п»ї ボルネオ島の猫の街クチン『マレーシア紀行』第6回 | ニュース屋台村

ボルネオ島の猫の街クチン
『マレーシア紀行』第6回

10月 31日 2014年 国際

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マレーの猫

エネルギー関連業界で30年以上働いてきたぱっとしないオヤジ。専門は経理、財務。実務経験は長く、会計、税務に関しては専門家と自負。2012年からマレーシアのクアラルンプールに単身赴任。趣味は映画鑑賞、ジャズ、ボサノバ鑑賞、読書。最近は浅田次郎の大ファン、SF小説も

マレーシアでの単身駐在期間が長くはなってきたが、それでもこの国のことをあまり知らない私があれこれ書くのは気が引けるが、旅行記第6弾を書くことをお許しいただければと思う。今回紹介させていただく場所は、首都クアラルンプールからはちょっと遠いが、東マレーシア(ボルネオ島)の玄関口であり、サラワク観光の拠点でもあるサラワク州の州都クチンである。クチンはマレー語で猫という意味なので、街中様々なところに猫の置物があり、また猫博物館まであったのには驚かされてしまった。

◆現在も強大な自治権を持つ地域の中心地

まずクチンの歴史について述べる前に、地理的な説明をさせていただく。場所としてはクアラルンプールのあるマレー半島ではなく、東マレーシア(ボルネオ島)の西のインドネシアとの国境近くにある都市である。クアラルンプールからは飛行機で行くのだが、観光地として有名なコタキナバルよりはずっと近く、東マレーシアの空の玄関口と言える場所に位置している。そのためクアラルンプールからは、1時間30分程度で到着することができた。

サラワク州は今から170数年前までは、ブルネイの王様(スルタン)の支配下にあり、ラジャ(その地区の支配者、王?)によって統治されていたそうである。1839年にクチンにやってきたイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックが40年にクチンで発生したダヤク人の暴動について当時のラジャから、もしこの暴動を平定したらラジャの地位を譲ると言われ、英国海峡植民地政庁と協力して、この暴動を鎮圧したのであった。

その後約束通り彼がラジャに任命され、サラワクを割譲されて、41年に「初代白人王」として彼自身が統治するサラワク王国が建国されたそうである。

クチンは当時からサラワクの首都とされ、サラワクの政治経済の中心地として栄え、重厚なコロニアル調の建造物が次々と建てられていった。その後100年間はブルック家が統治したが、イギリスの軍事力や政治力を背景に、ブルネイ(現在のブルネイより領土は広かった)の領土を少しずつ獲得して、国土を拡大していったのである。

しかし1941年12月24日に日本軍に占領されてしまい、第2次世界大戦が終わるまで、日本軍の軍政下に置かれることとなる。そして45年に日本が降伏したあとに、オーストラリに亡命していたブルック家の3代目当主ヴァイナー・ブルックがそのラジャの地位に就くことを辞退したため、サラワクはイギリスの直轄植民地となって、クチンはその中心地となったそうである。

63年にサラワクはマラヤ連邦と合併し、その後連邦制国家のマレーシアへ統合されたが、現在でも強大な自治権を持つ地域となっている。これはサバ州にも言えるが、サラワク州とサバ州はマレーシア国内にある13の州と三つの連邦直轄領の中でも別格というか、自治権が特に強い。

そのため、我々マレーシアのビザを保有している日本人が半島部を国内旅行する場合にはパスポートを携帯していなくても特に問題にはならないが、サラワク州やサバ州に行く場合にはパスポートを携帯しなければならず、空港では必ずパスポートを提示して入出管手続きを受けなければならない。同じマレーシア国内の一つの州ではあるが、一つの国家のような自治権を保有しているのである。

◆街のシンボルは猫

この地の名前の「クチン」の意味はマレー語では猫であるが、クチン周辺に果物の「マタ・クチン(別名ロンガン)」の木が数多く自生していたためという説や、最初に入植したインド人のヒンドゥー語の「コーチン(港)」から「クチン」という名前が付けられたという説もあり、はっきりしてはいないそうである。

ただ現在では猫という意味が定着しており、猫が街のシンボルとなっているため、街の様々なところに猫の彫像があり、市庁舎内には「猫博物館」まで造られていた。また、毎年「猫祭り」が開催されるそうで、市章にも猫があしらわれている。

