п»ї MMTを考える(その1) 『視点を磨き、視野を広げる』第46回 | ニュース屋台村

MMTを考える(その1)
『視点を磨き、視野を広げる』第46回

10月 28日 2020年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

はじめに――コロナ危機とMMT

今回のコロナ危機に際して、政府は感染症対策と並んで経済対策に全力を挙げている。新型コロナウイルスによって影響を受ける個人や企業を支援するための各種給付金や資金繰り支援、キャンペーンによる需要促進などである。これらは危機対応のための緊急的な施策であり、「何でもあり」感が否めないものの、コロナショックが経済を毀損(きそん)して経済危機を招き、さらに金融危機に陥ることを回避するためには、やむを得ない施策である。最悪の事態として想定される経済・金融危機には至っておらず、その意味では経済対策は現在までのところ成功しているといえるだろう。

問題は、こうした誰も反対できない状況下での巨額の財政支出が、今後政府そして最終的には国民に与えるであろう影響である。日本はコロナ禍以前から財政状況が極めて厳しい状態にある。先進諸国の中で突出して悪いのである。そこに追加で巨額の財政支出が行われた。本年度の政府歳出は、前年度の100兆円を大きく上回り160兆円に達すると見込まれている。不足分はすべて国債の増発で賄うので、政府の債務残高の対GDP(国内総生産)比率は260%を超えるとみられている。かかる状況下で、はたして財政は持続可能なのかという懸念が生じている。

こうした財政への懸念は、経済界寄りとされる日本経済新聞であれ、リベラル色が強い朝日新聞であれ、基本的に共有されているといえるだろう。それはいわば正論であり、現在主流となっている経済学の見解に沿ったものだ。こうした常識に対して異を唱えるのが現代金融理論(Modern Monetary Theory=MMT)と呼ばれる理論である。自国通貨建ての政府債務は債務不履行になることはないので、財政赤字や債務残高は心配せずに、景気対策のために財政支出を積極的に行うべきだと主張する。借金は、返済する原資となる収入が見込めないなら「悪」であるという一般の生活者の常識からすると、眉唾(まゆつば)もののトンデモ理論に映る。しかし今回取り上げた中野剛志の『富国と強兵』を読んで考えが揺らいだ。といっても、MMTに全面的に同意するわけではない。疑問点も多くそれは後述する。ただ、貨幣から出発して国家のあり方を論じるその主張に聞くべきものがあると考える。

中野は『富国と強兵』の出版後、その主張を分かりやすく要約した2冊の本を出している。『奇跡の経済教室――基礎知識編』と『奇跡の経済教室――戦略編』である。本稿では、これら3冊をベースにして、まず中野が提起する論点を押さえておきたい。

中野が提起する論点

・デフレなのにインフレ対策を行うという間違い

中野は、デフレもインフレも貨幣的現象だとして、デフレは「物価が下がり続ける=貨幣の価値が上がり続ける」状態であり、「需要不足/供給過剰」によって起き、一方インフレは「物価が上がり続ける=貨幣の価値が下がり続ける」状態であり、「需要過剰/供給不足」によって起きると説明する。

デフレ対策は、財政支出の拡大、減税、金融緩和、産業保護、労働者保護(規制強化、国有化、グローバル化抑制)であり、インフレ対策は、財政支出の削減、増税、金融引き締め、生産性の向上、競争力の強化(規制緩和、自由化、民営化、グローバル化)だとする。ここから明らかなように、現在の政策は金融緩和を除いてインフレ対策であり、間違っているというのである。

・新自由主義から民主社会主義への転換が必要

中野は、デフレ対策のイデオロギーは「民主社会主義」的(*注1)であるとし、インフレ対策は「新自由主義」のイデオロギーだとする。そして、日本はこの20年間、「デフレ下にあったのに新自由主義のイデオロギーを信じ、インフレ対策を続けた。その結果、日本はデフレから脱却できず、経済成長ができなかった」と指摘する。したがって、いま日本が採るべき政策は、財政支出の拡大、減税、労働者保護などの政策だということになる。

