難民に不人気な日本にいまできること
『記者Mの外交ななめ読み』第12回

10月 23日 2015年 国際

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間150冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウォーキング。

9月のシルバーウィークを利用して、妻とともにオーストラリア・シドニー郊外にある義母宅を再訪した。20年ほど前に訪ねた時と同じ場所だが家屋は建て替えられ、日本ではいわゆる豪邸の部類に入るかなり広くてしゃれた洋館である。正直驚いたが、それがにわかに、「日本ではどんなに逆立ちしてもこんな家には一生住めないだろうな」という羨望(せんぼう)と、「よくぞここまで頑張ってこれたものだ」という敬意にも似た感慨がない交ぜになった。

◆難民だった妻と家族

中国系ラオス人の妻も、妻の家族もみな、元難民である。1975年のベトナム戦争終結に伴う政治的混乱は隣国のラオス、カンボジアにも飛び火し、彼らの母国ラオスでは同年、王政が倒され、以来、人民革命党による一党独裁となった。同党は当初、国民に「政治的再教育」を強要し、それまでの自由や資本主義経済を謳歌(おうか)していた富裕層や華僑系の人たちは深刻な政治的迫害というよりも経済的な窮屈さや生活面での息苦しさなどから、母国脱出を企てるようになった。

妻の一族も政変後、80年までに全員、メコン川を渡ってタイ領内のノンカイに逃れ、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が運営していた収容所(キャンプ)で、第三国行きを希望しながら生活した。

妻は10人きょうだいの上から2番目。長兄はパリ留学中に政変が起きたため、そのままパリにとどまり、結婚して現在もフランスに住んでいる。妻と2人の弟は、当時日本に留学していた叔父を身元引受人に80年2月に来日し、神奈川県大和市に開設されたばかりの難民定住促進センター(外務省の外郭団体である公益財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部が運営)に第1期生として入所した。

残る6人のきょうだいと母は、政変後すぐにラオスを脱出し難民として豪州に渡った親族の呼び寄せに応じる形で豪州行きを希望していた。しかし希望者が殺到したため順番待ちを余儀なくされ、豪州政府の受け入れリストにようやく名前が載り、渡航が実現したのは89年5月のことだ。難民キャンプで10年以上暮らした末にやっと手に入れた豪州行きの切符。その間、父は86年3月に難民キャンプで病死し、遺灰はメコン川に流された。

僕との結婚を契機に東京から長崎に移り住んだ妻は当時無国籍状態で、出国には再入国許可証を取得しなければならず、かなりの手間と時間がかかるため、葬儀に参列することはできなかった。楽しい思い出が多い僕の初任地・長崎での新婚生活の中で、唯一と言っていいほどの悔いの残る記憶である。

◆カネは出すが、人を出しもせず受け入れもしない日本

豪州から帰国してまもない9月30日(日本時間)、国連総会に出席していた安倍首相が記者会見で述べた言葉が、テレビや新聞で取り上げられた。外国メディアから日本がシリア難民を受け入れる可能性を問われ、「移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある。女性、高齢者の活躍だ」と指摘したのだ。

首相は会見の冒頭で「(国連総会の)今年の最大のテーマは難民問題だ」と強調。その後の質疑で難民受け入れの可能性について問われると、「国際社会で連携して取り組まなければならない課題だ。人口問題で申し上げれば、移民を受け入れるよりも前にやるべきことがある」と述べ、女性の活躍など安倍政権が掲げる政策の必要性を訴えた。

シリアなどからの難民をめぐっては、その多くが欧州最大の経済力を持ち難民受け入れの態勢が整っているドイツを目指している。しかしドイツも、大量の難民流入に対して、90年代後半に廃止した国境での審査を復活させるなど規制する動きに出ている。欧州連合(EU)は今後2年で難民12万人の受け入れを加盟国で分担することを決めたが、押し寄せる難民や移民のうち保護が認められる人は今年だけで40万を超えるとみられる。中東欧の反対は多数決で押し切ったものの、混乱が収まる見通しは立っていない。

