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「格差と貧困」という視点:『ポピュリズム』その2:『西洋の自死』(前編)
『視点を磨き、視野を広げる』第40回

4月 08日 2020年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

前回は、欧州におけるポピュリズム政党の勢力伸張の現状と背景を探った。そして、大量の移民・難民の流入が、欧州社会に大きな亀裂をもたらしているという現実に行き当たった。そこで今回は、欧州社会の現状をさらに理解するために『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』という本を取り上げたい。

本書は、英国のジャーナリストであるダグラス・マレーによって書かれ(2017年出版)、英国で10万部以上売れたベストセラーである。マレーは欧州各国を回って移民・難民流入の最前線を取材する。受け入れ現場の実態はEU(欧州連合)や各国政府の説明とかけ離れていることを知り、その疑問を政府高官に問いただす。移民による犯罪の増加や、テロ事件の続発も一般大衆にとっては懸念となっている。こうしてマレーは、エリート層と一般大衆の移民に対する受け止め方に大きな乖離(かいり)があることを明らかにしていく。エリート層はEUの移民政策を擁護し、現場の混乱は「大した問題ではない」と言い、一方、大衆は生活への直接的な脅威を感じているのであるが、マレーは実際に移民と接する大衆の危機感の側に立つ。こうした社会の二極化という現象を、グローバル化の進展に伴う産業構造の変化、あるいはその結果としての格差の拡大といった切り口で読み解いていき、ポピュリズム政党伸張の背景を見いだすというのが一般的な解釈だ。マレーもそれを否定はしない。しかしマレーの関心は、欧州人の精神のあり方に向かうのである。

移民の問題を語ることは、欧州においては政治的に非常にセンシティブ(微妙)だとされる。先進国の人権感覚では、難民を受け入れることは人道的に正しいことである。それに疑問を呈する行為は、非人道的あるいは人種差別的だと非難される可能性が高いからである。マレーは、そうしたタブーに踏み込み、大量移民が社会に与える負の側面を明らかにしていく。そこだけを見れば、本書は移民反対の書だということができる。しかしマレーは、近代理念をどこまでも追求する欧州人(特にエリート層)を描き出し、その奥深いところにある「罪悪感」と「実存的な疲弊」に行き着くことで、欧州人としてのアイデンティティーを問い直すのである。いろいろな読み方ができる本であるが、表面的なリベラル批判ではなく、移民排斥を主張しているものでもない。

今回は、本書をベースにしてまず移民擁護論の根拠と反論を整理する。次に実際に現場で起きていることを確認する。そしてその原因についての著者の分析について考えてみたい。

◆欧州が移民を受け入れる理由

欧州の移民受け入れの歴史は、第2次世界大戦後の復興期に、労働市場のギャップを埋めるために、移民を「労働力」として受け入れたことに始まる。英国であれば、大英帝国時代の植民地のインド、パキスタンなどの出身者、フランスはアルジェリアやモロッコ、ドイツはトルコからの移民が多かった。受け入れ国は、相手国と協定を結び一定期間(通常3年)働いたら帰国し、次の移民と交代する「ローテーション方式」を原則としていた。しかし、(母国より)給料が高い職場があって社会保障が充実している国から戻る人は少なく、そのまま居住を続け、次には家族を呼び寄せたり子供ができたりして、次第にコミュニティーが形成されそれが拡大していく。なお、「難民」とは「迫害などによって出身国を逃れてきた人々」(国連の定義)を指す。一方「移民」の定義はないが、一般的には経済的理由で移住する人々を意味する。したがって戦後復興期に来た人々は「移民」である。しかし、後述するように、現在欧州に流入する人々を区別することが意味を持たなくなっているのが現実だ。したがって本書では、移民と難民を厳格に使い分けておらず、「移民」と総称している。

移民受け入れの理由として、本書では下記の四つを挙げている。日本も移民受け入れ政策に転換したが、議論があまり深まらないまま決まってしまった印象がある。本書にある欧州の現実は、長期的視野に立った慎重な政策運用が必要だということを教えてくれるのではないだろうか。

