「信用」から日本を考える
第2回 信用貨幣とは何か(その1)
『視点を磨き、視野を広げる』第88回

6月 03日 2026年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

本稿は、「信用貨幣とは何か」について、人類学者のデヴィッド・グレーバーの著書『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以下「本書」)を中心に考える。

グレーバーは、約5000年前の古代メソポタミアの遺跡から発掘された大量の粘土板に書かれていたのは、大部分が信用の記録、すなわち、信用による貸借、神殿による支給の配分、神殿領地の地代、穀物と銀の価格であったことを示す。

それが意味するのは、銀を計算単位として穀物などの信用による取引が行われていたことである。銀貨は存在せず、(銀ならいくらという)価値の尺度として機能していた。農民は、収穫期に穀物を神殿の倉庫に預け、それを貸したり何かと交換したりしていたと考えられている。現代の銀行口座のような機能――信用システム――が存在していたと言える。貨幣論においては、こうした貨幣を「信用貨幣」と呼んでいる。

また、貨幣は文明が始まった頃(*注1)に、文字や数字とともに生まれたという仮説を立ててみた。粘土板に書かれた「文字」と「数字」の発明、さらに貨幣の誕生との相互関連を考察することで、この仮説を論証したい。フランスの数学者ドゥニ・ゲージの『数の歴史』を参考にした。

なお、グレーバーは、信用貨幣の歴史的先行を主張することで、商品(それ自体に価値のある“モノ”)が物々交換を通じて貨幣になったという通説を否定するのであるが、彼の視野は貨幣論にとどまらないことはいうまでもない。考古学・歴史学・人類学の視点からの幅広い考察は、現代社会のあり方そのものに関する問題提起となっている。そうした視点も含めて「信用貨幣とは何か」を考えていきたい。

本稿では、(1)信用貨幣の誕生(2)最古の硬貨と貨幣の二面性(3)貨幣が内包する問題点――の順に検討していく。

(1)信用貨幣の誕生

⚫️世界最古の文明:メソポタミア

昨年放映されたNHK「古代文明」シリーズ(*注2)とメソポタミア考古学に関する公開講座(*注3)の受講で得た情報をもとに、メソポタミア文明の概要を以下まとめた。

「古代文明」シリーズの第2回の講師である常木晃(筑波大学名誉教授)は、古代メソポタミアを「世界で初めて文字を生み出し、現代にも通底する都市社会を築き上げた」として、次のように解説する。

――メソポタミアは、二つの大河(チグリス・ユーフラテス川)に挟まれた現在のイラクを中心とする一帯にあり、人類最古の文明発祥の地である。紀元前1万年から7000年ごろにかけて、北メソポタミアで世界初の農耕社会を徐々に成立させた。人々は生き延びるために、人類史上初めて“都市”という形態を作り出した。その後灌漑(かんがい)技術の完成によって、活動地域は(雨が少ししか降らない)南メソポタミアにも拡大した。

――その中の一つ南メソポタミアのウルクは、紀元前5000年ごろには人が住み始め、紀元前3500年ごろから最盛期を迎えた。遺跡からは大量の粘土板が発見されており、粘土板には楔形(くさびがた)文字が書かれていた。メソポタミアでは、ウルク以外にも古代都市遺跡が数多く発見されていて、発掘された膨大な数の粘土板の解読が進み、古代メソポタミアの経済や社会の様子が明らかになったのである。

――楔形文字の役割は、「穀物や家畜、労働者の数量の管理」、「倉庫や神殿での出納記録」、「労働者への配給の記録」、「物資のやり取りや契約の証拠」という財産管理のための記録であった。

古代メソポタミアの気候と農耕、宗教と神殿経済、古代楔形文字解読の歴史をまとめると――

気候と農耕

メソポタミアに関して「肥沃(ひよく)な三日月地帯」(*注4)という言葉が頭にあり、そのイメージから「かつては緑豊かな楽園だった」(だから古代文明が発達した)と思い込んでいた。しかし考古学や気候の研究によって、当時の気候環境は現在に近い厳しさだったことが分かっている。