安倍首相は国連総会での演説で、シリアなどの難民支援に今年1年間で昨年の約3倍となる約8・1億ドル(約970億円)を拠出すると表明した。それが安倍首相の言う「今年の最大のテーマ」に対する日本政府の最もアピールしたい「解答」だったのだが、日本を「欧米と並ぶ先進国」というイメージで捉える外国メディアにとっては、「国際貢献のあり方としては不十分」だと映ったのだろう。

「カネは出すが、人を出しもせず受け入れもしない」。これが、日本政府の国際貢献に対する海外の大方の見方である。「宇宙人」鳩山元首相ほどではないが、発言内容が首尾一貫していない安倍首相のことだから「議論のすり替え」はままあることだし、日本政府が喫緊の問題に即応できる現実的な「解答」という観点で見れば、僕は及第点だと思う。

◆「積極的平和主義」のあるべき姿とは

しかし、安倍首相の記者会見での発言に違和感をおぼえた人は少なくないようである。

例えば、朝日新聞は10月5日付(東京本社管内)の投書欄で「難民受け入れこそ日本の貢献」とする静岡県の薬剤師の男性(45)の考えを掲載した。「難民受け入れこそ安倍首相が提唱する『積極的平和主義』を実現することになるのではないか。(中略)何年か後、祖国が安定した時、技術や知識を学んだ彼らが帰国し、祖国を復興発展させる力となり、中には政府の要人となる人物もいるかもしれない。そうなれば、彼らは親日派となり、日本との友好関係を築く橋渡し役を担ってくれるようになるのではないか」と主張する。

また、9日付(西部本社管内)の投書欄では「お金より難民受け入れに本腰を」とする熊本県のプログラマーの男性(59)の意見を紹介。「自由意思で他国へ渡る移民と、紛争などで母国を余儀なく逃れた難民をなぜ関連付けるのか。難民問題を労働人口問題とでも考えているのだろうか。(中略)『国際協調主義に基づく積極的平和主義』を掲げるなら幅広い受け入れに本腰を入れるべきだろう」と注文を付けている。

どちらも極めてまっとうな指摘で、一読して議論の余地がないように思う人も多いのではないか。ここで思い浮かぶのは9月に成立した安全保障関連法だが、集団的自衛権を行使して自衛隊をいつでも海外に派遣できるようになったことで、安倍首相はまさか、「カネだけでなく人も出せる」と国際貢献に関する議論をすり替えたわけでもあるまい。

ただ僕は、これら投書子の主張については、理解はできるがどちらも現実と順序から言うと、あえて「机上の理想論」だと反対する。いまの日本には難民を受け入れる条件がまったく整っておらず、「国際貢献」の名の下に難民を受け入れたところで、その難民自身が不幸になる可能性が極めて高いからである。

◆難民から敬遠される日本

では、日本の難民受け入れ環境の現状はどうか。まずは、「ニュース屋台村」2014年3月7日号の拙稿「日本は『夢と希望の国』か 『記者Mの外交ななめ読み』第8回」(http://www.newsyataimura.com/?p=1800#more-1800 )をぜひ読んでいただきたい。 本稿の論旨の出発点となるものだからである。難民問題は、僕がジャーナリストを志すきっかけをつくってくれた学生時代からの最重要テーマで、何人かの生涯の友人と人生の伴侶がいずれもかつては難民だったことから、やや前のめりになっているとしたら、ご寛恕いただきたい。しかし、執筆時期から1年半以上経過したが、当時指摘した問題点は放置されたままで、なんら改善されていない。

日本の難民受け入れの現状について欧米諸国と対比されるのが、受け入れの数が比べものにならないほど少ない点である。日本では昨年、5千人の難民申請に対し認定されたのはわずか11人。この数だけ見ると、「非情で血も涙もない冷酷な国」である。

しかし、この数字はある意味、われわれ日本人一人ひとりが、異邦の民を真の隣人として受け入れられるかどうかを数値化したものとは言えまいか。法解釈が厳格なあまり、視野狭窄(きょうさく)、狭量などと揶揄(やゆ)されることもある法務省の役人だけに限ったことではないだろう。