・「移民は経済成長に必要だ」という正当化

マレーは、移民が経済成長にプラスになるという包括的で実証的なデータはないという。しかし移民擁護派は、権威のある大学や専門機関の調査報告書の都合の良い部分だけを抜き出して、正当化の材料とすることがある。本書では具体例として、「英国に対する移民の財政的影響」(2013)(*注1)という調査レポートで、「最近(2000年以降)の移民は財政的な負担となるどころか、その納める税金が給付金を上回る」とした例を挙げている。BBC(英国営放送局)はトップニュースで「(移民は)正味で貢献している」として取り上げるなどメディアが注目した。しかし、これは間違った理解であり、該当するのは「EEA(欧州経済地域*注2)からの最近の移民」だけであることがわかった。批判を受けて、後に訂正されたレポートによるとEEA域外からの移民は、実際には納めた税金を大幅に上回るサービスを享受している(*注3)のである。しかし訂正は1年後のことであり、メディアはすでに興味を失っていたとしている。

マレーは、「移民の経済的利益を享受できるのはほとんど移民のみなのだ(高い賃金や公共サービス利用)。彼らの稼ぐ金の多くは地域経済に還流することなく英国の外に住む家族に送られる」としている。これは、高学歴でIT技術にたけた移民なら、受け入れ国の経済への貢献が上回るかもしれないが、単純労働者であれば財政負担が増す可能性が高いということだろう。ただし、数世代にまたがるような長期間で見れば、移民の子供が起業家になることもあるので、また違ってくるかもしれない。言えるのは、福祉国家においては短期的には貧しい国からの単純労働者の移民は、財政負担になる可能性が高いということであり、少なくともその試算と検証は必要だということだろう。

・「高齢化社会では移民を受け入れるしかない」という正当化

これは、少子高齢化で長期的に労働力が不足するので、その対策として移民は最良の選択だという意見である。本書の反論は、少子化対策としては政府が子供を持てる環境(住宅整備、所得の向上、教育費の抑制、児童手当の増額)を整備すべきというもので、正攻法を取れということである。また高齢化対策としては、退職年齢の引き上げや高齢者雇用への財政支援により生産年齢人口を増やすべきだとする。これも正論であり、日本でも実施されている。ただ、それだけでは十分ではないので、移民を入れようという主張がなされる。それに対して本書では、大量移民は「予測できないファクターが多すぎる」として反論する。欧州の移民の歴史が示すように、移民を受け入れ始めればその数を制御することは困難であるからだ。また移民の出生率は高い(全体の出生率向上にはプラス)ので、全国民に占める移民の比率が増え続けることを懸念する。将来英国で白人が少数派になってしまった時、それでも英国のままでいられるのかと問いかけるのである。

しかし、前述の「経済成長に必要」という理由も含めて両論の問題の根本は、移民を単なる労働力としか見ていない点にあると思われる。だがやってくるのは人間なのだ。合理主義的思考から、人間を労働力という商品と見做して輸入しようとすること自体が、先進国のおごりなのではないだろうか。

・「移民は文化を多様化する」という道徳・文化的な正当化

ロンドンやパリを歩いていると、多種多様の人種の人々が行き交っている。それを見ると肌の色や宗教が異なる人々が、仲良く暮らすコスモポリタンの街というイメージが実感できるような気がする。こうした「多様性」は、「進歩的」であることの象徴である。日本から見ると羨望さえ覚える光景だ。

しかし本書では、移民の数を増やせば増やすだけ文化の多様化になるというのは誤解だと批判する。特に移民が特定の国や文化(イスラム教)に偏っている場合は、多様性の説明にそぐわないとする。そして、多様化擁護論の最も大きな問題点として、移民の出身国の文化が欧州の基準とあまりに異なることを挙げる。具体的にはイスラム教を指して、女性の人権や同性愛を認めないことを指摘する。またイスラム教を風刺したメディアへのテロ攻撃など言論の自由を脅かす面をもつと警告する。欧州のリベラルは、そうした側面を意図的に無視しているというのである。

