п»ї 「夜明け前」のミャンマーで感じた潜在力『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第55回 | ニュース屋台村

「夜明け前」のミャンマーで感じた潜在力
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第55回

10月 16日 2015年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住17年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

今年6月に、私が勤めるバンコック銀行もミャンマーにヤンゴン支店を開設した。軍政下で長らく鎖国状態にあったミャンマーが、外国金融機関に門戸を開いたことに伴う画期的な出来事である。「ミャンマーにおける今後のビジネスの可能性について意見して欲しい」という弊行チャシリ・ソーポンパニット頭取の要請で、約10年ぶりにヤンゴンを訪問した。

◆この10年で何が変わったか

1998年から2002年まで東海銀行のバンコク支店長を務めた私は、当時、東海銀行ヤンゴン事務所が開催する顧客向けゴルフコンペに招待され、毎年ヤンゴンを訪問していた。

金曜日の夕方の飛行機でバンコクからヤンゴンに向かうと、ヤンゴン近辺にはほとんど明かりがなく、真っ暗闇のヤンゴン空港に到着する。自動車は輸入した中古車しか許されておらず、年代物の古い1トンピックアップトラックが街の人々の足として機能している。男性はほぼ全員「ロンジー」と呼ばれるスカートに似た服を身につけ、女性は「タナカ」と言うおしろいを顔につけている。全く違った時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれた。

当時の東海銀行はミャンマーではそこそこの存在感を持っており、ゴルフコンペには20社以上の会社が集まった。1997年のアジア通貨危機以降のミャンマーには、日系企業は30社しかなかった。そんな中で20社以上が集まるのである。ゴルフコンペでごあいさつを頂いた当時のヤンゴン日本人商工会議所の会頭が「本日はこのゴルフコンペの場を借りて商工会議所の総会を開きたいと思います」と茶目っ気たっぷりに話されていたのを思い出す。

ちょっと脱線するが、その時のゴルフコンペを行ったヤンゴンゴルフ場も思い出深い場所である。ヤンゴンから車で30分ほどの所にあるこのゴルフ場は1909年に設立された名門コースであり、全英オープンの開幕戦が行われた時期もあった。

全長7000ヤードのコースはほとんどのホールが砲台グリーンとなっており、スコアメイクもきわめて難しい。更に実質鎖国状態にあった軍政時代には、ゴルフ場のメンテナンスを行う余裕もない。グリーンは少しは手入れがされていたものの、フェアウェーは芝がのびてボールが沈むほど。そんなわけで、ティーグラウンドで「ナイスショット」のかけ声と共にフェアウェーにボールが飛んでいっても白いボールは消えてしまう。

しかし、どこからともなく小さな子供が現れ、ボールの落下地点あたりに駆け寄りボールを見つけては、フェアウェーでティーアップするのである。フェアウェーでティーアップするこのゴルフのやり方と、子供からおじいさん達まで一家総出で行われるキャディー稼業は、ヤンゴンでのゴルフとして、私の懐かしい思い出である。

その10年前と比べてミャンマーは何が変わったのであろうか? 今回、私はヤンゴンとダウェーを訪問したが、ダウェーの町は古き良きミャンマーがそのまま残っていた。

しかし、ヤンゴンの町は昔とは異なった点が幾つか見受けられた。大きな違いの第一は、走っている自動車の量とその自動車がきれいになったことである。まずはヤンゴンの渋滞にびっくりした。場所と時間帯によっては、バンコク以上である。ヤンゴン市内から、ミンガラドン工業団地に行くのに2時間以上かかった。

一方で、自動車はきれいになった。中古車に対する税制優遇から依然として中古車中心であるが、毎年大量に日本から中古車が入ってくるようである。自動車関係の方に伺ったところ、昨年中古車の販売が15万台に対して新車はたったの4千台とのことである。また、タクシー仕様の自動車は更に税率が下がるため、ヤンゴン市内にはタクシーがあふれている。もっとも、タクシーの表示をしながら実際には自家用で使っている人もかなり多くいると聞いた。

