п»ї 「リベラル能力主義」について考える(その3) 『視点を磨き、視野を広げる』第60回 | ニュース屋台村

「リベラル能力主義」について考える(その3)
『視点を磨き、視野を広げる』第60回

6月 29日 2022年 経済

LINEで送る
Pocket

古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

はじめに:本稿のねらい

今回はリベラル能力主義の3回目として、日本におけるリベラル能力主義について考えたい。

最初に米国のリベラル能力主義について確認しておきたい。リベラル能力主義とは、リベラルな価値観(人権、民主主義、法の支配)が前提とする機会の平等の下で、誰もが能力と努力によって評価されるべきだという考え方である。米国のリベラル能力主義は、グローバル資本主義と結びついて社会システムとして定着している。それは、社会に豊かさと公正さをもたらすと信じられているからである。

しかしこのシステムそのものが格差の拡大をもたらすという批判がある。代表的なものとして米国の哲学者マイケル・サンデル(ハーバード大学教授)は、システムが経済的格差を生み出すだけではなく道徳的な問題を持つことを指摘する。なぜなら―競争環境が平等であれば、成功は個人の能力や努力によって決まる。したがって成功しなかった人は能力と努力が足りなかった(自己責任)ことになる。しかし、グローバル化とテクノロジーの進歩によって求められるスキルはますます高度化しており、それを持つ少数の人々と、持たない大多数の人々を生み出す。前者は高所得のエリートであり社会の成功者としてたたえられる。一方、後者の非エリートの所得は伸びないばかりか、自己責任だとされる。エリートと非エリートを分けるのは学歴であり、大卒エリートと非エリートの分断が広がっている―。

こうした問題は、米国社会が持つ諸矛盾(人種問題、極端な所得・資産の格差、地域間格差の拡大、学歴主義など)を反映したものであることに注意が必要だ。したがって、そのまま日本に当てはめるべきではない。しかし、日本の格差問題の背景に日本流のリベラル能力主義の影響を見ることは可能だ。そう考えて日本のリベラル能力主義をテーマにした本を探し、橘玲(たちばな・あきら)の『無理ゲー社会』を選んだ。橘玲は作家で、世の中の「不都合な真実を暴く」というスタイルの作品―例えば格差の存在を描いた『上級国民/下級国民』―で知られる。

本書の主張は、さまざまな学説で自説を補強しながら展開されるが、その多くは前稿で検討したマイケル・サンデルと重なる―「メリトクラシー(能力主義)」という言葉をつくり出した英国の社会学者マイケル・ヤング、能力主義の暗部としての絶望死を報告した経済学者アンガス・ディートンとアン・ケースなど―。こうした論理の展開だけではなく、格差の拡大の背景にリベラル思想を見る点においてもサンデルと似ている。しかし、日本型のリベラル能力主義は、米国のそれとは同じではないはずだ。そう考えて、本稿ではその特徴と問題点を探ることにした。

◆本書が示す日本の現状分析

橘は本書において、わたしたちはどのような社会に生きており、どう立ち向かうべきかについて語っている。いわば一人ひとりが生きていく戦略を策定するという視点を持てということである。そこで戦略論らしく現状認識、資源、戦略に分けて本書の主張を整理してみることにした。

・現状認識(我々はどのような時代に暮らしているのか/どのような世界に生きているのか)

橘は、わたしたちは「リベラル化、知識社会化、グローバル化」の世界的潮流の中で生きているという認識を持つべきだという。

「リベラル化」:

本書では、政治的イデオロギーのリベラルを指すのではなく、リベラルの価値観である「自分の人生は自分で決める」「すべての人が自分らしく生きられる社会を目指すべきだ」を意味している。

現代の社会がリベラル化している理由として―社会が豊かになると、人々は伝統的価値から非宗教的・理性的価値へ向かう「世俗化」と、生存価値から自己表現価値へと向かう「自分らしさ化」が顕著になる(*注1)。この「世俗化」と「自分らしさ化」が「自由に生きる」というリベラルと結びついて世界的なリベラル化の潮流となっている―ことを挙げる。

リベラルな社会は、誰でも自己実現が可能な素晴らしい社会である。しかしそれは能力がある者にとってのことであり、そうでない者にとっては「自己実現への絶え間ない圧力にさらされるディストピア」になってしまうかもしれない。前稿のリベラル能力主義の考察で見た負の側面である。