◆渡し舟が市民の大事な交通手段

街の中心部は茶色のサラワク川(東南アジアの川はほとんどどこも茶色であるが)の両岸に開けている細長い街で、川の南側が旧市街地であり、ブルック家が統治していた時代は、南側が町の中心地だったそうである。街の観光名所となっているカーペンター通りやインド通り(India Street)、モスクなどを歩いて回ったが、華人系の商店が多く、インド通りという地区も半数近くがインド人の商店ではなく、華人の金細工屋(Goldsmith)であったのには驚いてしまった。

街の中には道教の中国寺院が何カ所かあり、華人が多く住む街であると感じた。私が泊ったホテルはサラワク川南側にあり、川に面していたので、朝食時は川を見ながら食事を楽しむことができた。

また、この街には色々な料理店が多く店を構えており、どこで食事をしたらいいか迷ってしまうほどで、クアラルンプールと比べると物価もかなり安いと感じた。

サラワク川には橋が少なくて、渡し舟が市民の大事な交通手段となっており、対岸の住宅街と南側の市街とを行き交っている風景もなかなか趣がある感じであった。

◆インド人と華人が共存する国際都市

クチンにはマレー人や華人、インド人に加え、サラワク州にいる26以上の先住民族も移り住んできているそうである。またオーストラリア人の定年退職者などもセカンド・ホーム・プログラムで長期滞在しているとのことだった。確かに街では観光客ではない感じの西洋人を結構見かけた。そのため、かなり国際都市と言える雰囲気がある街だと感じた次第である。

マレーシア国内ではどこでもそうであるが、華人とインド人がうまく共存している雰囲気についてはいつも感心してしまう。インド人街では華人も店を開いており、また華人街でインド人が店を開いているのは普通に見られる光景である。

私の全く勝手な解釈であるが、どちらの人種も商売に長けており、商売に関して価値観が似ているので、商売上の信頼感に限って言えば、お互い波長が合うのではないかと推量する。どちらも計算能力が高く、商売に関する感覚が同じであり、商売をする上でお互いやり易いのではないだろうか? 

マレーシアに来て驚いたのであるが、純粋なマレー人には暗算ができない人も結構おり、ゴルフのハーフのスコアを集計する時に電卓が必要な場合がある。インド人や華人ではまずそのような人はいない。ただ欧米人でも暗算が苦手な人は結構いるようで、その点インド人、華人とは違うのである。マレーシア国内でインド人と華人が仲良く共存しているのは、商売に関する波長の同質性があるのだろうと、私の偏見だとは思うが勝手に納得してしまうのであった。

◆観光名所マルガリータ砦

マルガリータ砦(とりで)は、1879年に周辺の海賊からの防衛のために建てられたサラワク川北岸の砦で、時のラジャ(国王)、ブルック家2代目当主チャールズ・ブルックの妃マーガレットにちなんで付けられた名前だそうである。

現在は周りに木が生い茂り、砦からサラワク川は少ししか見えないが、当時は砦として川を見渡せる状態であったと思われる。現在は「警察博物館」として管理されているが、観光名所になっている。私は1泊した翌日の正午ごろ、渡し舟に乗って対岸へ行ってマルガリータ砦を訪問したが、観光客が1人いただけで他には人がおらず、その観光客も帰ってしまったので、たった1人になった。

砦の脇にはブルック家の人々の慰霊碑があり、英国聖公会仕様の十字架が建てられていた。そのためか、私は何度か訪れたことがある横浜市保土ヶ谷区狩場町にある「英連邦戦死者墓地」を思い出したのであった。この白亜の砦と周りの緑の芝生の雰囲気が同墓地の雰囲気ととても良く似ており、何とも崇高な気持ちになった。また、私自身は建築物や絵画、彫刻、音楽、映画など芸術に関してはイタリアを高く評価しているが、この地を訪れて、英国人のセンスの良さにも改めて感心させられた。

◆長期滞在したいと思わせる街

最後にクチンを訪問した感想である。以前キャメロン・ハイランドを訪問した時にも長期滞在したいと思ったが、このクチンにもそのような思いを持った。やはり街の雰囲気がのんびりしていること、また街中がクリーンな感じであり、加えてタクシーや渡し舟を含め料金が統一されていて、人からぼったくろうとかそういった感じが全くなく、どこも観光客に対するもてなし方が素晴らしいと感じたのがその理由である。

このような印象を持った街は、マレーシア国内にはそれほど多くないというのが私の正直な気持ちである。

クチンにあるマルガリータ砦=筆者撮影

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