メソポタミアで最初の農耕が始まったのは、チグリス・ユーフラテス川の上流・中流域(現在のイラク北部)の北メソポタミアであった。雨水だけで穀物(ムギ類)などを栽培する天水農耕が可能だったからである。

南メソポタミア(現在のイラク南部)は雨がほとんど降らず天水農耕はできなかったが、その後運河の建設といった灌漑技術を発展させ、人々が定住して農耕が始まった。土地は栄養豊富な泥土で、天水農耕よりも生産力が飛躍的に高まり、メソポタミア文明の繁栄をもたらした。高い気温と乾燥、洪水の不安定さ(増水期は作物の収穫期〈春〉と重なる)という大きな課題を、灌漑技術と組織力で克服することで文明が誕生したと考えられている。

古代メソポタミアは、穀物(ムギ類・マメ類)の栽培と家畜(ヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシ)の飼育の双方を基盤とした農業牧畜パッケージを特徴としていた。それがエジプト、ヨーロッパ、中央アジアへ拡散していったとされる。

また、メソポタミアにおける大規模な灌漑施設の建設・維持には、多くの人々を動員する力(神殿の権威)や、インフラ・神殿財産管理のための組織(神官=官僚)が必要になる。こうした条件が整うことで神殿経済が形成されていったと考えられる。

宗教と神殿経済

古代メソポタミアの遺跡では、神殿構造の建物が多数発見されているように、宗教がすでに存在していたこと、多神教(約2000の神様がいた)であったことは確かである。また、「農業革命から生まれた国(古代エジプトや古代メソポタミアのような)は首長、王、皇帝が政治的と精神的な二重の指導者を演じる神政であった」(Wikipedia)とされるように、メソポタミアの都市の指導者は、神殿の宗教的権威を背景にしていたと考えられている。

都市中心部には、日干しレンガで組まれた巨大な神殿複合体があったことがわかっており、その内部からは、個人の家とは比較にならない規模の巨大な貯蔵庫(穀物倉)、羊毛の紡績工房、ビールの醸造所の跡が発掘されている。都市国家の資源は神殿で集中管理されていたのである。

古代楔形文字解読の歴史

メソポタミア文明の研究は、楔形文字の解読なくしては成立しなかった。メソポタミアの楔形文字で書かれた大量の粘土板(約50万枚)は、人類最初期の文書の一つである。楔形文字の研究は19世紀前半からヨーロッパの言語学者や考古学者たちによって進められ、19世紀後半から20世紀初めごろに解読に成功している。

現在では、粘土板に書かれていたのは、大部分が債権・債務の記録(信用による貸借、神殿による支給の配分、神殿領地の地代、穀物と銀それぞれの価格など)であったことがわかっている。「約5000年前の古代メソポタミアでは、貯蔵した穀物を介する金融取引制度が発達していた」(*注5)のである。

⚫️数字の誕生と貨幣

常木は――文明とは一般的に、都市、文字、統治制度、社会階層、宗教祭祀(さいし)という5つの要素を兼ね備えていると考えられてきた。楔形文字の誕生と進化の経緯をたどると、これらの要素が単独で発展したのではなく、相互に関連し合いながら生まれていったことがわかる――と述べている。古代メソポタミアは、それらの要素を備えた高度な文明を世界で初めて築きあげたのである。

また、文明の成立には、文字と並んで「数字」の発明は欠かせない要素であったと思われる。「数字」はメソポタミアでどのように誕生したかについて、ドゥニ・ゲージは『数の歴史』で次のように解説している――

数の概念

人間の目は5つより多い物の数を一度に把握できない。目にこのような弱点があったために人間は「数」を発明したと思われる。数を発明した人間は、物の個数を数え始めた。

数字の誕生

①紀元前4000年紀半ばごろのメソポタミアのシュメール人(*注6)は、羊の数などを管理するために小さな粘土の粒(トークン)で数を表した。ところがこうした物による表記方法には、計算の過程を保存していくことができないという欠陥があった。そこで、この記録を粘土板に残し始めた。この印が文字と数字の起源となるのである。