この主張を聞いて、すぐに思い浮かぶ反論は、財政再建が必要なときに、さらに積極的な財政支出を行えば財政危機を招くのではないかという懸念である。また、日本経済再生のためには生産性の向上を通じた競争力の強化が必要であり、規制緩和、貿易自由化、民営化、グローバル化といった政策を推進すべきであるのに、それに逆行する政策は、日本経済のいっそうの弱体化につながるだけという反論もあるだろう。さらに、世界的なグローバル化の流れの中で、TPP(環太平洋経済連携協定)に見られるように国際的な協調が不可欠であり、それがひいては国際間の緊張緩和につながり、日本の安全保障の観点からも望ましいという意見も根強いのではないだろうか。

中野は、そうした批判に対し、経済的な論考を「現代金融理論(MMT)」で理論武装し、政治に関しては「地政学」を駆使して反論する。本稿ではまずMMTについて考えていきたい。

現代金融理論を理解する

・貨幣の起源

現代金融理論は、その名の通り「貨幣から出発する理論」なので、貨幣をどう理解するかが重要になってくる。特に、貨幣の「起源」については諸説があり、どこから出発するかで理論の展開が違ってくるからである。貨幣起源の代表的な学説は、物々交換の中から貨幣が発達したという「商品貨幣論」である。市場から貨幣が生まれたとするものだ。これに対し、貨幣の起源を売り手と買い手の債権債務関係に求め、(売り手が買い手に与える)「信用」が貨幣の起源であるという「信用貨幣論」がある。その債権債務関係を国家が規定する(国家による貨幣の制定)とする「表券主義)」という考えと結びつけて展開される。本書の立場は後者である。

わたしたちが、貨幣の起源を聞かれて頭に思い浮かぶのは、「商品貨幣論」だろう。現在の主流派経済学(新古典派経済学)がこの立場なので、経済学の教科書にも出てくるいわば「通説」である。これに対してケインズ及びその思想を継承するポストケインズ派は、「信用貨幣論」を基本とし、「表券主義」を結びつける。本書もこの立場である。一般的には主流派の説く商品貨幣論が広く認知されているが、中野は歴史学者や文化人類学者は信用貨幣論を支持しているとしている。

念のため、中立的な立場からの見解を探して、貨幣の起源に詳しい日本銀行出身の鎮目雅人(しずめ・まさと)教授(早稲田大学、日本経済史)の論文(*注2)を見つけた。鎮目によれば、商品貨幣論は「理論仮説として繰り返し提示されてきたにもかかわらず、証拠としては断片的な事例が挙げられているに過ぎず、必ずしも歴史的に実証されたものではない」としている。商品貨幣論は、歴史的事実に基づく通説と解釈していたのは、どうやら思い込みのようである。しかし、だからといって信用貨幣論が正しいと結論づけるのは早急にすぎるだろう。ここでは、鎮目がいうように「貨幣の起源や進化のプロセスについて、特定の説が有力であると断定することは難しい」と考えておくことにする。そうであれば、両論ともに仮説なのである。仮説であることを前提に、どちらがより理論的に納得性のある説明が可能かどうかを競うべきだろう。

・商品貨幣論

中野は、商品貨幣論を次のように説明する。ここでは物々交換経済が前提とされている。各自が自分が売りたいものを持ち寄り、「売り手」が売りたい物と、「買い手」が欲しい物が一致すれば物々交換は成立する。しかし、2人の人間の欲求の時間と場所がちょうど一致するという偶然が必要である。こうした「欲求の二重の一致」は常に成立しないので、この制約を克服するために貨幣が発生したと考えるのである。すなわち、特定の商品が、便利な交換手段(貨幣)として使われるようになるということだ。その代表的な「商品」が貴金属(特に「金」)であり、貨幣の起源であるというのが商品貨幣説である。

主流派経済学は、この商品貨幣論に立ち、貨幣は市場から生まれたと考える。中野は、ポストケインズ派の観点から商品貨幣論の問題点を、不換紙幣の説明が十分にできないことにあると指摘する。すなわち、商品貨幣論における貨幣は、金のようにそのもの自体に価値があり市場で売買されていることを前提としている。しかし、不換紙幣、例えばわたしたちが日常使っている日本銀行券は紙であり、それ自体に価値はない。それでも貨幣として流通しているのはなぜかという疑問が残る。これに対して商品貨幣論の立場からは、「歴史的に形成された社会慣習の結果として、不換紙幣を交換手段として受け入れるようになった」という説明がなされる。しかしそれでは十分に説明されているとは言えず、また人々が不換紙幣を貯め込む理由が「慣習」だけでは説明できないと思われる。後述するように、中野の「国定信用貨幣論」は、貨幣は国家が定めたものとしており、不換紙幣が受け入れられる理由の説明が可能であるだけでなく、人々が預金の形で退蔵する理由も分かるのである。