・「グローバル化の時代では移民の流入は止められない」という正当化

この説への反論として、日本の例を挙げている。日本は経済大国だが、「移民をせき止め、居残りを思いとどまらせ、外国人が日本国籍をとることを防止してきた」と称賛している。日本人としては複雑な心境だが、欧州のようにならないための方策を検討する時間的余裕が、まだ少し残されていると受け止めたい。

◆実際に欧州で何が起きているのか

・移民受け入れの最前線

移民は主に三つのルートからEUに入ってくる。ギリシャ、イタリア、スペインである。受け入れにあたっては、これら最前線の3カ国に実務上及び財政上の大きな負担がかかる。指紋を取り、身分証を確認し、難民申請を受け付け、自国で面倒を見るのである。3カ国は、EU内で財政的に弱い国なので、難民が急増するとその負担に耐えきれない。実際に「欧州難民危機」と呼ばれた2015年には、大量の難民がトルコから海を渡ってギリシャに押し寄せた。この際、ギリシャは多くの難民から指紋を採取しなかった。そうすれば入域時の難民申請を処理しなくても済むからである。そうした状態で、多くの人々がギリシャを通過して陸路ドイツに向かった。なぜならドイツのメルケル首相が人道的観点から門戸開放を表明したからである。メルケルの決断は「勇敢で、果断で、正しい」(英国エコノミスト誌)とメディアに絶賛された。

この年だけでドイツが受け入れた難民は100万人(本書では最大150万人と推定)であった。後にEU高官は、経済的な理由からの移民が少なくとも6割いたことを認めたが、すでに入国してしまっており帰国させることは不可能だ。このことから難民と経済移民の区別は形式的なものとなってしまっていることがわかる。

こうした話を聞くと、難民申請の審査を厳格に行い、その時点で経済移民を排除すれば良いと思うのだが、本書によると数多くの難民支援組織が活動しており、どう話せば審査に通るか指導しているのだという。また、出身国をわからなくするために身分証明書を破棄する人が多いという。パキスタン人やアフガニスタン人であっても、(審査が通りやすい)シリア難民だと言えるからである。さらに、審査で不可となっても実際に送還されることはまれだとする。なぜならトルコ経由で来たパキスタン人をトルコに返そうとしてもトルコが受け入れる理由はなく、本国であるパキスタンと交渉して送還する必要がある。しかし本国が受け入れるかどうかわからない。実際にドイツがパキスタン人不法入国者を本国に送還しようとして拒否され、連れ戻した例があるという。このように送還は時間的にもコスト的にも割に合わないので放置しているのが実態だ。いったんEU内に入れば、シェンゲン協定(*注4)によって移動は自由だ。こうした人々を含めるとEU内にどのくらいの移民・難民がいるのか誰にもわからないという。

2015年の難民危機以降は、難民の流入は落ち着きを見せた。しかしそれは難民が減ったわけではなく、EUがトルコと緊急協定を結び、巨額の資金(60億ユーロ=約7100億円)をトルコに支払う代わりに難民をトルコ内にとどめていること、ハンガリーやオーストリアでEUには無いはずの国境が復活し、難民の陸路での北上を阻止していることの二つの理由によるものであるとしている。

現在トルコが引き受けている難民は、シリアから約360万人、その他の国から数十万人といわれ、トルコの負担も大きく国内からの批判が高まっているようだ。最近の新聞報道(*注5)によると、トルコのエルドアン大統領が今年2月末のテレビ演説で、「(国境の)門は開いている。(欧州は)応分の負担をするべきだ」と発言したことを受け、3月に入ってギリシャへの難民の流入が再び増加しているという。シリア内戦でEUとトルコは反政府軍を支援しているが、ここにきて距離を置こうとしているEUを牽制(けんせい)する狙いがあると新聞では分析している。再び大規模な難民流入があるのだろうか。

・治安の悪化とその背景にあるもの

2015年「欧州難民危機」でドイツ(人口約8200万人)には、人口の1〜2%にあたる人々が突然やって来た。大部分が成人男性でイスラム教徒である。本書で詳しく述べられているが、地域社会に与えた影響は大きく、住宅不足、医療施設不足といった生活面の問題だけではなく、犯罪が増加し治安が悪化した。