「知識社会化」:

本書でいう「知識社会」は、知識が経済的に大きな価値を持つ社会という意味で使われている。脱工業化や産業のサービス化、情報社会といった言葉で表現される現代社会を指している。そうした社会で最も重要な能力は「知能」である。そして橘は、知能には大きなばらつきがあることを指摘する。ここから遺伝に関わる論考が展開されていく。

「グローバル化」:

現代は、グローバル化―国民国家の国境の壁が低くなってヒト・モノ・カネの自由な移動が活発化すること―の時代である。世界の単一市場化は労働市場にも及び、能力主義の競争はグローバル化している。有能な人にとっては、簡単に国境を超えて職場を見つけることが可能になったのである。ただそうでない人にとっては、競争が激化していい仕事を見つけることはますます困難になっていく。

・資源(上記の時代認識・世界認識の中で我々が生きていくためにもつ資源は何か)

リベラル能力主義社会の中で生きていくのに必要な資源は、「能力(知能)+努力」である。ただし能力(知能)は遺伝と関係している。したがって、生まれた時から不公平な資源配分を背負っていることになる。本書ではそれを「親ガチャ」あるいは「遺伝ガチャ」と呼んでいる。親で全てが決まるという意味である。親が貧しくても自分が努力して成功すればいいではないかという論理には反論―持って生まれた知能だけでなく、努力するという性格は、親からの遺伝であるし、勉強を続けられる家庭環境も親次第―が用意されている。

・戦略(現状認識を踏まえ資源の制約の中で時代と世界にどう立ち向かうべきか)

⇨「現状認識」から言えるのは―わたしたちは、自己実現が可能であるリベラルな能力主義社会で生きている―ということである

⇨「資源」が示すのは―リベラルな知識社会で求められる資源は「能力(知能)と努力」であるが、その配分は不公平―である

⇨そこから導かれる「戦略」は―リベラルな能力主義社会に生きているのだから自分の能力と努力で自己実現を目指すこと―である。しかし能力を持たないものにとって人生の攻略は困難なものになっている

・経済格差と性愛格差

橘は、こうした現代社会を、攻略困難なゲームを強いられているという意味で「無理ゲー社会」と呼ぶのである。誰もが自己実現を目指せる社会であるが、ルールがある。それは―「自由」の代償として「責任」が伴うということだ。責任のないところに自由はない。自由と自己責任はリベラルな社会の基盤―である。

そこでは、誰もが夢を持って「自分らしく生きなければいけない」のだ。そうした社会では、人間のつながりは弱くなり、「ばらばら」になっていく。その結果、橘が「友情空間」と呼ぶ友人・知人との人間関係は縮小し、「愛情空間」と呼ぶ家族やパートナーとの繋(つな)がりが肥大化する。それによって性愛関係が重要なものと意識されるようになる。異性の獲得を求めての競争が激しくなるが、性愛関係は美醜(びしゅう)という遺伝的要素に支配されているので、必然的に少数の「モテ」と大多数の「非モテ」を生む。これが性愛格差である。しかし経済格差と違って無視されている。「非モテ」は金銭的成功を目指すしかないが、それができなければ誰からも顧みられない忘れられた存在として生きていくしかない。

このようにリベラル能力主義は経済格差だけではなく性愛格差も生み出すというのが本書の主張である。「性愛格差の底辺で愛情空間から排除されてしまった膨大な人たちを抱えこんでいる」という理解だ。

なお、本書では、「産業構造のサービス化によって友情空間が貨幣空間にアウトソースされ、いずれ不要なものとなるだろう(友だちの消滅)」として、それを埋める存在として愛情空間のさらなる拡大を予想している。しかし社会のデジタル化の進行(例えば「仮想空間(メタバース)」の世界)によって愛情空間もアウトソースされて不要となる日も近いのではないだろうか。友情空間も愛情空間もアウトソースされれば、あとは貨幣空間だけが残る。お金があれば人間関係さえアウトソースできる時代の到来に、金融資本主義の究極の姿を見るという視点が必要だと考える。