10年前に比べてヤンゴン内のビルも増えた。10年前は高層ビルが二つしかなかったと記憶しているが、現在は多くのオフィスビルとホテルが街中に建て込んでいる。ヤンゴンからティワラ工業団地に行く途中には、スターシティーという大規模コンドミニアム群の建設が着々と進んでいる。また街中にも鉄道省跡地のホテルオフィスビルの大規模開発などが幾つも控えており、日本企業もこうした案件に関与しているようである。

◆日系企業の進出加速が難しい幾つかの理由

さて、こんなミャンマーの風景のなか、日系企業の進出の現状はどうであろうか? 2010年の総選挙を経て11年3月にテイン・セイン首相が大統領に就任。形式上の軍政が終了すると相前後して、ミャンマーは中国、タイに次ぐ海外進出先候補国として脚光を浴び、日本企業関係者が大挙視察に訪れた。

しかしながら、「NATO」と揶揄(やゆ)された「No Answer Talk Only」(話だけしていき進出には答えを出さない)の姿勢で3年程前までは実際には日系企業の進出は少なかったようである。しかし、この2年間確実にミャンマーに足場を築こうという企業が静かに進出してきている。

4年前まではヤンゴン日本人商工会議所の会員数は約50社だったが、現在は約250社と急増している。しかし、このうちミャンマーで製造業を営む企業は30社弱しかなく、これも縫製業や食品加工業に偏っているようである。トヨタやホンダ、パナソニックなどの製造業大手は駐在員事務所を開設するのみで、将来の販売施策の検討をしているようである。

一方、法律事務所、会計事務所、コンサルタント、人材派遣などのサービス産業が積極的に進出してきているが、これは日本の政府開発援助(ODA)がらみの仕事目的のようである。在留邦人も急増しており、2年前の約600人から現在は約1400人(在留届を提出している人)、実際には2000人以上いると見込まれている。こうした中で日本食レストランも約250店に及び、先月旅行で訪れたロンドンやパリなどよりもずっと充実している。

それでは、今後日系企業のミャンマー進出はいよいよ加速していくのであろうか? これがなかなか難しそうなのである。第一にインフラが整っていない。電力の供給率はミャンマー全土で30%、電話が2%、携帯電話でも10%程度である。これに加えて、産業用道路網の整備が全くなされていないといっても過言ではない。

今回ダウェイを訪問したが、ダウェー市内から工業団地の計画地まで40キロ強の道を2時間以上費やした。通行料金を徴収する「高速道路」という名目の片道2車線の道を走ったのだが、道が穴ぼこだらけで実質片側1車線である。翌日ヤンゴンからティラワ工業団地に向かう際もまた然りである。ティラワに行くにはヤンゴン川を越えなくてはいけないが、この川を渡る橋は中国の援助でかけられた片側1車線の橋である。私たちがティラワ工業団地を訪問した際は、反対側車線の橋の上でバスがエンストを起こし、長蛇の車列が全く動かなくなっていた。渋滞の解消に5時間ぐらいかかったようである。これでは物資の運搬も心もとない。

次に問題なのは、使える資源がほとんどないということである。実はミャンマーは豊富な天然ガスの産出国であるが、鎖国時代の軍事政権時に中国とタイがミャンマーの困窮化に乗じ、このガスを安価に長期で購入してしまったのである。現在、中国のガス使用量の20%はミャンマーから供給されている。この長期契約により、ミャンマーは自国で使える天然ガスがなく、電力不足に陥っているのである。石炭火力発電については、CO2排出問題からNGOの反対があり、難しい状況にある。