また、難民の間で日本は定住先としては不人気であるという厳然たる事実を率直に認めなければならない。言葉や文化の面での障壁はどこの国に定住しても同じだが、とりわけ国連での公用語に入っていない日本語は国際的にみても汎用性(はんようせい)が低く、言語習得努力によって広がり得る可能性も日本語の場合はかなり限定的である。

加えて、どんなに努力しても夢の実現にはつながらず、将来が見通せないという不安。さらには、日本人自身ですら寒々しく感じるお粗末な社会保障制度。いまのありのままの日本の姿が、難民からは敬遠されているのだ。観光で日本を訪れる日本びいきの外国人とはわけが違う。

◆努力が必ず報われる社会と国家

そこで、いまの日本にできる、あるいは実現可能性の高い対策を提案したい。まずは資金拠出。安倍首相は、シリアなどの難民支援に今年1年間で約8・1億ドル(約970億円)を拠出すると表明したが、これには賛成で、継続して拠出すべきだ。そして、拠出した資金が透明性のある使い方をされるのを見届けることも大切である。資金が途中で横領されたり、資金で購入された支援物資が横流しされたり闇取引されたりしないよう監視し、末端の難民の手元にきちんと届くまでチェックすることも資金拠出国の責任として担うべきである。

また、「難民認定」にこだわらず、「第三国」への定住、あるいは治安が正常化した後の母国への帰還を念頭に、留学生や研修生の受け入れの既存のスキームなどを援用する形で一定期間受け入れ、日本の技術や知識を学んでもらう新たな枠組みをつくれないだろうか。

もちろん、「定住したい国」として難民から選ばれるような国になることが究極のゴールだが、日本の現状を考えると気が遠くなるような話で悲観的にならざるを得ない。せめて、難民庇護(ひご)への理解度という点で、難民からばかりでなく国際的にも高い評価が得られるような水準に意識を引き上げる努力を官民が怠らないようにしたい。

そのためにわれわれ市井(しせい)の人間ができることは、難民問題の現状を知ることから始まり、「お荷物」のようなイメージが根強い難民の本質を理解し、バリア(心理的障壁)を取り除こうとする積極的な姿勢を持つことだと思う。そして、平均的な生活水準の自国民と同じほどの目線で難民を正視することができるようになったとしたら、その人にとって、難民はもはや難民ではなくなるはずである。

妻の家族は、難民として豪州に渡って四半世紀が過ぎた。今年86歳になる義母はいまだ片言の英語すら話せない。病弱な上に足腰がすっかり弱ってしまい、介助なしでは外出できない。欠かさない日課といえば、自宅での早朝の読経と午後の瞑想(めいそう)である。

「お母さんにとってオーストラリアに来たことはよかったのかなぁ。年を取ったらだれもがそう思うように、国に帰って最期を迎えたいと思わないのかな」。帰国する日の前夜、義母の世話をしている妻の妹に尋ねた。すると、妹はあらかじめ答えを用意していたように即答した。「住む場所なんて関係ないよ。家族がいっしょに住むことができて互いに助け合える環境にいれば、どこにいたって幸せよ」

今回の滞在では、首都キャンベラまでドライブを楽しんだのと、たまたま興行に来ていたユーロサーカスを見にシティに出かけたが、あとは義母宅で家事のまねごとのような手伝いをしながら、ふだんの生活に朝から晩までできるだけ密着するように努めた。年寄りを抱える家庭の日常は、国は違っても大差がなく、単調かつ平凡である。そして、ストレス、苦労、愚痴も多い。一方、その生活ぶりは、僕には豪邸に見えた住まいから連想させるものとは段違いの、堅実でつましいものだった。

ぜいたくはできずとも、積み重ねた努力は必ず報われるという公平で確かな安心感。「オーストラリアンドリーム」と呼べるほどの成功ではないが、この国に溶け込み、この国の人となり、だれにでも手が届く幸せを、義母たちもつかんだのだと実感した。彼らにとって流転と波乱に満ちた人生には違いないが、彼らを受け入れたオーストラリアという多民族国家の度量の深さをうらやましく思わずにはいられなかった。

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