п»ї アートする数理がアーティストを救済する 『WHAT^』第35回 | ニュース屋台村

アートする数理がアーティストを救済する
『WHAT^』第35回

9月 23日 2020年 文化

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

リーマン予想(1859年)
『ビジュアル 数学全史‐人類誕生前から』(クリフォード・ピックオーバー著、岩波書店、2017年)より 筆者撮影

アートは表現である。アートのような数理は何を表現しているのだろうか。神の摂理を表現していると考えた人々がいたとしても不思議ではない。リーマン予想は161年前に発見された素数の深遠な性質で、計算しうる範囲では正しいことが分かっているけれども、証明はされていない。リーマン予想を数理として理解しようとすれば、複素数の関数や、無限級数の収束など、難解な話になる。アートとしては、複雑さと規則性が同時に表現された、凡人の人知を超えた世界であることが直感的にわかる。

政治や社会の文脈では、民主主義は凡人の人知に他ならない。科学も民主主義的であろうとすれば、凡人の人知を超えることはない。前稿「WHAT^第34回」では『根』を題材として、「デジタル化された人びとの生活は、終着地点ではなく、量子化された時空の始まりでもある。ウイルスの進化論は、そのような量子化された時空としてしか理解できないのかもしれない。人びとの生活が、ウイルスとは無縁ではなくなってしまった今日において、大地に向かう『根』を見失わないようにしたい」と結んだ。「量子化された時空」や「ウイルスの進化論」は科学の対象ではあるけれども、凡人の人知を超えている。「デジタル化された人びとの生活」が、凡人の人知となることはあるのだろうか。

人工知能技術が、凡人の人知を超えることは容易に想像できる。そしてある時、人工知能がアートのような表現をするようになるだろう。「デジタル化された人びとの生活」は、そのような、表現する人工知能と共に暮らす生活となる。民主主義的なアートは、おそらくとてもつまらないアートで、表現する人工知能にはとてもかなわないけれども、アートする数理よりも多様で豊かなアートの世界はたくさんある。少なくとも、そのように信じて生きている多くのアーティストがいる。民主主義的なアートを否定するアーティストは、反政治的で反社会的なのだろうか。おそらくその逆で、「デジタル化された人びとの生活」を語る政治や社会の文脈が、反アーティスト的なのだと思う。「アートする数理」は、その背反する世界の中で、アーティストと政治・社会の両端を救済するだろう。そして、アーティストは凡人の生活を救済する。

「アートする数理」がアーティストを救済するというテーゼは、神や宗教が政治社会的な力を失った世界で、科学技術が人知を超えて発展するときに、見失ってはならない下降する「根」に相当する。意味不明なことを言っているのではない。「デジタル化」ということ自体が意味不明であることへの処方箋(せん)を考えている。「デジタル化された人びとの生活」の意味は不問とされ、民主主義的でかつ独裁的な政治社会に抵抗する「根」について考えている。経済的な格差が政治社会の許容力を超えて増大する時代に、「アートする数理」は人工知能技術として経済の原動力となる。不安定で予測不能な時代において、「アートする数理」を推進しながら、同時にアーティストの生活を救済する。「アートする数理」よりも多様で豊かなアートの世界を救済することで、アーティストは、凡人の人知を超えた「デジタル化された人びとの生活」を生きる凡人の生活を救済する、と信じたい。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は、何か気になることを、気の向くままに、イメージと文章にしてみます。

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