②紀元前3300年ごろ、シュメールで世界最古の「文字」が誕生した。文字は土地や家畜や穀物や人間などの財産を、国が管理するために作られたと言われている。複雑化する会計事務を処理するために、物の出入りを書き留めておく必要が生じたのだ。これによって、記号による数の表示が始まった。シュメール最古の粘土板には、数を表す記号が初期の文字と一緒に記されている。したがってこれらの記号(数)は、文字とほぼ同じ頃に生まれたと考えられる。その後絵文字は、表意文字や表音文字となったが、数を表す記号だけは表音文字で表記されず、数を表すために用いられる特殊な記号として生き残った。これが「数字」となったのである。

③紀元前2000年ごろ(古代バビロニア時代)になって、60進法に位取り記数法(同じ記号でも、書く場所〈位=くらい〉によって価値を変える仕組み)の発想を取り入れた計算方法(*注7)が完成した→これによって計算の効率性が飛躍的に高まった。

ドゥニは「物を使わず、数字を書いて計算する。われわれがごく当たり前に行っているこの計算法も、人類の長い歴史の中で見ると、比較的遅く始まった画期的な手法である」と述べている。筆記による計算は、5世紀ごろ、ゼロを含むインド式位取り記数法(10進法)が確立して初めて行えるようになった。この記数法はわずか10個の数字で、あらゆる数を表すことができるのである。現在私たちが使っている0から9の数字もこのころインドで発明された。

ゼロとインド式位取り記数法は、8世紀にインドからアッバース朝(750〜1258年)のバグダッドに伝えられた(数字は「アラビア数字」と呼ばれるようになった)。それは改良されつつイスラム帝国全域に広がり、イベリア半島を通じてヨーロッパに伝えられた。文字や数字、さらに言えば現代文明は、古代メソポタミアに多くを負っていると言えるのではないだろうか。

数字と貨幣の歴史的連動性

このように数字は文明の発展に大きな貢献をしたが、メソポタミアでは同じような時期に、計算単位としての貨幣が生まれていることに注目したい。神殿経済においては、神殿に資源(農産物、家畜、労働力)が集められ、再分配――神官(=書記官僚)や労働者(賦役〈ふえき〉で動員された農民)への配給、大規模な公共工事(南メソポタミアでは運河などの灌漑設備が整備されて農耕が可能になった)、宗教祭祀(神殿で宴を催し肉やビール、パンを振る舞った)――された。神殿経済にとって集められ再分配される資源の管理は膨大な作業を伴った。羊1頭は銀ならいくら、大麦1枡(ます)(*注8)は銀ならいくらといった、目安となる計算貨幣がなければ正確な計算は不可能であっただろう。

数字の発明がなければ貨幣は成り立たなかったが、計算貨幣が必要になって、数字と計算への需要が高まったと見ることが可能である。数字と貨幣は、互いに影響し合って同じ時期に発達していったと考える方が理にかなっている。数字は、財産管理や会計処理、天文学などの総合的な必要から発達したのであるが、少なくとも計算貨幣はその中核的用途の一つであったと言える。

⚫️信用貨幣
信用貨幣の誕生

グレーバーは、古代メソポタミアの経済システムから信用貨幣が生まれたと考える。

(1)メソポタミアでは、神殿・宮殿を中心にしたコミュニティーが形成されていた。神殿や宮殿の行政官(官僚)たちは、銀と麦などの間に固定した等価を設定することで、計算貨幣を創造していた。

→銀は実際の貨幣としてではなく「計算の単位」として用いられていた。数字と貨幣は相互に影響を与えて発達したという関係にあるのだ。このような、貨幣は「計算単位」だという理解が、信用貨幣説の核となる概念の一つである。

(2)主な負債は、取引に際して両者の側で抵当として楔形文字の粘土板に記録されていた。ほとんどの日常的取引は、信用によって行われていた。神殿に負債のある農民は、収穫期に農作物(大麦など)を納めることで負債を相殺していた(粘土板を壊して債権・債務関係は消滅した)。