本書では移民による犯罪の具体例を多数挙げているが、その中で象徴的な事件を2件取り上げたい。第一の例は、2015年末にケルンの大聖堂前で起きた北アフリカ系移民による集団での多発的な暴行事件(*注6)である。大みそかの夜の恒例行事で大勢の人出があり、多数の警察官が配置されていたが、動きが鈍く犯行を積極的に制止しなかったとされる。多くの被害届が出されたにもかかわらず、事件が報道されたのは5日後の1月5日であった。警察本部はこのときに初めて事態の深刻さを認識したとされ、厳しい批判を受けた。

第二の例は、英国イングランド北部ロザラムで起きたパキスタン系移民による組織的な児童性的搾取(さくしゅ)事件(*注7)である。この事件の特徴は長期間(1997〜2013年)かつ広範囲(被害者1400人)に及ぶことである。一部の専門家が早い段階(2000年)で調査を行っていたが地方当局の支援を受けられず、また報告書も公表されなかった。2010年に犯行が露見して犯人の一部が逮捕されたが警察はそれ以上積極的に捜査せず、独立調査委員会が設置された2013年まで犯行の継続を許したとされる。その後の調査によると、パキスタン系の地方議員や団体からの圧力を受けた警察や地方当局は、人種差別主義者と批判されることを恐れて見て見ぬふりをしていたことがわかったという。

二つの事件が示すのは、移民絡みの事件の場合、警察や当局は、関与を避けたりデータを隠したりする傾向があるということだ。またこうした回避傾向は、政府関係者だけではなくメディアにも見られるという。ここからマレーは、欧州の寛容な移民政策と過剰な配慮の背景に、植民地主義の歴史への欧州人の「罪悪感」を見いだすのである。

なお、第二の英国のケースでは、被害児童は地方都市に住む白人低所得層に属している。片親あるいは家庭が崩壊しているなどの理由で親の子供への関心が薄く、犯罪が起きやすい土壌があったということだ。こうした英国社会の「置き去りにされた人々」(*注8)は、グローバル化やIT情報革命による産業構造の変化によって生み出されたものだ。エリート層だけではなく中産階層も含めた多くの国民が、その存在に「無関心」であったことが、問題の根底にあるのではないかと考える。同様の事件の発生を防ぐためには、移民だけの問題ではないという認識を持ち、社会の構造的問題に踏み込んだ対策が求められるだろう。

・ホームグロウンテロ事件の衝撃

さらに深刻なのが、テロ事件の多発である。大規模なものだけでも、2004年マドリード(通勤列車爆破により191人死亡)、2005年ロンドン(地下鉄とバスの同時爆破テロ56人死亡)、2015年パリ(同時多発テロ130人死亡)、2016年仏ニース(トラックによるテロ84人死亡)などである。また、フランスの風刺雑誌『シャルリー・エブド』のパリ社屋への攻撃(12人殺害)などイスラム教を風刺したという理由で、多くのメディアが攻撃を受けた。マレーは、「欧州にはイスラム教徒の怒りをかいそうな小説、音楽、絵を描いたりする人々がほとんどいなくなった」とする。表現の自由が脅かされていると懸念するのである。

またテロ事件の犯人の中に、欧州で育った移民二世がいたことは(ホームグロウンテロリズム)、深刻な問題を内包していた。それまでの同化政策が失敗したということを意味したからである。メルケル首相は2010年の演説で、従来の移民や同化政策、「多文化社会(互いの文化を享受する)」の失敗を認めた。EU主要国首脳もその後同様な見解を表明している。この点に関しマレーは、EU指導者たちは「並行社会」(受け入れ国の社会と別に移民の社会が並行的に存在)の問題を認めたが、それをやめて一つの社会を目指すならば、移民は「何を捨てて何を受容しなければいけないのか」明確にする必要があるにもかかわらず、政治家はそれを曖昧(あいまい)なままにしていると言う。なぜなら問題は、最終的に宗教に行き当たるからだとする。

