п»ї ウイルス・人工知能・人類の共存・共生・共進化:データエチカ(2)『住まいのデータを回す』第17回 | ニュース屋台村

ウイルス・人工知能・人類の共存・共生・共進化:データエチカ(2)
『住まいのデータを回す』第17回

2月 26日 2019年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

前稿の最後は、「ウイルスと共に生活するような……本質的にランダムな世界を記述する方法で、『共存・共生・共進化』について考えて、ある一つの概念またはキーワードにたどり着くことを目指す……それはスピノザが語らなかった『所与』に関する非決定論の世界となるだろう」と結んだ。「共存・共生・共進化」を一つの概念またはキーワードで表現するときに、最も重要なのは「共生」であって、ウイルスを中心にして生命とは何かという問いを再考したい。

コンピューターのライフゲームを発展させて、自己増殖するコンピュータープログラムとしての人工生命の研究が注目されたことがある。自己増殖するコンピュータープログラムとしては、IT犯罪の代表格であるウイルスプログラムのほうが実用的(犯罪者にとっては)かもしれない。IT犯罪に限らず、犯罪率がゼロの社会は存在しないので、ヒトは犯罪と「共存・共生・共進化」してきた。エミール・デュルケム(19世紀フランスの社会学者)は、犯罪などの社会現象の「共存・共生・共進化」に「社会」の本質を見いだした。ウイルスやウイルスプログラムは「データ」として「ヒト」と「共存・共生・共進化」しているというのが筆者の主張だ。

哲学の文脈では、「データ」は属性に対する所与として、個体差を伴う偶有性として理解されてきた。その「データ」のイメージを、本稿では生命と重ねて理解しようと試みている。「データ」はコンピューターにとっての「自然」であり、コンピューターと「共存・共生・共進化」する近未来のために、「データ」のイメージを再考している。「神すなわち自然」(17世紀オランダの哲学者スピノザが主著エチカにラテン語で記した”Deus, sive Natura”、英訳は”God, or Nature”)が理想とした近代理性主義が終焉(しゅうえん)し、非人格的で偶然性が支配する「データ」の時代となる。近代理性主義の終焉は、エチカの結びの言葉「とにかくすぐれたものは、すべて希有であるとともに困難である。」が的確にとらえている。「データ」には優劣はなく、すべて過剰であるとともに容易になってしまった。近代自然科学の発展において、「自然」のイメージは、量子力学以降、一部分ダーウィン以降に、すでに非人格的で偶然性が支配する世界となっている。ビッグデータやの人工知能(AI)の「データ」の時代では、科学から技術へと非人格的で偶然性が支配する世界のイメージが広がり、「生活」もデータ化される。

現在の自分の気持ちを正直に書いた文章、もしくは現在の自分が書きたいことを書いた文章は読みやすい(堀江貴文『僕たちはもう働かなくていい』小学館新書、2019年2月)。哲学の文章とは比べようもないけれども、そもそも哲学者は自分でもわからないことを書いたり、わかっていることをあえて書かなかったりする。堀江は、AIが世界をリデザインする、というけれども、哲学者は実際に世界をリデザインしてきた。AIロボットと共存・共生・共進化するアンドロイド哲学者は、どのような文章を書き、どのように世界をリデザインするのだろうか。

◆「ランダムなひとびと」はデタラメではなく、厳密な意味でランダムな生活者

厳密な意味でランダムな生活者、その代表格はウイルスだろう。ウイルスというと寄生生物のイメージで、独立な生活者を想像しにくい。ランダムな生活者は、そのランダムネスの定義からから考えて、独立な生活者でなければならない(確率論における独立性の定義は一通りではないとしても)。しかし、ウイルスがウイルス粒子の状態の時、結晶化してしまうかもしれないような物質であり、生物ですらないかもしれないので、間違いなく寄生生物ではない。細胞に感染したウイルスは、自己と感染細胞を区別せず、場合によって感染細胞の遺伝子の中に自己のコピーを挿入してしまうので、やはり寄生生物とは言い難い。感染細胞内でウイルス粒子を大量生産するとき、その素材やエネルギーを感染細胞から得るため、寄生しているように見えるけれども、そのような寄生は長続きせず、大量のウイルス粒子を製造し終わると、感染細胞ごと増殖装置も消滅する。しかし確かに、ウイルスの遺伝子は感染細胞の遺伝子と「共存、共生、共進化」している。ウイルスとは、ウイルス遺伝子のライフサイクルなのだ。