・信用貨幣論

次に信用貨幣論の説明を検討していきたい。「商品貨幣論」が物々交換の中から次第に貴金属が貨幣になったと考えるのに対し、「信用貨幣論」は貨幣の起源を売り手と買い手の債権債務関係から生まれる「信用」に求めるように、貨幣の本質を捉えようとする点が特徴だ。中野は、イングランド銀行はこの信用貨幣論に立ち、「貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」としているとする。そして、なぜ「負債(信用)」が貨幣になるのかを次のように説明する。

商品貨幣論は、物々交換において同時点の取引を想定している。しかし現実の取引は時間差があるのが一般的である。例えば海辺に住む人々が獲った魚を農作物と交換する場合を考えると、まず魚を渡して、農作物は収穫後に受け取ると考えるほうが現実的であるからだ。そうすると、財・サービスの「売り手」と「買い手」との間に「信用/負債」関係が発生することになる。そして負債が支払われる(先に受け取った魚の対価として後日に農作物を渡す)ことで、「信用/負債」関係は解消される。すなわち、通常「売買」として理解されている行為とは、本質的に「信用取引」だというのである。実際の経済ではこうした取引は無数に存在するので、ある二者間の関係で定義された「負債」と、別の二者間の間で定義された「負債」とを相互に比較し、決済する必要があり、負債を計算する共通の表示単位を導入する。これが「貨幣」だというのである。

そして、こうした決済を行う主体として「銀行」を考える。銀行が自らの「負債」である貨幣を発行して、決済するのである。銀行の業は商品の売買ではなく貸し出しである。したがって銀行は貸し出しを行うことによって貨幣を供給することになる。メカニズムはこうだ。まず銀行は貸出しを行い、借り手の預金口座に貨幣を入金する。これは借り手にとっては負債であり、銀行にとっては信用となる。同時に銀行にとって負債となる銀行預金が借り手の銀行口座に入金される。すなわち、銀行の貸し出しによって、銀行の負債である預金が創造され、貨幣として流通するようになるのである。

中野はこの現象を、「銀行の貸し出しは預金があるから可能になるのではなく、貸し出しを行うことによって、預金(貨幣)が創造されるのだ」とする。この指摘を読んで、銀行員時代の経験を思い出した。当時(約40年前)、経済はまだ成長期にあり、企業の資金需要は旺盛で銀行は貸し出しを毎年伸ばしていたし、所得も年々上がり預金がどんどん増えていた。営業担当者は貸し出しも預金も積み上げの目標があったので、それを達成するために必死であった。そして銀行は顧客に対して今よりずっと強い立場にあったので、貸し出しを実行して預金口座にお金が入金された後、その一部を引き出さないように依頼することが一般的に行われていた。ただ、そうすると顧客の実質金利が上がり不利益を被るので、当局が問題視して規制していた。こうした拘束性の預金は「歩積(ぶづ)み・両建(りょうだ)て預金」と呼ばれ、銀行の各支店では担当者を決めて当局の指導に抵触しないように管理していた。ただ、目標達成のためにどうしても預金を増やさなければいけないという時がある。その時、やり手の営業マンであれば、与信枠が空いている顧客企業に借り入れをさせて(ルールに抵触しないように工夫して)預金をつくっていた。もっとやり手であれば、他行で借り入れをさせて、それを自行に回して預金させていた(ある銀行から預金が流出しても他行にいくだけで銀行全体としては同じ)。預金は貸し出しを実行すれば創造できたのである。なお、自己資本比率による貸し出し拡大への制約があったはずだと言われるかもしれない。この規制は銀行の健全経営の観点から必要なものであるが(*注3)、それは逆に言えば、規制しないとどんどん資産を拡大して暴走するからであり、銀行の貸し出しによる預金創造機能を否定するものではない。