・本書の結論

橘は次のように結論する―わたしたちは社会的・経済的に成功し、評判(社会的成功)と性愛を獲得するという攻略困難な「無理ゲー社会」に生きている。そこから逃れられないのは、自分らしく生きるというリベラルの価値観がそれを強いるからである。そしてわたしたちが持っている能力(知能+努力)は遺伝(親ガチャ)によって決定されるにもかかわらず、リベラルな価値観は機会の平等のさらなる徹底を要求する。結果として自分らしく生きられる少数のエリート(上級国民)とそれができない大多数の非エリート(下級国民)を生み出す。しかも下級国民は自由に生きる代償としての自己責任を負わねばならない―。

こうした理解は、現在の日本社会、中でも若い人たちの「気分」をよく表していると思う。橘玲の魅力は、表立っては言いにくい社会の「残酷(不都合)な真実」をスパッと上手に表現してくれる爽快感にある。本書においても、日本におけるリベラル能力主義の一面を的確にとらえていると思う。しかしこれだけでは十分ではない。本書が提起する論点からそれを考えていきたい。

本書が提起する論点

・「メリット(merit)」は「知能」か「功績」か

能力主義(メリトクラシー)の「メリット(merit)」の日本語訳は、利点、長所、功績、実績などいくつかある。本田由紀(東京大学大学院教授)はサンデルの著書の解説の中で、「メリトクラシー」は「功績主義」と表現した方がふさわしいと言う。そして、メリトクラシーを「能力主義」と日本語訳することへの疑問を提起している。

本田は―英語の世界では「功績主義」という意味で用いられているメリトクラシーが、日本語では「能力主義」と読み替えられて通用してしまっている―と指摘している。そして、「功績」は証明された結果であるのに対し、「能力」は人間の中にあって「功績」を生み出す原因であるのに、日本では両者が混同されているというのである。続けて「その意味で日本は、「メリットの専制」よりも「能力の専制」と言える状況にある」としている。メリットを能力と訳すことで知能格差を連想させ、遺伝の方向に議論を牽引(けんいん)していくことになるという指摘だと思う。リベラル側からの懸念と見ることができるだろう。

一方、本書では、ヤングが定義したように能力(メリット)は、「知能(Intelligence)+努力(Effort)、すなわち知能に努力を加えたものである」とする。そして、現代社会ではメリットは「学歴」「資格」「経験(実績)」を意味すると考えられているが、そうしたとらえ方は教育と努力によってなんでも可能となるというリベラル社会の神話であるというのである。また、メリットを「功績」と訳すのは道徳的な含意があるので違和感があるとも言っている。橘は本書で、マイケル・サンデルの本に言及しており、(当然読んでいるはずの)本田の解説を意識しているのかもしれない。

・行動遺伝学が示すもの:遺伝と環境の影響を考える

橘は、能力主義を知能と努力ととらえており、知能も努力(できる性格)も遺伝の影響を受けていることを強調する。そしてそれを行動遺伝学の知見をもとに論じている。行動遺伝学とは―ヒトのさまざまな性質の遺伝と環境の影響を調べる学問分野―である。ただ本書の説明がわたしには少しわかりづらく感じたので、日本での行動遺伝学の第一人者とされる安藤寿康(あんどう・じゅこう)慶應義塾大学教授の講演レポート(*注2)を参考に考え方を下記のようにまとめてみた。その方が客観性があるし、内容は基本的に本書と同じである。

―行動遺伝学の三原則

①遺伝の普遍性:あらゆるこころの動きには遺伝子の影響がある

②共有関係の希少性:家族が似ているのは環境を共有するからではない⇨子育ての影響は遺伝子の影響より小さい

③非共有関係の優位性:環境の影響は家族でも一人ひとりみんな違う⇨非共有環境(友だち集団)の影響が大きい

安藤教授は、行動遺伝学は、遺伝の学問であると同時に、環境の影響(すべての能力が遺伝ではないこと)も明らかにすることができる学問であると言う。これに対して、遺伝決定論は能力の全てが遺伝によるものであり、非遺伝的要因は関与していないとする。したがって、行動遺伝学の立場は遺伝決定論ではない。

前述の三原則で重要なのは、共有環境(家族環境)よりも非共有環境(友だち集団)の影響が大きいという点である。したがって能力に与える影響は、遺伝と非共有環境が大きいということになる。本書では―極端な例を除き、ほとんどの人にとっては「氏(遺伝)が半分、育ち(非共有環境)が半分」―としている。

