п»ї 「MMTを考える」(その5) 『視点を磨き、視野を広げる』第50回 | ニュース屋台村

「MMTを考える」(その5)
『視点を磨き、視野を広げる』第50回

3月 30日 2021年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

今回は、グローバル化をテーマとしたい。中野剛志の『富国と強兵』を読みながらMMT(現代貨幣理論)を考えてきたが、世界的な反グローバル化、反緊縮の動きの中で、財政政策を中心とするケインズ経済学の復権が見られ、その一つの象徴的な問題提起が、MMTだからである。したがってMMTはグローバル化に批判的な立場である。その理由を見ることで、自由貿易、グローバル化の何が問題なのかを考えたい。

グローバリズムという言葉があるが、これは「地球を一つの共同体とみなして、世界の一体化を推し進めようという思想」(Wikipedia)である。その考え方にたち「ヒト・モノ・カネ」の国境を超えた活動が加速化する現象をグローバリゼーション(グローバル化)と呼んでいる。後述するように、グローバル化は歴史上何度か見られた現象である。したがって、歴史の必然であり、かつ世界的な動きなので、国家も企業もその状態に最適化しなければ生き残れないというのが一般的な理解である。しかし中野は、それは進歩史観的発想(国家から超国家へ)による思い込みであるという。拙稿前回第49回で見たように、中野はグローバル化と対立する存在として「国民国家」を考える。グローバル化と国民国家と民主主義はトリレンマの関係(三つ同時に成立しない)にあり、国民国家と民主主義を守るためにはグローバル化、正確に言えば行き過ぎたグローバル化(ハイパーグローバリゼーション)を規制すべきだと言う(*注1)。

グローバル化は、新自由主義思想によって正当化される。新自由主義は、経済活動は市場原理によって最も効率化されるという考え方である。そして、世界を一つの市場とするために自由貿易や資本の自由化を各国に求め、その妨げとなる規制の緩和や慣行の撤廃を強いる。しかし、その結果現出したのは、格差の拡大であり、経済の金融化と不安定化であった。中野は、こうした行き過ぎたグローバル化の弊害を批判し、国民国家をそれに抗する存在と位置づけるのである。まず、新自由主義によって疲弊した経済と生活の立て直しが必要であり、MMTを武器とすればそれを実現できると説く。

今回は、『富国と強兵』に加え、中野の著作である『TPP亡国論』(2011年)、『グローバリズムが世界を滅ぼす』(2014年、柴山桂太、エマニュエル・トッドらとの共著)、『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』(2017年、柴山桂太との共著)を参考にしたい

◆グローバル化の歴史は繰り返す

前掲書の共著者である柴山桂太京都大学准教授は、歴史上、グローバル化の動きは、盛んになったり衰えたりを繰り返しているという。たとえば――13世紀の元(げん)、15〜16世紀の大航海時代にもグローバル化があり、元やスペインが衰退すると、「脱グローバル化」に戻った――とする。そして――近代に入って、1870年ごろから第1次世界大戦の中断を挟んでグローバリズムの時代が続いた。この期間を、近代における「第1次グローバル化」とする。当時は、英国を中心とした時代であったが、恐慌と戦争によって終焉(しゅうえん)を迎えた。第2次世界大戦後は、ブレトンウッズ体制という「脱グローバル化」の時代であった。しかし1980年代以降は、新自由主義思想の影響が強まり「第2次グローバル化」の時代に入った――とする。

歴史が示すのは、グローバル化と脱グローバル化を繰り返すということだ。したがって現在のグローバル化も歴史的な一局面に過ぎないとしている。ただし、第2次グローバル化の終焉は、第1次のような恐慌と戦争というハードランディングではなく、ソフトランディングさせる必要があるというのが柴山の問題意識である。

◆グローバル化の問題点

現在のグローバル化は、新自由主義思想によって正当化されており、経済学的根拠は主流派経済学である新古典派経済学が担う。それに対して、中野は非主流派であるケインズ経済学(ポストケインズ派)の立場からグローバル化の問題点を指摘し、そのイデオロギーである新自由主義を批判する。中野や柴山が提示する論点は次の三つに要約される。