このように、銀行の貸し出しは預金がなくても無限に可能である。制約要因は、「借り手の資金需要と返済能力」(中野)ということになる。こうした需要に応じて貨幣が供給されるとする理論は、信用貨幣論の中の「内生的貨幣供給理論」と呼ばれる。これに対し、商品貨幣論のように貨幣を所与のものと想定することを「外生的貨幣供給論」という。中野は、後者に立てば、貨幣量は有限であり、預金の結果として貸し出しが可能になるという誤った議論を展開すると批判する。

さて、貨幣は現金通貨と預金通貨からなる。上述に見るように、銀行(商業銀行)は銀行預金(預金通貨)を創出し、中央銀行が「現金通貨(紙幣、鋳貨)」を創造する。銀行預金は、現金通貨との交換が保証されていることを裏付けとして、広く貨幣として使用される。では、その元となる中央銀行券という現金通貨はなぜ価値を持つのだろうか。中野はそれを、表券主義を結びつけるのである。

・表券主義

「表券主義」とは、「実体を持たない記号的・象徴的なもの」を意味する。商品貨幣論(金属主義)とは違い、そのもの自体には価値はないものが貨幣となっていることを指す。それを可能にするのは、「国家」だと考えるのが表券主義である。中野は「国家が、貨幣による納税を認めることで貨幣が人々に価値のあるものとして受け入れられるようになった」という考え方を進めて、納税の義務とは、国家が国民に強制的に課した「負債」であるとする。そこから貨幣とは負債であるという「信用貨幣論」と、貨幣の価値の源泉は国家権力にあるという「表券主義」を結合させるのである。これを中野は「国定信用貨幣論」と呼ぶ。

中野は、こうした貨幣論にケインズ革命の本質を見いだす。中野はケインズを引用して「人々は将来に向かって経済活動を行う中で、予測不可能な「不確実性」に直面している。将来に対する不確実性が高まり、何が起こるか確信が持てなくなって不安を覚えると、確実性が最も高い流動資産である貨幣を保蔵したがるようになる」とする。不確実性が高まると貨幣を貯め込むということである。現在の日本は、まさにこれが当てはまると言えるのではないだろうか。日本経済の低迷が長期化し、非正規雇用の増加によって雇用の不安定化が進む。将来の不確実性が高まっているので、個人は消費を控えて預金を増やし、企業は内部留保を積み上げている。その結果、貯蓄は投資に向かわずに、経済は低迷が続くことになる。

中野は、新古典派経済学が前提とするのは、すべて確率論で計算可能な「リスク」であり、計算できない「不確実性」は最初から想定されていないとする。その結果、(不確実性に立ち向かうための)「貨幣」を理論の中に位置づけられない(貨幣は中立だとされる)のだというのである。これに対し、信用貨幣は「国家が関与することで不確実性を克服」したのであり、それによって「資本主義の成立を促した」とする。

MMTは、このように「国家が納税手段として定めた」という点に貨幣の本質を見いだす。中野は、歴史的な例証として、イングランド銀行の銀行券(及び預金)の納税手段としての受け入れを挙げるが、最近もっと身近に具体例があることを知った。それは経済思想の研究で知られる松原隆一郎放送大学教授の近著『荘直温伝(しょうなおはるでん)』(*注4)と関係している。同書は、岡山県高梁(たかはし)の旧家の歴史をたどり、その中で江戸末期に庄屋であった当主の荘直温が時代の大変革の中で葛藤する姿を伝えている。

時代は明治維新期であり、新政府は抜本的な税制改革を行う。それまでは税金は米で支払われていた。米本位制である。江戸時代、農民は庄屋を通じて米を藩に納め、藩は武士に米を支給した。それが1873(明治6)年の税制改革で、庄屋の納税が物納から金納に転換されたのである。旧制度のもとで生活してきた人間にとって革命的な変化であり、松原は「資本主義の貨幣経済への強制的な転換は、この税制改革がもたらした」としている。ここから得られるのは、国定信用貨幣が産業化の中で果たした役割をみれば、それが貨幣の本質を突いていることが分かるということだ。ただ、松原は同書のあとがきの中で、簡単にMMTとの関連を触れているだけである(同書のテーマから当然であるが)。松原はケインズについての造詣が深い研究者であり、ぜひ、こうした実証研究に基づいた考察を進めて、MMTについての論考を発表されることを願っている。

