п»ї ノーベル文学賞、受賞できなくても『ジャーナリスティックなやさしい未来』第27回 | ニュース屋台村

ノーベル文学賞、受賞できなくても
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第27回

10月 17日 2014年 社会

LINEで送る
Pocket

引地達也(ひきち・たつや)

仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。一般社団法人日本コミュニケーション協会事務局長。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。

◆ハルキフィール

ここ数年、ノーベル賞の季節になると村上春樹の文学賞受賞の可能性が取り沙汰される。そして、今回も受賞はならなかった。サイエンス部門とは違い、文学は思想的でもあるから、ノーベル賞受賞でその「権威」が与えられた受賞者が時の政府に盾突く行為が民衆とともに力を帯びることもある。

1997年受賞のダリオ・フォ(イタリア)は風刺劇で知られるが、後に「9・11」後の米国の行動を徹底的に批判し、1999年受賞のギュンター・グラウス(ドイツ)も政治的発言が注目を集めた。2000年受賞の中国人、高行健は結局、フランスに政治亡命している。

日本でも受賞者の大江健三郎が反原発活動を活発に行い、運動の象徴のようになっているから、これは外国の話ではない。そして、村上春樹が受賞するとなると、普段、表に出ない方針の彼であるから、その発言は注目されるし、スピーチでは当然ながら彼なりの言い回しで、現政権や今の日本社会を評価するであろうから、やはり政府は、特に安倍晋三政権は、内心、警戒と心配が交差していたのだと思う。

私の場合、村上作品は読んでいるものの、出版直後の喧騒(けんそう)から離れ、新刊出版1~2年後に読むサイクルが続いている。その行為は「熱心なファン」ではないと叱られるかもしれないが、正確に真意を読み取りたいという読者であることは間違いない。

そして随分と前から、なぜこれほどまでに村上春樹が「世界中で」読まれるかの疑問を解決しようとするが、なかなか納得した答えはない。同じような疑問に挑み、その解(かい)を示したような論考もあるが、私の納得までには至っていない。

最近ではその探求もおろそかになっているが、韓国在住の時に、解に近づいた瞬間があった。それは、韓国でも韓国語訳が出ればベストセラーになる村上春樹を慕う人たちとの交流からである。

キーワードは「ハルキフィール」。村上春樹好きの韓国人の好む新たな感覚、のようなもので、そのモチーフは小説の中にある。例えば、ホテルのバーで一人カクテルを飲むこと、新鮮な野菜を買い込んで自家製のサラダを作ること、おいしいパン屋のおいしいパンの焼き上がり時間を知っていること、など。高度経済成長を成し得た韓国で、豊かな人が外国文化の接触で発出した、ちょっとキザなサブカルチャー、である。

このハルキフィールは、90年代のことだから、すでに歴史となったが、相変わらず人気は高い。政治的関係が冷え込んでも、村上春樹に衰えはない。

村上の小説に癒やしの場として頻繁に登場する森は爽やかだけど鬱蒼(うっそう)としていて、それは日本の風景でしか有り得ないし、韓国にはそのような「鬱蒼とした森はない」と結論づけていたから、『ノルウェイの森』(韓国語題は『喪失の時代』)が大ヒットしたメンタリティーが理解できず、2003年に『海辺のカフカ』の訳者である韓国人の金春美・高麗大教授に尋ねたことがあった。

「韓国人は村上春樹の森を理解できるのでしょうか」「あのような森は韓国にはないはずだ」と。彼女は笑いながら、「同じような森は韓国にもあります」と明解に答えた。その答えから、都会と森を結びつける思想こそが重要であって、森は「それぞれのイメージする森」であれば事足りることを知った。

◆普遍的な価値

つまり、村上春樹が示す世界のイメージは人々の心の奥底でつながっている。つながっているのが見えるかのように、村上春樹は表現する。その地球を俯瞰(ふかん)するような感覚的なメタファー(隠喩〈いんゆ〉)の絶妙さが作家としてのすごさ。だから、受賞した村上春樹が言う言葉は世界中で注目されるだろう。

安倍首相のスピーチよりも何百倍も、影響があるのだ。村上春樹は日本語でスピーチすることはなく、英語での話となるから、なおさら表現はストレートでより地球を俯瞰したものになるかもしれない。彼自身、日本で、もしくは日本語で講演をせずに、英語でスピーチする理由を書いたものがいくつかあるが、その中から以下を引用する。

「日本語に関していえば、僕はやはりできる限り、机に向かって1人で文章を書くという営為にしがみついていたいと思う。文章というホームグラウンドでは、僕はそれなりに自在に有効に言葉と文脈をキャッチし、かたちに換えていくことができる―なにしろそれが仕事だから。しかしそのようにしてつかみ取られたはずのものを、人前に実際に声に出して語ってみると、そこから何かが(何か重要なものが)こぼれ落ちていくという切実な感覚がある。そのようなある種の乖離(かいり)にたぶん僕は納得できないのだろうと思う。(中略)しかし外国語を用いて話を組み立てようとすれば、僕は与えられた言語的選択肢と可能性は必然的に限られたものになるから(英語の本を読むのは好きだけれど、英会話はかなり不得意なのだ)、そのぶんかえって気楽な気持ちで場に臨むことができる。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』より)

◆政権をどう表現するか

09年にイスラエル賞を受賞した際のスピーチでは、「壁と卵」と題してイスラエルのパレスチナ政策を批判し、国籍・人種を超越しているのが人間という普遍的なメッセージを投げかけた。このスピーチがノーベル賞を受賞できない理由に挙げる指摘もあるほど、その言葉は正確で力強い。

2011年のスペイン・カタルーニャ国際賞の授賞式スピーチでは、東日本大震災による福島第一原発事故を受けて、原発に「ノー」を言い続けなければならない、ときっぱりと言い放ち、その表明が世界中を駆け巡った。

今回の受賞はならず、その機会がいつ訪れるか見通しはないが、現在の日本を、そして世界を、村上春樹はどう捉えるのか。そして原発に「ノー」を言わない現政権を、どう表現するのか。多くの人が静かに、その動向を注視しているのは間違いない。

コメント

コメントを残す