論点1:自由貿易の根本的問題は経済格差の拡大と経済の不安定化にある

「自由貿易」はグローバル化の基本条件である。国家による輸出入制限や関税を排除して、国際間で自由に貿易を行うことで、輸出国も輸入国も最大の利益を享受することができるという古典派経済学以来の基本理論である。前掲書の共著者であるフランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドは、この「自由貿易」を次のように批判する――自由貿易は初期には貿易が増大して肯定的な印象を残すが、自由貿易が進むと両国企業間の競争は激化し、企業は賃金をコストと考えるようになって賃金コストの削減に動く。その結果、企業の利潤が増えても、経営者や富裕層に回るだけで労働者に回らないので(「トリクルダウンの虚構」)、経済格差が拡大する。また、すべての国の企業が賃金コスト抑制の論理で動くと、世界的に需要が不足傾向になり経済危機は内在化され、周期的な危機の顕在化をもたらす――。

さらにトッドは、グローバル資本主義が主張する自由貿易と経済的国境の撤廃が最も進んでいる地域がEU(欧州連合)であり、域内の現実を見ればグローバル化の帰結がわかるというのである。トッドは――EUの唯一の勝者はドイツだ。ユーロ安で輸出産業は潤い、南欧を低賃金で下請けのように使い、貿易収支は大幅な黒字だ。しかしそのドイツにおいても国内の格差が広がり、低所得層が増え、出生率は低下している(*注2)。これがEUの現実であり、グローバル化が進む世界の明日なのだ――と警告する。

論点2:覇権国と新興国の対立の先鋭化

グローバル化を推進する上で、自由貿易の継続を担保するのは平和の維持である。したがって過去のグローバル化においては、経済的、軍事的に圧倒的な力を有する覇権国が存在した。近代の第1次グローバル化では英国、第2次グローバル化においては米国が覇権国となった。しかし歴史が示すように、グローバル化の進展によって力をつけた新興国が台頭すると、覇権国との市場獲得のための激しい競争が展開される。第1次グローバル化の英国に対しては、新興国ドイツが対立して最終的には戦争に至った。現在は覇権国米国に対して、新興国中国が対立している。

ここで柴山はわれわれの思い込み――自由貿易が正しく、保護主義は悪であるというイメージ――を否定する。一般的な歴史解釈は――第1次世界大戦で途絶えたグローバル化は経済復興とともに復活し、1920年代は国際協調と軍縮の時代であった。しかし大恐慌によって各国は保護主義に走り、第2次世界大戦に至った。保護主義が貿易戦争を生み、本物の戦争を招いてしまった――である。しかし柴山は、それは半分程度の正しさしかないとする。なぜなら、グローバル化が行き過ぎて格差が拡大し、労働者や農民といったグローバル化の敗者の声が高まったために、民主主義政体をとる先進国が保護主義をとるのは「歴史の必然であった」からである。そして、1930年代の失敗の原因は、「各国が保護主義をとってもなお共存が可能になるような、新たな国際協調の枠組みをつくることができなかった」という点に求めるべきだという。

現在の米国と中国の対立に当てはめれば、前回の失敗を繰り返さないために、柴山が指摘するように、自由貿易をいっそう促進するのではなく、自由貿易の抑制の中で新たな国際協調の仕組みを作ることが必要になっているのである。

論点3:エリートの劣化と大衆の平等幻想の崩壊

中野は、新自由主義はリーマン・ショックによって破綻(はたん)しているにもかかわらず、世界各地で依然として強い影響力を維持し続けているとして、そこに「エリートの甚だしい劣化」を見る。エリートたちは、新自由主義を積極的に信じているわけではなく、豊かな福祉国家という目標を実現してしまった後の先進国の舵取りの困難さを前にして、単に統治を放棄しているだけではないか、と問いかける。エリートの方向喪失である。

一方、トッドは、民主主義の発達した先進国で格差拡大が容認された理由を考察する。そしてかつて(1950年代まで)は、先進諸国においても低かった高等教育比率が40〜50%に高まることで、人々の平等イデオロギーが崩れ、今や教育格差が親にとって強迫観念となり、「不平等の潜在意識」となっていることを指摘する。さらに、先進国に共通する年齢構成の高齢化と福祉の充実が、高齢者にとって現状肯定的に作用することを指摘する。若い頃の生活と比べて「とてつもなく向上した現状を変えようという気はない」ということだ。教育格差の拡大と高齢化によって、人々は以前ほど平等というものを信じなくなっており、現状維持に協力的だとする。エリートの劣化と大衆の平等幻想の崩壊が、新自由主義の存続を許していると考えるのである。