3番目に行政上の問題がある。現状の外国人事業規制法では、外国人による法人認可は6か月から1年かかるようである。労働許可証についても同様で1か月程度要する。更に、外国法人に対する最低資本金のガイドラインがあり、製造業は50万ドル、サービス業は30万ドルとなっている。これだけの資本金を持ち込むのであれば、法人設立後の業務運営にそれなりの成算がなければ進出できない。

これに対して、今年事業を開始したティラワ工業団地では、法人設立や労働許可証取得に関わる処理がワンストップサービスで受けられるメリットが付く。ティラワ工業団地の今後の有効活用が期待されるところである。

これ以外にも問題はある。ミャンマーでは民政移管に伴って欧米が科していた制裁が解除されたり大幅に緩和されたりしたが、米国財務省が発行する経済制裁対象者リスト「SDNリスト」は失効しておらず、これに載っていないミャンマーの企業家を見つけるのが困難だとか、ASEAN経済共同体(AEC)が今年末に発足したあと域内関税が低くなるなかで、今更タイに作った会社と同じものをミャンマーに作る意味が見いだせないという意見も聞かれた。

◆世界の先進国だった過去と実績

こう書いてくると、ミャンマーに日系企業が進出する余地が少ないように感じる。確かに、現在のインフラの整備状況を考えると、今すぐにでもタイやベトナムのようになることは不可能であろう。しかし、過去18年にわたりタイの工業化、近代化をつぶさに見て来た私にとって、ミャンマーの近代化は夢物語には映らない。

18年前のタイには、バンコク郊外を縦横無尽に走る片側3車線の産業用道路などなかった。当時、バンコクからアマタナコン工業団地(バンコクの東南60キロに位置する)まで道が悪く、2時間以上かかるのはあたり前。雨が降り、道がぬかるんだりしたら、平気で5時間くらいかかった。バンコク市内での停電は当たり前。工業団地でも電力供給が一定せず、過電流(電線に過剰な電流が流れること)などで設備の破損などがたびたびあった。

そんなことを見てきた私にとって、ミャンマーはある分岐点さえくぐり抜ければ、急速に発展するだろうという予感がある。ミャンマーは50年ほど前までは東南アジアで最も進んだ先進国であった。私がタイ赴任前から懇意にさせて頂いている元大蔵次官チャンチャイ・リータウォン氏(初代タイ投資委員会〈BOI〉長官、商業大臣なども歴任されているが自分自身を紹介する時には、タイ人の階級社会では最も上位に位置する大蔵次官を引用する。現在87歳)によれば、彼の若い頃にはタイ人の金持ちはバンコクからヤンゴンに買い出しに出かけたそうである。

シンガポールは現在、1人あたり国民総生産(GDP)が日本の1.5倍までになったが、その国家創始者であるリー・クアンユー元首相も、当時先進国であったヤンゴンを訪れた。リー・クアンユー氏はヤンゴンの美しい街並みに魅了され、ヤンゴンの中心街を走るウィザーラ通りをまねてシンガポールのオーチャード通りを造った。

更には1961年から国連事務総長にミャンマーの教育者、ウ・タント氏が就任したが、国連事務総長のポストは先進国に次ぐ発展した国の出身者であることが暗黙の了解となっており、当時のミャンマーの地位の高さがうかがい知れる。いずれにしても、ミャンマーは第2次世界大戦後しばらくの間、世界の先進国であった過去と実績を持つのである。

更に私が心強く思っていることがある。今回、ミャンマーでお会いした日本人の方々は皆、ミャンマーが大好きで、熱くミャンマーのことを語られたのである。タイには「イタイイタイ病」というタイに居残りたい人たちが冒される病気がある。ミャンマーにも「ビルメロ」というビルマにメロメロになってしまう媚薬(びやく)があるようである。

ミャンマー発展のためには、日本ならびに日本企業の共同作業が必要不可欠である。今回の視察は、こうした日本・ミャンマー間の共同作業が行っていく基盤とも言うべきミャンマーの魅力を体感した旅であった。

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