п»ї 日本がもう一度輝くために『翌檜Xの独白』第1回 | ニュース屋台村

日本がもう一度輝くために
『翌檜Xの独白』第1回

9月 06日 2013年 社会

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翌檜X(あすなろ・えっくす)

企業経営者。銀行勤務歴28年(うち欧米駐在8年)。「命を楽しむ」がモットー。趣味はテニス、音楽鑑賞、「女房」

最近、『Global trend 2030』という書物を読みました。読まれた方も多いと思いますが、これは、米国大統領が選出(再選)される年に合わせて発表されるレポートで、米中央情報局(CIA)、米連邦捜査局(FBI)、陸海空3軍の情報部など米国連邦政府の16の情報機関を束ねる国家情報会議(National Intelligence Council)が15~20年先の世界を展望するものです。特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、幾つかの基本的なトレンドとそれに影響を与える要素を列挙し、メーン・サブシナリオに分類しています。内容はさておき、気になるのは日本に関する言及がほとんどないこと、加えて、本レポート作成に当たっては20カ国の政府、財界、シンクタンクなどから意見聴取しているが、日本からのインプットが全くなかった点です。

話は変わりますが、最近友人に勧められて『ニクソン わが生涯の戦い』(リチャード・ニクソン/著、福島正光/翻訳、文藝春秋、1991年)を読みました。いまさら何がニクソンかとも思いましたが、とても刺激的な本でした。
ニクソンは第二次世界大戦後中国を訪れた初めての米国大統領で、いずれ米国と中国が協調して世界をリードする時代が来ると予言していますが、冒頭で言及した『Global trend 2030』の最も望ましいシナリオが米・中が協調する世界として描かれています。このニクソンの本が書かれた時点では中国の西側との協調関係を作り上げる過程で、日本にも一定程度の役割が期待されていたのです。

上記の2冊の本を持ち出したのは、今世界が日本をどう見ているかを真正面から見つめるためです。この20年の間に日本に対する世界の見方は大きく変わったと思います。

日本は世界第3位の経済大国です。でも今そのような大国にふさわしい扱いを受けているでしょうか? 尊敬の念を持って見られているでしょうか? そんな思いとは裏腹に、誰からも気にされていないというのは言い過ぎでしょうか?

なぜこんな状態になってしまったのでしょうか?

これから何回かに分けて根源的なレベルで日本および日本人が抱える課題を考え、どうしたらプレゼンス(存在感)を上げることができ、もう一度誇りを取り戻すことができるようになるのかを考えてみたいと思います。

◆「自己責任」意識が欠如した日本

先般実施された2013年の参議院選挙での投票率は52.6%だったそうです。このことが今の日本を象徴しているように思えます。国のプレゼンスが低下し、経済的には20年以上のデフレ状態で、国の借金が国内総生産(GDP)(会社であれば売り上げ)の200%と大変な危機にあり、国がつぶれるかもしれない状況下での選挙に半数の国民が自分の意思表示をしようとしていないのです。なぜでしょうか?

その根本的な原因は、「自己責任」意識の欠如だと思います。

なぜそんな人間集団になってしまったのか。もちろん最大の原因は「教育」にあると思いますが、この国の教育についての思いは別途述べることとして、今は日本人に見られる自己責任の欠如について考えてみます。

私は、縁あって今、会社経営の任に就いていますが、何か問題が起こった時の対応によって社員を大きく二分することができると思っています。一つ目は、まず自らを振り返って何を間違えたのかを内省するタイプです。そしてもう一つは、自分は悪くない、そして原因を他のチームメンバーであったり環境に求めたりするタイプです。当然のことですが、第一のタイプは失敗の原因を内省することによってその経験を将来に生かすことができます。一方、第二のタイプはいつも原因を他に求めるため同じ過ちを繰り返します。

翻って日本人一般についてはどうでしょうか? 世の中が悪い、世の仕組みが悪い、政治家が悪い、官僚が悪いなどうまく行かないことを自分以外のせいにする人たちが多いのではないでしょうか。なぜそうなのでしょうか? いくつもの要素がこの要因となっていますが、一つの大きな要素として、この国にはびこる「平等」信仰があるように思えます。戦後8割の人たちが自分は中流であるとの意識を持っていた時代があります。外国の人たちと話していると、日本ほど社会主義的な国はあまりないとの意見をよく聞きます。

日本では明らかに、「平等」であることに価値があると信じられているようです。でも少し考えれば分かることですが、人間は生まれながらにして不平等な存在です。生まれながらにして与えられる環境は異なりますし、与えられている才能もそれぞれ異なります。大切なことは、異なる環境・才能をあるがままに認めることから始めて、その才能を最大限に生かして命を楽しむことではないでしょうか? 大切なことは結果の平等ではなく、機会の平等なのではないでしょうか?

◆他人との比較からは生れない真の豊かさ

この平等信仰を助長するのが、「比べる心」です。人と自分を比べて、自分のありようを客観的に評価することによって自らの成長につなげることができれば、比べることには意味があると思います。でも実際にこの国で一般的に見られる現象としては、比べた結果、自分の不遇を嘆いたり、他人の幸運をうらやんだりすることが多いのではないでしょうか? 特に新聞やマスコミがこの空気を助長しているように思えます。世の成功者や富裕層に対して常に批判的な目を向け、社会の弱者の味方をすることが使命と固く信じているかのようです。

社会の弱者に救いの手を伸べること自体は大切なことです。でも本当に救うべき人たちと社会的な救済措置をそもそも当てにしている人たちとは厳格に分別すべきだと思います。真剣な努力をしても一時期報われない不幸な人たちを一定期間援助するセーフティーネットは絶対に必要だと思います。しかし、全ての結果責任は基本的には自らが負うとの矜持のないところに主体性など生まれようもありません。個々人の主体性が希薄な社会に真の民主主義が根付くことなど金輪際ないのです。

他人との比較からは決して心の満足や真の豊かさは生まれません。つまらない比較などせずに、自己責任の意識をベースに与えられた命・能力を自らの意思で主体的に存分に楽しむ。これが一人ひとりの生き方の基本になった時、初めて魅力的で生産的かつ自立した社会が現出するのではないでしょうか?

次回は、依頼心の強い国民を生み出しているこの国の構造について考えて見たいと思います。

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