量子の世界には「個体差」がなくて、同種の量子の場合、原理的に二つの量子を区別することができない。ロヴェッリの本では、この単純な事実のConsequence(とどのつまり)が議論されていないことが残念だ。ブルガーコフであれば、悪魔たちは複数存在して、見かけは異なっていても、悪魔は悪魔でしかないというだろう。ロヴェッリは、量子の世界は「色即是空」、仏教的世界観に近いと論じている。量子の世界は、悪魔の世界と「色即是空」、どちらであっても、意味不明であっても、科学理論としては疑いようがないぐらい役立っているので、量子の世界を受け入れるしかなさそうだ。

スピノザとブルガーコフは、当時の支配的権力を受け入れなかった。彼らの作品には、別次元の現実が描かれている。彼らは真実を記載したというだろう。支配的権力は、社会ではなく組織として個人の前に現れる。そして個人を組織に組み込んで組織の一部とするか、個人を組織から除外する。スピノザとブルガーコフは組織から除外され、社会からも逸脱した。近代以降、社会は組織に翻弄(ほんろう)され、個人の器(うつわ)としての本来の機能を失っているのだ。社会が機能不全となり、地球規模の自然環境も覇権国家やグローバル企業などの巨大組織に翻弄されている。

組織が不要だというつもりはないし、合理的な組織がありえないとも思っていない。組織の世界は、量子の世界と同程度に、もしくはそれ以上に意味不明だと考えている。組織の世界には個体差があるという意味で、量子の世界よりはデータの世界に近い。組織の世界を理解しようとすると、組織の中心、もしくは組織のトップによる支配的権力を、組織そのものと見誤ってしまう。組織の一部となった個人を観察しても、組織のことが理解できるとは限らない。組織を観察するためには、組織の周辺、組織とは無関係な人びととの周辺を見定めることのほうが重要だと思われる。組織の中心主義は微分的な力学による組織理解であって、組織の周辺主義は積分的な力学による組織理解となる。量子力学では微分的な理解から積分的な理解へと、理解が深化した。組織においても、データ論を整備すれば、組織の積分的な理解が可能になるかもしれない。

組織の世界そのものは意味不明であっても、データとして観測しうる組織の周辺には積分的な「秩序」もしくは「法則性」があって、自己増殖や分裂を繰り返す組織の力学的パターンが見えてくるかもしれない。組織力学もデータ行列のオブザーバブル(観測可能な性質の関係性)だとしたら、その時には「世界は関係でできている」ということを認めてもよいかもしれない。組織力学のような意味不明な(悪魔の)理論はブルガーコフにまかせておいて、筆者としては、「無関係でできている」データの世界の周辺をゆっくりと散策して、先を急ぐ若者たちが道に迷わないように、思索を重ねたい。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は、何か気になることを、気の向くままに、イメージと文章にしてみます。

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