そもそも、寄生生物ではない生物など存在しない。多細胞生物を構成する一つの細胞は、多くの栄養素を身体全体から供給されているので、寄生生物のようなものだ。ガン細胞とは異なって、正常細胞は何らかの身体機能を分担し役立っている。細菌に感染するウイルスのバクテリオファージは、抗生物質への薬剤耐性を示す遺伝子を他の細菌に配布し、細菌の生存に役立っている。医学的には厄介な存在だ。エルヴィン・シュレーディンガーは『生命とは何か』(岩波文庫)において、「生命は負のエントロピーを食べて生きている」と画期的な生命観を述べているが、筆者の文脈では、生命は寄生生物であると読める。ウイルスは自分の周囲に負のエントロピーを寄せ集めて生きている。

エルヴィン・シュレーディンガーは自分が作り出した波動方程式(量子力学の基本的な方程式)の確率論的な解釈に納得していなかったらしい。シュレーディンガーの猫、生きている猫の状態と死んでいる猫の状態の重ね合わせが、観測によって一瞬にして生か死の状態となるたとえ話は有名だ。現在の量子確率のように、生きている猫の状態と死んでいる猫の状態が単なる重ね合わせではなく、ある程度の相関をもって縺(もつ)れている話になると、シュレーディンガーだけではなく、多くの人々が違和感を持つに違いない。しかし、縺れた量子状態は実験的に確実に存在している。厳密な意味でランダムな量子のイメージから、ランダムな生活者であるウイルスをイメージしている。

自分でもわからないことを書いているので、読みにくい文章となってしまい申し訳ないのだけれども、言いたいことは、ウイルスのこと、特に感染症の原因にならない大多数の環境中(または遺伝子中)のウイルスについて理解を進めることで、コンピューターと「共存・共生・共進化」するための「データ」との付き合い方を学びたい。データはデータベースに格納して品質管理するという、筆者の職業病的なイメージから脱却して、ウイルスをイメージしながら、データが勝手に自己増殖し、淘汰(とうた)され、創発して自己組織化するような世界を垣間見ようとしている。

◆AI技術は社会的な貧富の格差を生活者と組織労働者へ異質化する

現在の社会は、国家内での貧富の差の拡大と、国家間の貧富の差の拡大という、おそらく近代理性主義と資本主義社会の枠組みでは解決できない問題を抱えている。理想に満ちた政治的な革命ではなく、政治の機能不全と失敗の積み重ねの結果としての失業者と難民によって変革が余儀なくされる、持続不可能な社会となってしまった。筆者はこの現状を、政治や社会の問題ではなく、農耕から始まる産業技術を中心とする機械文明の転換点と考えている。より正確には、機械を使う産業活動のための、職業的な分業体制と教育のあり方が大きく変わらざるを得ないだろう。『僕たちはもう働かなくていい』の細部は別問題として、大きな流れは変えようが無いはずだ。自爆テロをするテロリストと傭兵(ようへい)が、共存・共生・共進化する「職業」となるような時代は終わらなければならない。

以前、本論で生活者は自分の生活データから生活モデルを作り(実際はAIプログラムが作る)、ベーシックインカムのような収入を得る社会モデルを提案した(※参考1)。本論で模索した「住まいのデータを回す」仕事は、従来の消費者・生産者の構図に代わるものとして、生活を底辺で支える行為を「労働」とみなしている。『僕たちはもう働かなくていい』においては、生活を底辺で支える労働をAIロボットに任せているけれども、堀江の立場から考えて、生活を底辺で支える行為が「楽しい」のであれば、それは「労働」とみなさないだろう。生活を底辺で支える行為が「楽しくない」のであれば、ヒトは生命として持続可能ではなくなるだろう。「楽しいこと」も含めて、神が与えた可能性の全てを試行することは、スピノザの考えた最高善への道程であって、「ランダムなひとびと」は、そのような近未来の生活者の物語となるはずだ。ウイルスは可能性の全てを愚直に試行して、生命の共進化を加速している。

AI技術は現在の「労働」のほぼすべてを組織労働にしてしまうだろう。現在は効率が必ずしも良くない国家やグローバルな巨大企業の労働効率が、巨額のAI技術投資により大幅に改善する場合、ベンチャー企業や中小企業もネットワーク化して、一部のエリートを中心とする組織労働となる。GAFA(Google、Apple、 Facebook、 Amazon)のような創業者が独占支配する企業は当然として、国家もAI技術により独裁化することを恐れる必要はない。AIを君主とし、AIが組織労働を監視する立憲君主制もありうる。平和・平等・民主主義は大多数の生活者を守る理念として、組織労働者の生活自体をも守る理念として、AI技術を規制できるのであれば、組織労働はAIを効率よく使うための労働と割り切ればよい。