◆日本で反グローバル化運動が起きない理由

日本のポピュリズムは新自由主義的

欧州大陸諸国では、反EUを掲げたポピュリズム政党が躍進している。グローバル化で不利益を被った人々が、結束して反グローバル化の動きを生み出しているのである。米国のトランプ現象も同じ要因で生まれたものだ(社会が壊れたからトランプが出てきた)。しかしそうした現象は日本では見られない。

柴山は、それは日本のポピュリズムは、中間層を担い手とする新自由主義的な要素をもっているからだという。なぜなら、左派も右派もベースとなる価値観は個人主義だからとする。理由として――日本の戦後左翼は、戦前の家父長主義的なものとか国家主義的なものを敵視した。そうした前近代的なものがあるから近代的な自我や個が確立できないという考え方である。「遅れた日本」と「近代(西欧)」の対置である――と説明する。右派(自民党支持者のイメージか)の人たちも、根っこには個人主義があり左派と同じだという。

こうした人々は新自由主義と親和性が高く、「グローバル化の担い手となった」とするのである。その結果、日本の大衆迎合的政治家(橋下徹、安倍晋三などを挙げている)はグローバリストであり、ポピュラリティーがあって反グローバル化という人物が出てこない。むしろ、「世界に蔓延(まんえん)しつつある保護主義に歯止めをかけるのが日本の役割だ」という意識をもっていると解説するのである。

対米従属が生む主権意識の喪失

もう一つ、日本で反グローバル化の動きが起きない、より根本的な理由として、柴山や中野が挙げるのは、「日本人の主権意識の喪失」である。戦後の対米従属構造は、日本の主権を奪っているに等しく、それに国民が慣れてしまっているから、「グローバル化によって主権を奪われている」という実感が全然ないからだという。

この解釈は、戦後日本に対する中野の理解からきている。すなわち――冷戦が続いた50年間、日本は「強兵なき富国」で、世界第2位の経済大国になるということを実現してしまった。本来ではありえないことが実現した背景には、冷戦構造があったことを冷徹に直視すべきであった。しかし、自由貿易で世界は平和になるといった幻想や理想主義を抱くことで、なんとなく納得してきた。その結果、日本に残ったのは「戦後の繁栄」神話である。日本人自身、それをプライドの源泉にしている。「私達は進歩の結果、戦争しないで豊かになったんだ」と保守もリベラルも「錯覚」をした――と辛辣(しんらつ)に批判する。

こうした理解に対しては、保守派だけでなくリベラルからも反論があるだろうと思われる。戦後日本の平和と繁栄は、日本人が戦前の反省にたち、自ら努力してきた結果だという誇りを持っている人が多く、それを否定されたと感じるからだ。しかし、中野の本意は、冷戦構造とその終結が何をもたらしたのかということを、地政学的に把握すべきだということである。第49回で見た中野の国家像や後述する総力戦論と関連する世界認識に基づくものであり、米中対立と米国の覇権の陰りの先に「領土と軍事力を巡る衝突が国際問題の中心に戻ってきた」時代の到来を見るのであれば、看過できない警句と受け取るべきである。

◆グローバル化のゆくえ

ポラニーの「大転換」の教え

柴山は、世界は脱グローバル化に向かうと予測する。その時、何が起きるのかを、経済人類学者のカールポラニー(1886〜1964年)の理論で読み解くべきだという。ポラニーが言うのは――19世紀後半に世界は、ヒト・モノ・カネがグローバル化していた(第1次グローバル化)。20世紀初頭にはそれが限界に達し、グローバル化のせいで社会から打ち捨てられた人々が、自分たちと社会を守るために徒党を組んで、グローバル化による破壊を食い止めようという対抗運動を始めた。それが極端な形にまで行き着いたのがファシズムやナチズムだった――である。