・本書が主張するもの

このように本書の立場は、遺伝決定論ではない。能力主義を考える上で、遺伝の要素を排除するのではなく、考慮すべきだという主張である。本書では、リベラルは遺伝の要素を最初からタブー視して否定し、「環境決定論」を主張してきたと批判する。子育てや学校教育で学力や人格形成が行われるとする説である。

その一方で、近年リベラルの中で「運の平等主義」という考え方があるという。これは―遺伝を全面的に認め、社会的・経済的成功は「遺伝的宝くじ(遺伝ガチャ)」に当たった幸運な者が独占し、遺伝ガチャに外れた者は成功から排除される―という考え方だという。不運は個人ではどうしようもないので、公正な補償を受ける権利があるという「福祉国家リベラリズム」の主張だというが、本書ではこれは「遺伝決定論」を前提としていると皮肉っている。

これを読んで、社会貢献に熱心なニューヨークの「意識高い系」スーパーモデルのテレビインタビューを思い出した。彼女は「自分はD N A(遺伝子)の宝くじに当たっただけだ。幸運に感謝しなくては」としゃべっていた。その時はスマートな表現だと感心したが、その背景にはこうしたリベラルの新しい考え方があるのだろう。

まとめ

能力主義は、能力の高い者が職場や社会で指導的立場につくべきだという考え方である。ただ能力にはさまざまな種類がある。それがスポーツ、音楽、数学などの才能であったら、優れた能力の有無を判別するのは容易である。大部分の人々はそうした能力に恵まれないが、不平等を容認している。特別な能力の分配が不平等なのは世の中の常だと知っているからだ。それでも誰もが人生を自由に生きる権利がある。そう考えて人々は自己実現―社会的成功(出世する、金持ちになる、評判を獲得する)による自己承認欲求の充足―を目指す。そのための機会の平等を求める立場が「リベラル」である。

しかし一方で、機会の平等にこそ陥穽(かんせい)があるというリベラル能力主義への批判がある。理由は、社会的成功を得るための能力(知能+努力)にも大きな個人差があるからだ。結果として経済的な格差が生じる。米国でそれが社会的な問題となっているのは格差があまりにも拡大しており、能力主義の敗者が陥る絶望死のような悲惨な現実があるからだ。しかし日本ではそこまでの現象は見られない。

本書が教える日本の状況は―。

①子供の人生は親で決まるという意味の「親ガチャ」という言葉が象徴するように「遺伝」で人生が決まると考える若い人が多い

②リベラルな自己実現という「夢」と、「親ガチャ」という「現実」との相剋(そうこく)の中で、人生は攻略困難なゲーム(「無理ゲー」)を強いられているようだという無力感が存在する

③こうしてリベラル能力主義―誰もが「知能と努力」によって成功できる―によって社会は「(知能の高い)上級国民」と「(知能の低い)下級国民」に分断されていくという理解が支持されている

こうした現状認識が、リベラル能力主義社会における格差の再生産と固定化を反映したものであるのは米国と同じである。しかし、これが日本型のリベラル能力主義の特徴かといえば、それだけでは不十分だと言わざるを得ない。本書は、米国のリベラル能力主義が持つ問題を、日本に置き換えただけ(うまい表現を使っていると思うが)という印象が強いのだ。

わたしは、米国で働いた経験がある。その時に日米の違いは雇用形態の影響が大きいと感じた。それらを能力主義という視点からとらえ直してみることで、その背後にある構造や制度の問題と結びつけて日本の特徴と課題を見つけたいと考えている―次稿に続く。

<参考書籍>

『無理ゲー社会』橘玲著、小学館新書(2021年8月初版)

『実力も運のうち―能力主義は正義か(The Tyranny of Merit – What’s Become of the Common Good?)』マイケル・サンデル著、早川書房(2021年4月初版)

(*注1)本書では、「世界価値観調査」によってこうした傾向が裏づけられているとする。「世界価値観調査」は、学者による国際プロジェクトである。日本からプロジェクトに参加している電通総研と同志社大学がまとめた『第7回「世界価値観調査」レポート』(2021年3月)がある。

(*注2):安藤寿康慶應大学教授の講演会(日本子ども学会;2013年2月23日)の発表原稿「遺伝子は『不都合な真実』か?」を参考にした

コメント

コメントを残す