AIの覇権世界は、結局GAFAや米国が支配する世界になるのだろうか。多様性に満ちた生活者が健全に活躍し、国際的に連携できるのであれば、もしもAIが組織労働を支配したとしても、大多数の生活者がAIを適切にコントロールできるだろう。プログラマーは芸術家のように組織化しにくい生活者が似合うし、AIプログラマーが組織労働者となることを憲法で禁じておくことも一案だろう。AIプログラム化した憲法が、AI技術を駆使することで独裁的な権力を有するエリートたちの行動を監視する。

◆生活者はプロセス志向の回るデータ、組織労働者はシステム志向の線形データ

ウイルスのライフサイクルは驚くほど多様で、生命体としての可能性の全てを試しているとしか言いようのない、想像力の彼方である。生活者のライフサイクルも相応に多様で、文学者や芸術家の想像力を刺激し続けている。私とは、私というライフサイクルを生きる生活者のことだと思う。ウイルスのことを考えれば、キリストもデカルトも問題にならない。彼らはウイルスのことを考えたことはなかったはずだ。しかし、キリストは生活者を見事に見抜いたのに、デカルトには生活者は見えていなかった。デカルト座標を発明したことで、線形世界の優位性が確立され、システム志向となり、組織労働者が出現したことまでデカルトの責任とは言えないかもしれない。しかし、デカルトに決定的に影響されて、デカルトを乗り越えようとしたスピノザは、生活者としての視線を見失わなかった。スピノザの神は生活者の神でもあったのだろう。私たちがキリストによる救済と、スピノザの英知を乗り越えて生きてゆくことが出来るとすれば、それはウイルスの世界を直視する勇気だと思う。

現実の物理的世界および心理的世界が線形でないことを知らない人はいないと思う。線形モデルを知らない人がほとんどだとしても。安易な類推ではあるけれども、アナログの世界といえばわかりやすい。これに対して、生物の遺伝子も遺伝情報としてはデジタルであって、デジタルの世界は線形モデルの世界だ。特に、アナログ世界の対応物が無い「データ」が、データベースに格納されている状況は、抽象的な線形世界としてモデル化される。組織労働者はそのような「データ」の世界において、コンピューターを駆使して労働を行う。ウイルスとの類推では、組織労働は、感染細胞中のウイルス増殖装置のようなもので、生活者の社会の中の、コンパクトで効率の良いシステムだ。組織労働者はコンピューターに支配されて、線形世界で機械仕掛けのような労働を行うのだろうか。データとコンピューターシステムは線形世界だとしても、組織労働者が働く組織全体が線形世界となることは考えにくい。縦の順序関係だけが定義され、横は並列的な現在の組織形態をさらに柔軟にして効率よく運用できるように工夫されるだろう。コアな線形世界にピラミッド型の組織がルースカップリング(※参考2)されることを想定している。

生活者と組織労働者もルースカップリングされる。ルースカップリングは日本を代表する生物物理学者である大沢文夫(1922年~)が提唱した生物機械の動作原理で、充電ができる無段変速クラッチのようなものだろう。本論で考えてきた「共存・共生・共進化」を一言で表現すれば、ルースカップリングなのだと気が付いた。ルースカップリングの特徴は、それぞれの要素がある程度の独立性を保って協働すること、さらに余剰のエネルギーを備蓄する機構があることだとして、その二つの特徴を整合する土台となっているのが「データ」なのだと思う。ウイルスも宿主生物とルースカップリングしている。

◆ライフサイクルの数理モデルとしてのルースカップリング

本稿『住まいのデータを回す』は、認知症と共に生きる人類のあり方を模索していた。コンピューターやウイルスと共に生きること自体が本論の目的ではない。コンピューターやウイルスと共に生きるしか方法はないのだから、せめて認知症について「データ」が出来ることを考えておこうという、筆者の職業的な論考だったはずだ。しかし、データサイエンティストという職業は、組織労働とするには危険すぎる。データサイエンティストは生活者として生活しながら、認知症と共に生きる人類のあり方を模索するほうが好ましい。ウイルスが認知症の原因とは思えないけれども、ウイルスは認知症と共に生きてゆくありかたを、「データ」として人類に教えてくれるだろう。「住まいのデータ」として集積・分析するのは、自分たちの体内も含めた身近な環境のウイルスのデータであることを想定している。

『住まいのデータを回す』第5回全体構想(※参考3)には、「……リハビリテーション医療はWHO(世界保健機関)の『国際生活機能分類(ICF)』をデータ属性として定量的に評価されるようになった。ICFをデータ属性とすることで、日常生活データ全体を包括的に集積し分析することが可能になる。」と記した。構想からは逸脱して、17回の本稿において、「ウイルスの環境データを集積・分析するために、ICFを生活環境のデータ属性とする」と、より具体的な方向修正を行いたい。