柴山は続けて、一般的な理解は――ファシズムに人々が走ったのは自由の価値を軽んじたせいだ。同じ過ちを繰り返さないためには、自由主義の原則をしっかり守っていかなければならない。――というものだが、ポラニーの理論はそれが誤解であることを示しているという。ポラニーは――互酬や再配分の基礎となる共同体が破壊されれば、人々がそれを取り戻そうと「社会の自己防衛」に向かうのは当たり前で、1930年代に起きた「大転換」は、それ以前の自由市場のイデオロギーに原因があった――とするのである。

自由市場のイデオロギーとは、市場経済は自由に任せれば、自動的に調節されるという考えであるが、ポラニーは「自然、人間、貨幣」の三つは市場の論理に任せてはいけないと批判する。自由に任せると、人間の自由そのものを破壊してしまうからである。宇沢弘文(*注3)の「社会的共通資本」や、松原隆一郎(*注4)の「共有資本」に同じ考え方が見られる。2人は、新古典派経済学が「市場においては需要と供給は自動的に均衡する」という古典派経済学のセーの法則(*注5)を継承し、市場での効率性の追求が人間に幸福をもたらすという前提に立つことを批判する。人間の労働を、賃金と需給関係によって均衡する市場の「商品」として扱うと、賃金の低下や労働時間の増大をもたらして人間の生活を破壊してしまうからである。

労働市場をグローバルに広げていけば、先進国の労働者は、新興国の労働者との賃金競争を強いられる。企業は、工場を海外に移すか、国内で非正規労働者に置き換えるかという選択を迫られる。良心的な企業があったとして、人間労働を守るためにその選択を拒否しても、海外企業との価格競争に負けるので、最終的には経済合理的に行動した企業に買収されてしまうかもしれない。それが現在、日本で、そして世界中で起きている現実だと思う。

総力戦論

ポラニーは、グローバル化への抵抗は、社会の自己防衛であると考える。この視点に立つと、自己防衛のために各国は市場経済を規制、管理しようとし、ファシズムやナチズム、ニューディール、社会主義が生まれたのであり、その本質は同じだということになる。総力戦論に通じる理解である。総力戦とは――軍隊だけではなく政治、経済、文化などあらゆる部門の総力を結集して戦う近代の戦争――をいう。第1次世界大戦がその始まりとされ、戦後各国は来たるべき戦争(第2次世界大戦)に備えて国民を総動員する体制構築のため統制を強めていく。こうした過程に焦点を当てることによって、そこに同質性を認めるのが総力戦論である(*注6)。

中野は、第1次世界大戦時の総力戦の経験があったからこそ、ニューディールの際に、「政府が無理やり力ずくで、エスタブリッシュメントの権益を削って再配分に回し、規制を強化して社会を安定化することも可能だった」としている。国家の強制力で、格差の是正は可能だということだろう。しかし当時は、恐慌が起こり、最終的には世界大戦に至る国際情勢が背景にあって、初めて実現できたことである。では、今回もグローバル化の終焉に伴って国際的な混乱が拡大して、国家の統制強化や戦争が起きるのであろうか。

◆まとめ

グローバル化に関する中野や柴山の主張を要約すると下記のようになる。

● 歴史的にとらえると、グローバル化は盛衰を繰り返しており、グローバル化そのものを不可避と考えるべきではない。むしろグローバル化が行き詰まりを迎えていることこそ、歴史の必然であると考えるべき。

● グローバル化の基本条件である自由貿易によって、輸出国も輸入国も最大の利益を享受することができると主流派経済学では教えるが、自由貿易が進むと両国企業間の競争は激化し、企業は賃金コストの削減に動く。その結果、企業の利潤が増えるが、経営者や富裕層に回るだけで、経済格差が拡大する。それがすべての国で起きると、世界的に需要が不足して経済危機は内在化され、周期的な危機の顕在化をもたらす。

● 20世紀初めの近代の第1次グローバル化の時代にも同じ現象が起きて、恐慌と戦争によって終焉した。この原因を、各国が保護主義に走ったことに求める見方は正しいとはいえない。むしろ――グローバル化の行き過ぎによって生活を破壊された人々が抵抗運動を始め、それに政治が応えた結果、国家による救済を目指したファシズム、ニューディール、社会主義が生まれた。そうした状況を背景に、当時の覇権国英国と台頭してきた新興国ドイツの市場獲得をめぐる熾烈な対立が先鋭化して戦争に至った――という理解が、より説得力を持つ。これを教訓とすべきである。

