п»ї 漱石とパリ 『タマリンのパリとはずがたり』第6回 | ニュース屋台村

漱石とパリ
『タマリンのパリとはずがたり』第6回

12月 27日 2016年 文化

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玉木林太郎(たまき・りんたろう)

経済協力開発機構(OECD)事務次長。35年余りの公務員生活の後、3度目のパリ暮らしを楽しむ。1万数千枚のクラシックCDに囲まれ、毎夜安ワインを鑑賞するシニア・ワイン・アドバイザー。

鴎外も漱石も好きでよく読む。二人の全集をパリまで持ってきている。鴎外好きには名前(林太郎)が同じだということが作用しているに違いない。一方漱石とはささやかな地縁がある。

私は新宿区立早稲田小学校に通った。漱石の生まれた喜久井町(よく知られているように夏目家の井桁に菊の定紋から漱石の父が名づけた)と最後の住処である漱石山房の中間にその小学校はある。山房が早稲田南町7番地で小学校は25番地である。生家からも目と鼻の先だが、早稲田小学校の創立は明治33年なので、明治9年生家に戻った夏目金之助少年は遠い市谷小学校まで通っている。とは言うものの、私には小学校で漱石をこの地の人、郷土の誇りとして教わった記憶がない。

漱石生誕の地の記念碑もその当時(昭和30年代)にはなかったし、山房の跡地(今の漱石公園)には見映えのしないアパートか何かが建っていただけだ(それが今では小学校の正門の面する細い通りを「漱石山房通り」と呼ぶのだそうである)。

では、今私の住むパリと漱石の縁はないのか。これもささやかながらあるのである。足掛け8日間だけだが。留学先のロンドンへ向かう途次、漱石はジェノヴァから鉄道で「パリス」に入る。パリ到着は1900年10月21日、日曜の朝である。パリは、時あたかも万国博覧会(と第2回オリンピック)で沸き立っていた。パリはベル・エポックの頂点にあり、博覧会は国力・技術力そして芸術文化の発信の場だった。

漱石は熱心に万博会場を見て回っている。

「規模壮大ニテ二日ヤ三日ニテ容易ニ観尽セルモノニアラズ」「名高キ『エフエル塔』ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候」

当時パリの賑わいの中心だったグラン・プールヴァール界隈にも出没し、

「其状態ハ夏夜ノ銀座ノ景色ヲ五十倍位立派ニシタル者ナリ」

午前三時に帰宅しては、

「巴里ノ繁華ト堕落ハ驚クベキモノナリ」

とはいえ英語の達人漱石もフランス語には苦労して、

「此位ナラ謡ヲヤラズニ仏語ヲ勉強スレバ善カッタト今更不覚ヲ後悔致候」
(漱石の謡は「巻き舌」とからかわれるくらい下手くそで有名だったが)。

この短いパリ滞在の間の漱石は嬉々としているように見える。これに対し二年間を過ごしたロンドンには嫌悪感を隠さない(「尤も不愉快の二年間」)。華やかで洗練された芸術の街と、煤煙に覆われて工業製品の生産を通じて経済的繁栄に邁進する産業都市の対比は、富国強兵の国家目標を掲げ来るべきロシアとの戦いの予感のうちに近代化を進める日本への思いに影響しないはずはない。

短いパリ滞在の思い出はおそらくロンドン滞在中の彼の脳裏から離れることなく、漱石は1901年に入ると突然留学期間を延長してフランスに行きたいと文部省に要望し、その実現のために相当運動した(「四ヶ月カ五ヶ月デイイガ留学延長ヲシテ仏蘭西ニ行ク事ハ出来マイカ」)。文部省は不許可である(「文部省ニテ一切聞キ届ケヌ由ニツキ泣寝入ニ候」)。

いやあ何とも惜しいことをしたものである。もし1903年に漱石がパリで暮らしていたら……。街角でブルーストとすれ違い、劇場では「シラノ」やサラ・ベルナールに感銘を受け、オペラ・コミックでできたばかりのドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を観る。フランスの象徴派の紹介者は上田敏ではなくて夏目金之助だったかもしれない。

パリで「繁華ト堕落」のうちに暮らせば神経衰弱にもならず、楽しくワインを飲めば胃弱も治って長生きしていたかもしれないのに。ああ何てもったいない。

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