п»ї ウイルスの論理、もしくはシミュレーショニズム 『WHAT^』第13回 | ニュース屋台村

ウイルスの論理、もしくはシミュレーショニズム
『WHAT^』第13回

2月 13日 2019年 文化

LINEで送る
Pocket

山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。


ウイルスについて、病原性ではなく人類とは無縁に存在していたウイルスについて、人類は何も知らないということを知った。遺伝子解析の最新技術、次世代シークエンサーで明らかになったのは、ギリシャ哲学に戻ったような、明らかに近代とは異なる世界だった。次世代シークエンサーを使って、多くの無意味に変化するウイルスが明らかとなるだろう。ウイルスに関する新しい知識は「理解」可能なのだろうか。「理解」可能であったとしても、理解するよりも早く変化すれば、無意味に変化しているとしか言いようがなくなるだろう。それでも人類はウイルスと共存・共生・共進化するしかない。

ウイルスの論理で画期的なことは、「何でもあり」ということだ。ウイルスの増殖は感染細胞内に精密に構築された合成システムで行われる。細胞への感染は偶然性を最大限に味方につけた複雑なプロセスで行われる。人類が指向してきた巨大で複雑なシステムと、学習しやすく品質管理に適した単純なプロセスとは真逆の世界だ。唯物論か観念論かを議論するのではなく、唯物論も観念論も同時に実行してしまうような、生きていてかつ結晶化する物質でもあるウイルスの論理は近代理性の枠組みを超えている。

ウイルスの論理を芸術論としてイメージしてみよう。椹木野衣の『シミュレーショニズム-ハウスミュージックと盗用芸術』(ちくま学芸文庫、2001年)に描かれた世界はウイルスの論理にふさわしい出発点だろう。荒々しい1980年代の芸術論ではあるけれども、21世紀の今日でも色あせることのない名著だと思う。前回紹介したリー・キットは「おとなしく」政治性や自己主張が極端に抑えられているけれども、シミュレーショニズムの洗礼が無ければ、リー・キットのような作家は生まれてこなかったに違いない。シミュレーショニズムは美術史もしくはアート・ビジネスに感染したウイルスのようなものかもしれないし、そもそも美術とは無縁に、どこにでも存在していた社会的マイノリティーかもしれない。シミュレーショニズムは変化が速いので、存在というよりは出来事に意味が近いかもしれないけれども、サンプリングやリミックスという方法論は、そもそも意味など問題にしていない。

教科書の写真『Principles of Molecular Virology』(Alan J. Cann、Academic Press、2016)はミミ・ウイルスのように見える。病原性ではないけれども、巨大ウイルス発見で、ウイルス学者を大いに興奮させているウイルスだ。ウイルスを写真にとることができる、その写真の複製がネットで増殖する。シミュレーショニズムの時代はこれから本番だ。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は何か気になることを、気の向くままに、写真と文章にしてみます。それは事件ではなく、生活することを、ささやかなニュースにする試み。

コメント

コメントを残す