言葉を換えて言えば、宗教が異なる人々であっても社会の中で共存するといういわゆる「多信仰主義」は、欧州におけるキリスト教とイスラム教の間においても可能かという問いである。これに関しマレーは、欧州においては世俗化が進み宗教の地位は低下しているので、欧州人は宗教の持つ意味を軽視しているとして警鐘を鳴らす。そして欧州における法の支配や政教分離、人権といった基本理念を、それと相いれない面があるイスラム教の信者である移民が、どこまで受け入れることができるのか「誰もはっきりした答えをもっていない」と悲観的な見解を述べる。イスラム教に対する発言に関しての脅迫、殺人などの攻撃が続いていることもこの見解を裏付けているようにみえる。ただし、イスラム教の教えとイスラム原理主義とは区別すべきだという意見があることも忘れてはならないだろう。マレーには、この点に関するさらなる考察を望みたい。

◆なぜ欧州で移民問題が深刻化したのか

・欧州エリートの価値観

EUは、民主主義、人権、法の支配、市場経済といった基本原理を中心的な価値観としている。政治家、官僚、経済界やメディアの人々などのエリート層は、この価値を共有している。なかでもリベラル派(社会民主主義)は、民主主義、人権に加え、寛容と多様性という価値を重視する。保守派は、経済・社会面に焦点を当て単一市場に力点を置き、グローバル化の中で生き残るための経済的な競争力の強化を目指す。両派にとってEUの統合強化は共通の目標だ。したがって左右の政治的対立軸の距離が縮まり、各国では連立政権が常態化している。常に妥協が必要となり政治技術は精緻(せいち)化するが、一方で政治家と大衆の乖離が拡がる。そこに欧州におけるポピュリズム伸張の原因を求めるのが、前回読んだ水島治郎の『ポピュリズムとは何か』の視点であった。

こうした背景を理解した上で本書を読むと、欧州エリート層(特にリベラル)は「移民受け入れは寛容の精神や多様性の観点から正しいことだと信じている」とマレーが言う意味がわかる。さらに、移民急増に伴って各種の問題が発生していることに関してエリート層は、「移民に多少の問題があるにせよ、寛容や多様性への理解が不十分な大衆に、より問題があると考えている」とする。EUの統合強化は、リベラル派にとっては理想の実現、保守派にとっては生き残り戦略であるという違いはあっても、欧州の未来にとって唯一の選択肢なのである。それがわからない大衆は「愚かだ」ということになる。エリートと大衆の二極分裂の問題である。エリートにはどうして大衆の目に映るものが見えないのだろうか。マレーはその答えとして、エリート層の思考の背景にある欧州人の「自己不信」を挙げるのである。自らの信念や伝統、正当性に対する信頼、すなわちアイデンティティーを見失ってしまったというのだ。そしてその原因として、「歴史への罪悪感(外向的不信)」と「実存的疲弊(内向的不信)」を指摘する。

・「原罪意識」:歴史への罪悪感

欧州列強は大航海時代以降、植民地拡大を図ってきた。産業革命以降は、資源の供給地であり、工業製品の輸出市場として植民地は富国強兵のための不可欠な要素と考えられた。こうした帝国主義によって欧州は世界の大半を植民地化した。植民地経営の基本政策は、収奪と圧政である。それを正当化するために、人種的優越論をよりどころとする。アジア、アフリカの植民地が独立を果たすのは、第2次世界大戦後の1950年代から60年代にかけてである。マレーは、欧州人はこうした植民地主義と人種差別の歴史に対して原罪意識を持つと言う。そのため自らの歴史に対する正当性への信頼を失ってしまったというのだ。その裏返しが、多様性や寛容の価値の重視になっていると考える。それが行き過ぎて、寛容な移民政策を推し進め、自ら問題を抱え込んだのだと論じる。

この論理は、(植民地にされた側の)「アジア人」としての視点で見ると、欧州人の自己弁護に聞こえ、「自業自得」ではないかという思いが頭をよぎる。現在の欧州への移民の殺到は「帝国の逆襲」と表現される。特に英国やフランスは旧植民地から多くの移民が流入しており、過去の罪の報いを受けているようにも見えるからだ。しかし、視点を変えて(植民地をもった側の)「日本人」として見ると、複雑な心境になる。マレーが言う「歴史上の悪行を現在において償わなければならないとしたら、時効とは何であろうか」という反論を聞くと、我が身に置き換えるとどう答えるべきだろうかと考え込んでしまう。