→貨幣は人間社会の債権・債務関係を記録・管理する仕組みとして生まれた。貨幣は発行者にとって債務(負債)であり、保有者にとって債権である。

信用取引を記録したのは、神殿を管理する官僚たちである。彼らによって「負債の記録」や「会計帳簿」といった会計制度が生み出されたのである。グレーバーは――メソポタミア文明の幕が上がるまでには、神殿の管理者たちは、単一の統一された会計業務の体系を発展させていたようだ――と述べている。こうした制度的基盤があって負債の記録が可能になったのである。

当時、銀から鋳造(ちゅうぞう)貨幣を造る技術はあったが、その必要がなかったので造らなかったと考えられている。神殿を中心とした経済システムの中で圧倒的大多数を占めていた農民は、農地に定住しており住所や家族構成はお互い知っている関係にある。また、収穫力(返済能力)の把握も容易であった。今で言う信用情報が、コミュニティーの中で共有されていたので、経済を「信用」で回すことが可能であったのである。

信用貨幣の本質

グレーバーは「貨幣の本質は負債である」という。この意味は「貨幣の本質は、物理的な貨幣(硬貨や紙幣)ではなく、人間同士の貸し借りの記録」にあるということだ。Aが余っていた肉を(肉が必要な)隣人Bに与える→隣人Bは、後日(いつでも良い)、Aが必要とする何か(例えば大麦)でお返しをする。この「貸し借り」「お返し」は、コミュニティーのメンバーの暗黙の了解(道徳的な義務)である。

グレーバーは、こうした計算も交換もしない人間関係を「コミュニズム(=基盤的共産主義:各人はその能力に応じて貢献し、各人はその必要に応じて与えられるという原理)」と呼ぶ。この関係は、物々交換ではない。グレーバーは、このような人と人の間の「貸し」の状態に、「信用(Credit)」の原型を見るのである。

ただ、このケースのような「お返し」は、道徳的な義務であり数量化できない。したがって負債ではない。負債は厳密に数量化できなければならない。そのためには計算単位としての貨幣が必要である。整理すると――道徳的な義務(恩、借り、義理など)は、貨幣以前にもあった。こうした義務を、計算貨幣は「(数量化された)負債」に転化したのである――。

貨幣が人間関係を数値化することによって、人間関係は、「信用」と「負債」の関係に置き換えられていく。貨幣は、人間の生活を便利にしたが、一方で負債としての側面が人間を苦しめるようになっていくのである。

グレーバーは経済理論としての貨幣論にとどまらず、もっと広い意味で社会論を論じているのである。

(2)最古の硬貨と貨幣の二面性
⚫️鋳造貨幣(硬貨)の登場

現在確認されている世界最古の硬貨は、紀元前7世紀に小アジアのリディア王国(現在のトルコ西部)で発行された「エレクトロン貨」である。メソポタミアの信用貨幣の時代から3000年近く後である。

「硬貨」の登場は、「国家」と結びついているというのがグレーバーの解釈である。国家がこれを貨幣にすると決めればそれが貨幣になるということである。グレーバーは次のように説明する――

①国家が大軍を維持するためには大量の食糧を必要とするが、農民からの調達が難題だ(放っておくと、飢えた兵士は略奪する→農民は疲弊し逃げてしまうだろう)

②そこで国家は硬貨を造って兵士に与える

③国家は国民(農民)に、その硬貨で税金の支払いを命じる

④農民は税金支払いのための硬貨を得ることができるので兵士に喜んで農作物を売る

「国家」→「戦争」→「硬貨(貨幣)」と考えるのである。

⚫️貨幣の二面性

グレーバーは、古代メソポタミアを含む人類史の最初を、「農業諸帝国の時代(紀元前3500〜前800年)」と名付けている。信用貨幣が主役の比較的平穏な時代である。

そしてその後の硬貨の時代を「枢軸時代(前800年〜後600年)」と呼ぶ。枢軸時代というのは、ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883〜1969年)が定義した時代である。この時代にユーラシア大陸の東西で、現在に至るまで人類の思考に影響を及ぼす、偉大な思想家(ギリシャ哲学)や宗教(儒教、仏教、ユダヤ教、キリスト教)が誕生したことをもって、枢軸時代と名付けたのである。グレーバーはその時代の中心に鋳貨の誕生を据える。「軍事=鋳貨=奴隷制複合体」の時代として、暴力に満ちた時代として描いている。

