п»ї 「芸術」をみるのではなく「考える」『WHAT^』第11回 | ニュース屋台村

「芸術」をみるのではなく「考える」
『WHAT^』第11回

11月 20日 2018年 文化

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。


この絵を見て「チョコレート磨砕器」の連想記憶を持つ美術ファンは少なからずいるだろう。筆者も高校時代の記憶となるが、実際のチョコレート磨砕器を見たことはない。20世紀初頭の芸術家マルセル・デュシャンによって「見ること」と「考えること」が交錯され、見たことを考える、考えたことを見えるようにする新しいアートが始まった。それにしてもマルセル・デュシャンの作品を美術館ではなく、博物館で見るとは思いもよらなかった(※参考1)。

20世紀後半に活躍した中西夏之のドローイングは素晴らしい(※参考2)。晩年の作品では、宮沢賢治の遺作に触発され、ドローイングを平面に並べるという画期的な試みを行っていた。印刷物を「見る」だけでは平面に配置されたドローイングを鑑賞することはできない。絵本の挿絵を分解したような効果がある。

本稿で紹介したいのは、21世紀を考えている中国系の作家リー・キットの作品だ(※参考3)。原美術館(東京都品川区)における展覧会なのに、原美術館自体を「さりげなく」作品にしてしまった。現代美術を見たことのある方なら、小さなキャンバスとプロジェクターによるインスタレーションの作品で、よくありそうな、意味のよくわからない作品に見える。「時代感覚」が描かれている、と筆者には感じられたのだけれども、やはり意味が分からないだろう。その作品はまさに「見る」ためのものではなく、展覧会場に足を踏み入れた時から、「考える」仕掛けを鑑賞者に仕組む作品なのだと思う。「僕らはもっと繊細だった。」という考えを表現するとしたら、どのような作品になるのかと考えてみると、その作品の深さと先見性が垣間見えるだろう。原美術館としては、リー・キットの異質性(メビウスの輪の裏側の政治性)についてゆけない、これが作品なのかという、戸惑いも感じられる。次回もリー・キットの紹介を続けよう。

(参考1)東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」 https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1915

(参考2)「中西夏之 日射のなかで -土神と狐-」展https://bijutsutecho.com/exhibitions/2674

(参考3) リー・キット「僕らはもっと繊細だった。」https://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/243/

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は何か気になることを、気の向くままに、写真と文章にしてみます。それは事件ではなく、生活することを、ささやかなニュースにする試み。

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