機能的財政論

・国定信用貨幣論から導かれる財政の正しい理解

国定信用貨幣論に立てば、政府は無限の支払い能力を持つことになる。例えば信用制度(国債発行)を通じて銀行から資金を調達し、公共事業を行うことができる。そして銀行の政府に対する貸し出しも民間預金の制約を受けないということになるからである。したがって中野が指摘するように、財政収支を均衡させるべきだという「健全財政」論は間違いだということになる。

そのメカニズムを本書では次のように説明する。なお、民間銀行と政府は日本銀行に当座預金勘定を保有し、国債の売買資金はこの日銀当座預金を通して決済する。

① 政府は赤字財政支出を行う場合、国債を新規に発行して民間銀行に売却する

② 民間銀行が新規発行国債を購入すると、その購入金額分だけ民間銀行の日銀当座預金が減り、政府の日銀当座預金が増える

③ 政府が財政支出を行うと、支出額と同金額分だけ民間事業者が民間銀行に持つ預金が増え、同時に民間銀行の日銀当座預金もまた同額だけ増える。民間銀行の預金はもとに戻る

国債の売買が先にくるので誤解しがちであるが、中野が言いたいのは上記③であり、政府が財政支出を行うとそれと同額だけ民間預金が増えるということである。ここから「政府の財政赤字をファイナンスしているのは、民間貯蓄ではない」ことが導かれる。さらに、①②は制度上の決まりだから行われているだけで、③だけを実行することが可能だと言っているのである。なぜなら、政府は自国通貨をいくらでも発行できるので、支出を行う場合にも財源として国債を発行する必要はないからだ。では、なぜ①②のように国債を発行するかといえば、(制度上そう決めているからという理由を別にして)金利の調節に必要だからである。すなわち、政府支出に伴い民間銀行の日銀当座預金(準備預金)が増えると、準備預金が最低必要額を超えてしまい、金利が低下する。そこで国債を発行して民間銀行に売却し、超過分の準備預金を吸い上げることで、金利水準を調節するのだとしている。

では、政府支出には限度はないのかという疑問が湧いてくる。放漫財政にならないかということである。これに対して中野は、財政規範が必要だと答える。なぜなら、政府の支出が無限に拡大すれば、総需要が総供給を上回り、ハイパーインフレーションを引き起こすからだ。財政破綻(はたん)を起こさないための規範ではなく、過度のインフレを抑止するための財政規範が必要だというのである。ここから、MMTは、財政によって物価をコントロールすることが可能だと考えていることが分かる。これに対し、主流派経済学では、中央銀行が市場を通じて金利水準をコントロールすることを基本としており、対照的である。

・新しい財政論としての「機能的財政論」

中野は、こうした従来の財政論にはない新しい財政論を「機能的財政論」と呼ぶ。その第一の原則は、税金は政府支出の原資ではないことである。第二の原則は、政府による国債の売却は、財政支出のための「借り入れ」のために行うのではなく、中央銀行による金利の操作を助けるための政策手段として用いられる(金融政策の一部)という点である。

第一の原則がいうように、租税が財源ではないならば、何のためにあるのかということになる。いらないならば、無税にすればよいということにもなる。これに対し中野は、租税は、国民経済を調整して、望ましい姿にするための手段であると位置づける。すなわち、徴税によって通貨に相応の経済的価値がもたらされる。その結果、政府は紙幣を払うことで政策目的の達成に必要な財・サービスを民間部門から調達できるとする。さらに、租税は物価を調整するための手段だとする。税負担を上下させることで、物価を上下させることができるからだ。また、租税は、累進所得税による所得格差是正の手段となる。さらに炭素税による温室効果ガス抑制のように「望ましくないもの」に課税することでそれを抑制することができるとしている。

第二の原則は、すでに上記で見たとおりである。

以上から分かることは、MMTが財政政策を政策の中心に据えていることである。その半面、中央銀行の役割を軽視しているのではないかという疑問が出てくる。さらに言えば、国家の役割の重視と市場の軽視がMMTの特徴だといえるかもしれない。この点は次稿で検討したい。

本稿のまとめ

経済学は、一般的には三つの潮流があるとされる。アダム・スミス以来の古典派を継承する新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学である。今回のテーマであるMMTはケインズ経済学に理論的根拠を置いており、異端の経済学という見方は正しくないと思われる。