この時代は、人類の財産とも呼ぶべき哲学や宗教が全世界的に一斉に生まれた輝ける時代だったというイメージを持っていた。しかしグレーバーはむしろ、そうした戦争の時代だったからこそ、現代にまで続く哲学や宗教が生まれたのだと考えるのである。

その後の「中世」(600〜1450年)は、信用貨幣が再び主役となった時代である。そこからまた硬貨と戦争の時代に戻り、「大資本主義帝国の時代」(1450〜1971年)が始まる。現代の始まりは、1971年米国のニクソン大統領が公式に金ドル交換を停止し、実質的に変動相場制へと移行した日である。信用貨幣が中心の「現代」が始まったと考えるのである。

経済学的な視点からの貨幣論は、「貨幣とは何か」を「信用」、「国家」、「商品」といった原理で考察する。これに対してグレーバーは、貨幣はこうした複数の原理が混合して、時代ごとにどの原理が前に出るか違ってくると捉えているようだ。それはグレーバーが貨幣論のみならず、社会のあり方を視野に入れた議論に挑んでいるからだと思われる。そうしたグレーバーの特徴は、次の「貨幣が内包する問題点」に、より顕著に表れている。

(3)貨幣が内包する問題点
⚫️コミュニズム

グレーバーは、人間社会の秩序の枠組み(=①コミュニズム②交換③ヒエラルキー)という概念を用いて古代メソポタミアを下記のように説明する。

――人間関係の基本は「コミュニズム」、すなわち「各人はその能力に応じて貢献し、各人はその必要に応じて与えられる」関係にある。

――「交換」は、対等な者同士が行うが、干ばつなどで農民が神殿や有力者に借りを作ると、「完遂されない交換」としての「負債」が生じる。もとは対等だった農民と貸し手の間には一時的な「ヒエラルキー(支配・従属)」が生まれる。

――負債が累積すると、農民は家族を奴隷として差し出さねばならず、社会が「債務者(奴隷)」と「債権者(エリート)」に分裂するというヒエラルキーの固定化が起きる。

――そのままにしておくと社会が崩壊するので、王は、徳政令を出してヒエラルキーを破壊する(リセットする)。

グレーバーのユニークさは――徳政令は歴史上何度も出されており、神殿経済のシステムに組み込まれていた――と考える点にある。神殿経済は、単なる支配機構ではなく、負債の増殖による共同体の崩壊を防ぐための歯止めを備えた「(信用の)システム」なのである。

⚫️信用貨幣も貨幣(負債)としての暴力性を内包していた

グレーバーは、徳政令=「社会崩壊の歯止め」と言う解釈を裏付ける証拠として、古バビロニア王国(メソポタミア南部)のハンムラビ法典を挙げる。

ハンムラビ王は、第6代目の王として、紀元前18世紀ごろ(紀元前1792〜1750年)に在位した。ハンムラビ法典の法律の多くが金融に関するものであったとされる。代表的な法律は、利子の上限(銀20%、大麦33%)、債務奴隷化(負債を返せないと奴隷にされる)の制限、徳政令(債務帳消し)である。

グレーバーは、こうした法律は人道的な理由で定められたのではなく、放っておくと農民が没落して、徴税も徴兵もできなくなり、国家が立ちいかなくなるからだったと指摘する。グレーバーが言いたいのは、貨幣(負債)は、(信用貨幣であれ)そうした暴力性を内包しているということである。この視点から見れば、利息上限の定めや徳政令は信用経済の持続のために必要な「制度の一部」であったと言っても良いだろう。「市場は放置すると社会を破壊するので、政治が介入してリセットする」という人間の知恵は、現代社会にも通じるとグレーバーは訴えているのである。