● 現在は1980年代以降から続く近代の第2次グローバル化の時代にあるが、格差の拡大と経済の不安定化を招き、世界的に反グローバル化の運動が勢いを増している。その象徴的現象が、EU諸国内での反EUを掲げたポピュリズム政党の伸張であり、英国のEU離脱や米国のトランプ現象である。

● このように、現在の覇権国である米国は、自ら推進したグローバル化の影響による国内の分断、金融危機の続発によって弱体化が懸念される。そこにグローバル化を最大限利用して台頭した中国が、米国に挑戦を始め、覇権を巡る米中対立が起きている。

こうした現状認識の下で日本は今後どう行動すべきかについて、中野は、グローバル化の行き過ぎを止め、国民国家として再出発すべきだと言う。そのためには、現在と反対の政策が必要だ。すなわち――国内産業を保護し、MMTの発動で財政支出を拡大して需要を創出する。これで安定した雇用を増やす。移民労働者は抑制する。そして、外交・安全保障面において、従来の対米依存一辺倒では、さらに情勢が流動化したときに選択肢がなくなるので、今から自律性を高める道を模索する――ということになる。

こうした政策は、大きな反発や抵抗にあうと思われる。中野がいうように、保守もリベラルも新自由主義思想の影響を強く受けており、その常識からは、反グローバル化や反緊縮は到底受け入れられないからである。しかし、中野が主張するのは、行き過ぎたグローバル化の抑制なのである。そしてその中で、国際的に協調可能な枠組みを模索していくべきという意見である。今回の新型コロナ禍が、グローバル化の推進を前提とした政策を見直す契機になるのではないかと期待したい。

また、安全保障面については、米中対立によって、日本の重要性が増している現状を見ると、日米同盟を堅持し、オーストラリアやインドなどを巻き込んで、中国に対抗していくという現在の政策が現実的だという意見が依然説得力をもつ。それを認めた上で、中野の意見を、不確実性に満ちた世界の中で主権国家として生きていくためには、最悪の可能性を想定しておくべきという警句として受け取るべきだと考える。平和憲法と日米安保体制の「檻(おり)」の中に自ら閉じこもって、民主主義と豊かさを追求するだけの幸福な時代は、すでに終わってしまっていることは確かなのだから。

<参考書籍>

『富国と強兵――地政経済学序説』中野剛志著、東洋経済新報社(2016年12月初版)

『TPP亡国論』中野剛志著、集英社新書(2011年3月初版)

『グローバリズムが世界を滅ぼす』中野剛志著、(2014年)

『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』中野剛志、柴山桂太著、集英社新書(2017年6月初版)

(*注1)グローバル化、国民国家、民主主義のトリレンマ:米ハーバード大学教授ダニ・ロドリック(1957〜)が提唱している

(*注2)ドイツの出生率:1.57(2017年)である。ちなみに英国1.74、フランス1.90、米国1.77、日本1.42(2018年)(資料:厚生労働省)

(*注3)宇沢弘文(1928〜2014年):東京大学名誉教授。専門は数理経済学

(*注4)松原隆一郎(1956〜):放送大学教授。共有資本については、第6回『共有資産と社会的規制』参照

(*注5)セーの法則:古典派経済学者であったフランスのジャン・バティスト・セーが唱え、新古典派経済学にも継承された。(Wikipedia)

(*注6)第23回、第24回『「総力戦体制」という視点』(前後編)参照

※『視点を磨き、視野を広げる』過去の関連記事は以下の通り

第49回 「MMTを考える」(その4)(2021年2月8日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-22/#more-11558

第24回「総力戦体制」という視点:野口悠紀雄『1940年体制―さらば戦時体制』を考える(後編)(2018年11月14日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-24/#more-7838

第23回「総力戦体制」という視点:野口悠紀雄『1940年体制―さらば戦時体制』を考える(前編)(2018年10月11日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-25/#more-7760

第6回 『共有資産と社会的規制』―“資本主義の問題点への対応”(2017年7月5日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-26/#more-6713

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