п»ї 人づくりは教育から―日本がもう一度輝くために(3)『翌檜Xの独白』第3回 | ニュース屋台村

人づくりは教育から―日本がもう一度輝くために(3)
『翌檜Xの独白』第3回

10月 18日 2013年 社会

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翌檜X(あすなろ・えっくす)

企業経営者。銀行勤務歴28年(うち欧米駐在8年)。「命を楽しむ」がモットー。趣味はテニス、音楽鑑賞、「女房」。

これまで、日本が再び輝くためには個々人の自立化が不可欠との話をしてきました。その点で旧聞には属しますが、私自身の体験をについてお話します。それは今から30年以上前のことですが、欧州のビジネススクールを卒業する時のことでした。

日本からは全員企業派遣だったため、全員がいったんは派遣元の企業に帰ったわけですが、その他の国から来た人たちは一部を除くと全て自費での参加でした。そして、それらの人たちの就職先は当時の日本人の常識からはかけ離れたものでした。

あくまでも私自身の印象でしかないのですが、最もできる人たちは新しい事業を立ち上げたり、友人とブティックを作ったりしました。その次にできる人たちはグローバルなコンサルタント会社を選びました。その次の人たちは投資銀行のようないわゆるプロフェッショナルな機関を選びました。そして最後に残った人たちが選択したのが、大企業や大銀行でした。

一方、毎年行われるわが国の就職の人気ランキングを見ていると、相変わらず“寄らば大樹”という風潮が感じられます。最近でこそ学生が起業したり、若い人たちが企業からスピンオフして事業を立ち上げたりすることが散見されるようになりましたが、しょせんは例外レベルでしかありません。

このように、わが国では大組織に属すること自体が価値であるとの認識が敷衍(ふえん)しているようですが、欧米では規模やその時の社会的なステータスよりも自分のやりたいことを重視する機運が強いような気がします。このような現象の違いの原因としては大きく二つの点が考えられます。一つは「教育」、そしてもう一つは「制度(規制)」だと思います。

◆GIFTを豊かに伸ばし、命を楽しむことを教える

まずは教育について考えたいと思います。現象面で見た課題は大きく二つあります。一点目は、幼い時ほど勉強することを強いられる半面、大学では真面目に学問・研究をする人間が極端に少ないことです。

そしてもう一点は、没個性の人間が再生産され続けることです。教育は一国にとって最も重要かつ基本的なインフラだと思います。20年後、30年後にその国がどうなっているかは、どんな教育を受けた人間がその国を構成しているかに懸かっています。

本稿の第1回で、人は生まれながらにして不平等な存在であり、自立はこの認識からスタートすると述べました。人はそれぞれ異なる資質(GIFT)を持っています。私は、このGIFTという言葉が好きです。われわれ人間は自然の一部であり、生かされている存在です。そして各自がそれぞれに楽しむべきGIFTを与えられているのです。この認識こそが教育の原点であるべきだと考えています。

画一的な基準やその時々の通念で人は判断されるべきではありません。また、教育の目的は画一的な基準による画一的な人間を効率的に生産することではありません。真に大切なことは、各自に与えられているGIFTを豊かに伸ばし、命を楽しむことを教えることです。

そのためには個性を重んじ、幼いころから自分の持ち味を意識させてあげる必要があります。もちろん社会人となって暮らしていくうえで必要な最低限の知育や倫理教育が必要であることは論を待ちません。言いたいことは、現行の画一的な知識の詰め込みだけでは没個性の意見を持たない人間を生み出すだけだということです。

実際、今日本の政財界のリーダーと呼ばれている人たちの中に一個の人間として魅力的な人物・個性がどれだけいるでしょうか? 私自身にはとてもそんなことを論評する資格がないことは十分に承知しつつも、真に魅力的な人物は意外と少ないような気がします。

◆教育に不可欠な教師の質と家庭の役割

追いつけ追い越せの高度成長・大量生産時代ならともかく、創造力や新たな領域の開発が求められるこれからの時代に必要とされる人間は、一芸に秀でた尖(とが)った人材です。「好きこそ物の上手なれ」とはまさによく言ったもので、人は好きなことに打ち込んでいる時にはわれを忘れ、時間を忘れます。幼い頃から自分の資質を意識し、それを伸ばすことを楽しみにする。そして自らのアイデンティティーを確かめる。これができれば、つまらない比較や妬(ねた)み嫉(そね)みなどという低劣な感情からは解放されるような気がします。

また、好きなことを意識した上で高等教育に進めば、学問することが当たり前となり、ブランド力のある大学を出ることだけを目的とするような学生は減っていくでしょう。自分の属する組織や会社のブランドの後ろ盾なしには自らを主張できないタイプの人間も減っていくでしょう。そのためには、現行の文部科学省・日教組・形ばかりの教育委員会という枠組みではどうしようもないことは自明です。

教育を考える上でもう一つ不可欠な要素があります。それは教師の質です。上述のような教育を実践するには人間を深く理解し、それぞれの資質を開発できる能力を持った懐の深い人が教育者として必要です。他にやることがないから教師でもやるかとか、安定しているから教師になるといった教育への志の乏しい人たちでは尊敬の対象になりえません。

教師という職業がやりがいのある職業、尊敬の対象となる必要があります。そのためにはその処遇はもっと高められるべきですし、自由度も広げられるべきです。江戸時代末期から明治にかけて、なぜあれだけの人材が輩出したのか。もちろん時代背景が第一の理由だと思いますが、それに加えて魅力的な私塾があり、魅力的な教師がいたことも大きく影響しているのではないでしょうか?

教育に純粋な関心を持つ優秀な人材が、情熱を持って将来を担う人材づくりに精力的に取り組める、そんな世界をつくるためには、今の文科省の画一的な裁量行政から脱皮した新たな枠組みをつくることの緊要性が高まっています。

最後に家庭の役割です。躾(しつけ)や行儀といった人として身につけるべき基本的な素養については各家庭が明確な責任を持つべきです。教師は人材育成のプロではあっても何でも屋ではありません。ましてや何十人の子供たちの基本的な躾など目が届くわけがありません。何でも人任せにするのではなく、ここでも自己責任の意識を持つべきです。自分の子供の躾を他人任せにして教育など成り立つはずもありません。まさに、教育の原点は家庭にあり、です。

次回は、ベンチャービジネスの勃興などを通して促進すべき新陳代謝を阻害するこの国の裁量行政について考えてみたいと思います。

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