п»ї 集まり散じつ仰ぐは同じき理想の光 「屋台村」開設10周年余話 『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第5回 | ニュース屋台村

集まり散じつ仰ぐは同じき理想の光
「屋台村」開設10周年余話
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第5回

8月 02日 2023年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番いい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも、沿道の草木を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

「ニュース屋台村」に執筆いただいている方々、そして執筆を考えていただいている方々へ。けさの東京は、この冬一番の寒さで、わが家の前の神社の境内の水場にも氷が張っておりました。まさに身が引き締まりますが、少々たるんだオヤジの心身にはちょうどいい感じです――。

私たちのニュースサイト「ニュース屋台村」が酷暑のこの夏、開設10周年を迎えるに当たり、開設当初前後の自らの文章を検索していたら、開設後まもない2014年の厳寒の正月に執筆陣や読者の方々に向けて書き送ったものが出てきた。2013年7月にサイトを立ち上げてからちょうど100本目の記事をアップロードしたタイミングに、「ぜひとも引き続きご寄稿ください」と暗に催促したものだ。当時、サイトを立ち上げたはいいがわずか半年で集まる原稿の数は目に見えて減り、開設当初からずっと編集に携わってきた者として「サイト閉鎖前夜」の悲壮感を抱きながら、冷静を保つふりをしつつその実、「なんとかしないと早晩閉村に追い込まれる」とかなり焦っていた。

その後も幾度となく閉村の危機に直面しながら、「ニュース屋台村」は今年7月17日に開設10周年を迎えた。この間、私も含めて計35人の執筆陣がのべ1572本(8月2日現在)の記事を公開してきた。たかが10年。しかし私には「されど10年」の思いが強い。この10年は、記者を生業(なりわい)とし、一貫して文字周りの仕事に従事してきた私にとって、本業を離れてまさに「真剣勝負」「格闘」の孤独な作業の日々だった。

◆いまだ自信がない校正・校閲作業

「屋台村」開設に至る経緯は、発起人で運営委員長を務める小澤仁バンコック銀行執行副頭取の『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第246回「『ニュース屋台村』開設10周年を迎えて」(2023年7月28日付)で詳述されているので、ここでは改めて触れない。

「屋台村」は1年余に及ぶ準備期間(日本料理割烹「すみだ川」での編集会議の大半は、杯を傾けるうちに本題からそれてしまうことが多かったのだが……)の末に、2013年7月「中高年オヤジの部活のノリ」で重い腰をようやく上げて船出したのだった。編集会議の当初から参加していた私は、いつのまにか編集長の座に祭り上げられてしまった。運営委員長・小澤さん、編集主幹・山田厚史さん、までは会議の流れですんなり決まったが、私が編集長になってしまったのは、ほかに人がいなかったから、だけのことである。

編集長の仕事は、「原稿料はありませんが…」と恐縮しつつ厚かましくも原稿を催促▽原稿の校正・校閲▽サイト運営とアップロード作業を委託している「バンコク週報」(本社バンコク)への依頼と調整――などである。私は本業の新聞社のデスク業務として、部下の原稿の校正には携わってきたが、校閲は専門の校閲記者にすがったまま未経験に近かった。

校正は誤字脱字など文章、文法的に問題があれば修正するのに対して、校閲は文章の内容にまで踏み込み、内容が事実か精査する作業をいう。まず「素読み」をした後、原稿中の固有名詞や数字、さらには書かれている内容について逐一ファクトチェックをして確認するという、かなり根気と忍耐を強いられる作業である。

私はこの10年の間、残念ながらボツにせざるを得なかった2本の原稿を含めて、計1574本のすべてについて初稿段階から校正・校閲作業を1人で担当してきた。しかし、この作業にはいまだに自信がない。

◆よぎる「訂正の悪夢」の不安

新聞は毎日読んでいるので、ニュースに関する固有名詞・数字に関する校正については、素読みの段階で反射的に「?」が頭の中にともり、過去記事検索などにかけて正誤を確認し、必要に応じて修正している。文字使いで不確かな場合は、日本新聞協会と朝日新聞の「用字・用語集」を開いて必ず確認している。この作業は本業から退いた現在も大変役立っており、「用字・用語集」を辞書のように引きながらいまも新しい発見の連続である。