・「実存的な疲弊」

マレーが言う「実存的な疲弊」は、欧州人の心に累積された「疲れ」を言う。わたしなりに解釈すると――「実存的な疲弊」は、産業革命以降の欧州の「近代」に起因する。欧州は、産業革命によって資本主義システムを発展させ、「国民国家」を創設し、「近代」を切り開いた。その「近代」の基本理念は、合理主義、進歩主義、科学万能主義であり、それは普遍性を持つ(と考えた)。一方で、欧州は古い歴史・文化を継承する。すなわちギリシャ・ローマとキリスト教が欧州の土台を形成しているのである。しかし、理性や合理主義を追求していくと、欧州の基盤となる「物語」であるキリスト教の希薄化をもたらす。本来であれば理性や合理主義が宗教に代わって基盤となるべきなのだろう。しかし、それを信奉する人々による様々な試みが、全て無残な失敗となってしまったことによって、その願いはかなわない。すなわち、近代の推進力たる資本主義システムは、経済成長と豊かさをもたらすが、一方で格差と貧困を拡大する。それが限界に達した時、近代理念は「国家」による問題解決を考え出す。国家の権限を強めて格差と貧困を解消しようとしたのである。「社会主義」と「全体主義」の二つのイデオロギーである。しかしその試みは膨大な人命を犠牲にして悲劇的な失敗に終わる。あとに残されるのは大きな喪失感である。こうしてすべてを試して、すべてを見通した欧州人は自信を失い疲労感に苛(さいな)まれる。それゆえ新しい物語(「敬意」と「寛容」と「多様性」をイデオロギーとするリベラルな社会)の始まりを求める感情が高まっているのである。その希望を実現するのがEUなのである。しかしEU内の国境をなくし、域外に対しても移民に門戸を開く寛容な社会の追求は、自らのアイデンティティーの喪失を招いて「自死」に至らしめる道なのである――となる。

欧州人のアイデンティティーとは、文化はギリシャ・ローマ、宗教はキリスト教を共通の基盤にするものである。しかし、EUは欧州憲法の制定において、議論の末にキリスト教への言及を避けたように、自らのアイデンティティーを失う方向に歩みだしているというのである。

◆おわりに

本書は、欧州人による自省の書と受け止めたい。自己の客体化は痛みを伴う。そのために必要な冷静さと事実を積み重ねてその原因を探っていく手法は、ベーコン、ロック以来の英国経験論を受け継いだ英国保守派の特質である。欧州でありながら欧州ではない英国人特有の性質なのかもしれない。しかし英国人が、ペースを少し落として、時々立ち止まって考え直すことを求めても、デカルト以来の大陸合理論を継承するフランス人とドイツ人は自らの理性に従って理詰めで突き進むことをやめないだろう。そう考えると、英国のEU離脱は必然だったことに気がつくのである。

<参考図書>

『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』ダグラス・マレー著 (2018年:原著は2017年刊行)

(*注1)ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の移民調査分析センターの調査報告

(*注2)欧州経済地域:EU28カ国+ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタイン

(*注3)修正後の同レポートで、1995年から2011年にかけての移民は実際には1140億ポンド(約15兆円)のコストを負わせていたことが公表された。

(*注4)シェンゲン協定:欧州25カ国(EU非加盟国含む)を国境検査なして行き来できる。英国は未加盟。

(*注5)日本経済新聞(2020年3月3日付)「中東難民、再び欧州へ流入 トルコが越境容認、シリア問題で支援要求」参照

(*注6)400〜500人の北アフリカまたはアラブ系移民による犯行といわれ、警察への被害届けは約600人に上った。在独ジャーナリスト熊谷徹の記事「ケルン暴力事件で顕になった文明の衝突」(日経ビジネス2016年1月19日)参照。

(*注7)英国BBCのホームページで「Rotherham child abuse scandal」という特集ページを設けている(https://www.bbc.com/news/topics/c9v2zpn35j4t/rotherham-child-abuse-scandal)。

(*注8)拙稿第39回「ポピュリズム」その1参照。

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