そして、相対的に穏やかだとされる信用貨幣の時代においても暴力性が内包されているのだとしたら、グレーバーが言う硬貨の時代の暴力は想像を絶する戦争の時代ということだ。グレーバーは信用貨幣の時代から戦争が続く硬貨の時代になり、また信用貨幣の時代に変わるというように、二つの貨幣の時代が交互に主役交代していくという視点で歴史を把握しているのである。

まとめ:「信用貨幣とは何か」のグレーバー的理解

歴史上、貨幣の最初のかたちは計算単位であった。神殿経済システムの維持・管理は、計算単位としての貨幣を必要としたのである。これが信用貨幣の原型である。

人間関係の基本は「コミュニズム」にある。コミュニティー内の「義務」は、数量化されることで「負債」となる。貨幣の本質は、人間の「債権・債務関係の記録(負債)」なのである。

貨幣は暴力性を内包する。信用貨幣も例外ではない。利息上限や徳政令は、負債の増殖による共同体の崩壊を防ぐための(社会に組み込まれた信用システム上の)歯止めである。

<参考とした書籍・講座>

・『負債論―貨幣と暴力の5000年』著者:デヴィッド・グレーバー(以文社、2016年11月初版、原著“DEBT:THE FIRST 5,000 YEARS”2011年初版)

・『数の歴史』(ドゥニ・ゲージ著、藤原正彦監修、創元社)

・『古代文明』NHKテキスト2025年10月(NHK出版)

・『メソポタミア考古学を知る』早稲田オープンカレッジ2026年度春季講座、講師:小口和美(国士舘大学特任教授))

(*注1)文明の定義は、農耕、定住、都市、文字、宗教、権力等の成立とされており、約5500年前のメソポタミアが最古の文明である。ただし、近年トルコ南東部でギョベックリ・テペ(トルコ語で「太鼓腹の丘」)と呼ばれる1万1000年ほど前の巨大遺跡が発見された。都市や王といった権力の関与や、文字の痕跡は見つかっていないが、人類がまだ狩猟採集民として暮らしていた新石器時代前半のものだったことがわかった。こうした新発見によって文明の定義を変えるべきではないかという議論がある。すなわち、人類が組織的に大規模な建造物を造り始めた時期を文明の基準にするなら約1万1000年前の西アジアが、文明の始まりになる。本稿では、国家や文字、数字の始まりに焦点を当てているので、従来の定説に従って約5500年前のメソポタミアを文明の始まりとしている。(出所:NHKテキスト『古代文明』2025年10月、『メソポタミア考古学を知る』小口和美)

(*注2)NHKテキスト『古代文明』2025年10月

(*注3)『メソポタミア考古学を知る』講師:小口和美(国士舘大学特任教授)2026年度春季講座)@早稲田オープンカレッジ

(*注4)「肥沃な三日月地帯」:地理的範囲に厳密な定義はないが、一般的には東のペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡(さかのぼ)り、シリアを経て西はパレスチナ、エジプトに至る半円形を示す。今日、この地帯に含まれる主要な国(地域)は、イラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ。(出所:Wikipedia)

(*注5)『イングランド銀行公式 経済がよくわかる10章』イングランド銀行発行

(*注6)シュメールは、古代メソポタミア南部地域の中の南部(現在のイラク南部地方)に住んでいた人々、その地域の名、およびその人々が築いた文明や文化の名称である。(出所:Wikipedia)

(*注7)1から59までは、「1」と「10」の記号を並べて表し、桁(けた)の概念はなかったので、「60」「600」といった単位ごとに、それぞれ別々の楔形の専用記号を並べて書いた。(出所:『古代の数学について』亀山武夫〈兵庫教育大学大学院〉)

(*注8)古代メソポタミアでは、大麦などの収穫物は「体積(容積)」を基準に計量されていた。重さ(質量)を量る天秤(てんびん)などもあったが、主食である穀物の取引や徴税では、決まった容量の「枡」や「土器」に入れて測る方法が主流であった。容積の基本単位は「グル(gur)」であった。(出所:日本西アジア考古学会)

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