ヒト・ゲノム解読の歴史からも明らかなように、データを分析できても、データの意味は理解できない。データの意味を理解するためには、データ世界のモデルを仮定する必要がある。ウイルスのデータを理解するためには、ウイルス世界のモデルを定式化、少なくともイメージする必要がある。ウイルスとは、ウイルス遺伝子のライフサイクルであると仮定してみよう。現在のウイルス学は、ウイルス粒子が宿主に感染して増殖する、ウイルスのライフサイクルの一部分を中心にして、ウイルスの世界をヒトの立場から理解しようとしている。そもそも、ウイルスにはDNAウイルス、RNAウイルス、RNA逆転写ウイルス、1本鎖、2本鎖、環状など、ゲノム構造とゲノム量が大きく異なるウイルスがあり、それぞれウイルス遺伝子のライフサイクルは大きく異なる。プリオンのようにタンパク質だけの生物(?)もありうる。宿主は細菌、藻類、菌類、ウイルス自身など、全ての生物が宿主となりうるし、宿主が他の生物の食物となり、寄生生物となることもありうる。ウイルスの世界は決定的に多様なのだ。

ウイルスの感染過程を数理モデルで表現することは成功しているけれども、ウイルス遺伝子のライフサイクルを数理モデルとするとなると、どこから始めてよいかもわからない。数学において決定的に多様でしかも身近なものは素数だろう。一方で、データ解析に最重要な乱数を一般化したランダム行列の理論から、素数の分布に関する研究が始まっている(※参考3)。以前の全体構想では「スパースなランダム行列を作り出すランダムネットワークの理論が、どのように進化論に役立つのかは今後の課題となる。」と記した。このときは、データ行列の理論からランダム行列について考えてみたのだけれども、ウイルスを「データ」として考えた場合、特にウイルスのデータであれば、ランダム行列を出発点にすることはありうる選択肢だろう。ランダム行列の指数関数や対数関数は、それぞれウイルスの増殖過程や宿主ゲノムへの内在化のプロセスをイメージするのに役立つと思われる。ウイルス遺伝子のライフサイクルをランダム行列として表現(モデル化)する場合、ランダム行列としてのルースカップリングをイメージすることができれば、ウイルスの世界を数理モデルとして垣間見る第一歩になるだろう。ランダム行列としてのルースカップリングは、ランダム行列の指数関数や対数関数が存在する条件、線形世界として正則な行列と例外的な行列の境界に見出されるのではないかと、勝手に夢想している。

最後は夢物語になってしまった。数理モデルもウイルスデータも、実際に実務で取り組まないと夢物語からは脱却できない。AI技術を使ってウイルスの世界を理解しようという提案は、まだ異端でしかないかもしれないけれども、最も身近な問題であることも確実だと思う。GAFAや米国が宇宙開発に向かうとき、最も身近な認知症やウイルスの問題に取り組むことで、AI覇権を折り畳み、AI技術や「データ」の独占を無意味なものとして、データ世界を人類共通の財産としよう。「データ論」への助走はこの程度にしたい。

スピノザが主著エチカで語ったこと、それは「属性」に関する決定論だった。現代フランスの哲学者でスピノザ研究の顕学、ジル・ドゥルーズは最後までスピノザにこだわり、「スピノザと3つの『エチカ』」(『批評と臨床』、河出書房新社、2002年)という文章を遺している。「属性」に関する決定論を、公理と証明によって展開した共通概念としてのエチカは第2のエチカであって、第1のエチカ、注解に記された「記号」と情念としてのエチカ、第3のエチカ、第5部における「本質」が、証明というよりも自明なことがらとして簡潔に記載されるエチカ、が重層的にエチカ(倫理書)の世界を構成しているという。ジル・ドゥルーズはスピノザが語らなかったエチカ、「所与」に関する非決定論の世界については多くを語らない。「所与」としての個体差について、ライプニッツが多少書き残しているけれども、ライプニッツはバロックの世界なので、結局、スピノザの「光」しかない色彩の世界のほうが近代の出発点となった。「所与」に関する非決定論の世界は、ウイルスやコンピューターと共存・共生・共進化する世界に勇気をもって踏み入れない限り見えてこない。次稿からの「データ論の準備」では、「所与」すなわち「データ」に最大限の独立性を与え、「ランダムなひとびと」とルースカップリングする世界の見取り図を、その入り口から覗(のぞ)き込み、無謀にもマップ化することを試みる。

参考1:機械文明を量子化する冒険と不条理な愛『住まいのデータを回す』第11回
https://www.newsyataimura.com/?p=7327

参考2:ルースカップリングの解説;高分子Vol50(4),p231、大沢文夫,2001年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kobunshi1952/50/4/50_4_231/_pdf

参考3:『住まいのデータを回す』第5回、全体構想
https://www.newsyataimura.com/?p=6902

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