歴史的には、経済学の主流は、新古典派からケインズ派に移り、その後新古典派が再び主流派経済学の地位に復帰して現在に至っている。その変遷を、本書を参考にまとめれば――新古典派経済学は需要と供給は市場の価格機能によって均衡すると考える。すなわち売れない商品も価格が下がれば必ず売れる。労働力も同じである。賃金が下がれば需給は均衡するので、非自発的失業はないということになる。しかし1930年代の不況による失業の増大と格差拡大に新古典派は有効な政策を打ち出せなかった。そこに登場したのがケインズである。不況は需要不足によるものであり、非自発的失業をなくし完全雇用を実現するためには政府の財政支出による需要創出が必要だとした。ケインズ経済学は、第2次世界大戦後、世界的に福祉国家建設(「大きな政府」)の理論的支柱となった。しかし、1960年代に入り景気後退下でもインフレが高進したため、インフレ抑制が大きな政策課題となった。その原因をケインズ主義による「大きな政府」に求め、「小さな政府」を掲げる新自由主義思想が、1970年代の米国で影響力を増した。その理論的支柱となったのが新古典派経済学であり、以来、主流派経済学の地位にある。冷戦終結によって新自由主義思想は世界中に広がりグローバル化を推進したが、格差の拡大や金融危機の発生による不安定化が目立ち、批判が高まっている――ということになる。ただ少しややこしいのは、ケインズ経済学は米国において、ニューケインジアン(マクロ経済学に新古典派のミクロ理論を取り入れた)と呼ばれる一派を形成し、主流派の一翼を担っていることである。中野は、新古典派に反対するだけではなく、ニューケインジアンを「俗流経済学」だと批判している。そしてケインズ主義を忠実に継承するのがポストケインジアンだとする。その中の一部が、MMTによって主流派経済学に異議を申し立てているのである。

MMTは、貨幣に焦点を当てた理論である。そこから導かれる国定信用貨幣論は、前述の松原の研究に見られるように、近代の産業化を理解する不可欠の要素であることは明らかだ。ただ、それを認めると新古典派の理論の基盤(*注5)が揺らいでくるので、正統派経済学がMMTに反発するのだというのが中野の解釈である。しかし、新型コロナ危機が状況を変えつつあるように思える。各国政府は、危機対応でなりふり構わずに財政支出を行っている。そうした現実の前に、新自由主義(新古典派)の牙城とされたIMF(国際通貨基金)が、コロナ対策での財政赤字を容認したうえで、「低金利の恩恵で高水準の債務残高は当面はリスクにならない」と最新の財政報告で明言したと報道されている(*注6)。では今回はMMTの勝利に終わるのかというと、そんな単純な話ではない。MMTには疑問点や課題も少なくないからだ。次回は、それについて考えていきたい。

<参考書籍>

『富国と強兵――地政経済学序説』中野剛志著、東洋経済新報社(2016年12月初版)

『奇跡の経済教室――基礎知識編』中野剛志著、株式会社ベストセラーズ(2019年4月初版)

『奇跡の経済教室――戦略編』中野剛志著、株式会社ベストセラーズ(2019年7月初版)

(*注1)「民主社会主義」と「社会民主主義」は広義には同じ意味と考えてよいだろう。中野が、「民主社会主義」を使うのは民主主義の要素が社会主義より強いというニュアンスを出したいからだと思われる。

(*注2)『貨幣に関する歴史実証の視点――貨幣資料館リニューアルによせて――』(2017年)鎮目雅人早稲田大学教授。日銀の貨幣博物館リニューアルに際して寄稿したもので日銀のホームページからダウンロード可能。

(*注3)1988年に策定されたバーゼル規制(バーゼルI)によって、国際的に活動する銀行の自己資本比率、流動性比率等に関する国際統一基準が決められた(出所:「教えて!にちぎん」)。なお、バーゼルIの実施は1990年代半ばである。

(*注4)『荘直温伝(しょうなおはるでん)』松原隆一郎著(序文荘芳枝)吉備人出版、2020年4月初版

(*注5)新古典派の基礎となる一般均衡理論は「供給は常に需要を生み出す」というセーの法則を前提としており、セーの法則は貨幣のない物々交換の世界を想定している。

(*注6)日本経済新聞(2020年10月20日付);一目均衡『「強制MMT」で黙るカナリア』

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