ただ、校閲となると、話は違う。本業の校閲記者は専門職としてその指摘は実に鋭く、中途半端なことを書いていると必ず突いてくる。しかも優れた校閲記者は、指摘された記者本人が「まいりました。よくぞ見つけてくださいました」と恐縮してしまうほど、懇切丁寧に余白に追加情報を朱書きしてくれるなど、反論の余地がまったくない、その姿勢と作業は完璧である。

社会部の駆け出しの頃、先輩記者から「どんな短行のベタ記事でも、書く以上は自分の子どもだと思って最後まで責任を持て」と厳しく指導された。ネット記事なら、誤りがあっても上書き修正すれば済むが、印刷媒体の場合、そうはいかない。誤報を出してしまったら、穴があったら入りたいという屈辱感を味わいながら「おわびと訂正」の原稿を自ら書き、改めてデスクのチェックを受ける。社内的には「始末書」を書かされ、本来読まなくてもよさそうな者にまで回覧されてしまう。まさに「悪夢」そのものである。

最近の新聞はほぼ毎日、まるで競うかのように自社記事の「訂正」を載せている。新聞発行後に記者本人がミスに気づいて申告したり、読者から指摘があったり、社内から指摘があったり、とミス発覚の端緒はさまざまだが、いったん「訂正」を出すと、特ダネも卓越した内容への称賛もたちまち冷笑の対象に成り下がり、「紙面を汚した」「新聞の声価を貶(おとし)めた」と言われても仕方がない。

本業の現場では特に近年、「出稿者責任」「出稿者校閲」が厳しく問われており、畏敬(いけい)の意味を込めて「最後の砦(とりで)」「守護神」などと言われる校閲記者の責任はたとえ当事者本人は痛感していても、それを問うのはお門違いである。

ただし、「屋台村」に寄せられる原稿の大半は山田さんを除いて、書くことを生業にしていない人が書いたものなので、校正・校閲者の責任はおのずと大きいと自戒してきた。一方で、「用字・用語集」に忠実すぎるあまり融通が利かず、(私自身が現役の時、特定のごく一部の校閲記者に対してこう陰口をたたいていた)「用字・用語の原理主義者」と揶揄(やゆ)されないようできるだけ配慮しながら作業をしてきたつもりだが、アップロード公開後も誤りがないか、入稿後も実はヒヤヒヤで落ち着かないのはそのせいである。

全原稿を初稿から読む栄誉と財産

校閲記者が書いた本を何冊か読んでその極意をすくい取り、なんとかその領域に近づこうといまも努力はしているが、自分の専門分野でない場合、専門用語の一つひとつから調べていかなければならない。いまだに理解が「まだら模様」のまま、寄稿してくださった人にその旨も書いて返送するようにしている。

とりわけ、現在精力的に寄稿してくださっている山口行治さん(株式会社ふぇの代表取締役)の一連の屋台の原稿はどれも「難解」という言葉では到底収まらない極めて高度な内容で、「理解不能」のまま恐縮しつつ白旗を上げて返送することがある。とにかく落ち着いて毎回繰り返し集中して精読し、まさに真剣勝負で格闘している。しかしそれは、私にとって掛け替えのない、とても貴重な時間でもある。

山口さんを高校の時から知る小澤さんによれば、当時から「天才」と言われていたという。私は返送原稿を添付したメールに、「できるなら山口さんの頭の中がどんな構造になっているのか、開いてのぞいてみたいです」と書いたことがあった。

こうした原稿以外のやり取りなどもまた、「屋台村」に寄せられたすべての原稿の一本一本を初稿段階から読ませていただくという栄誉に浴してきた私だけの唯一無二の財産のほんの一例である。

◆「ケルンの一石」になれるか

この10年は、「自分史の10年」でもある。私は「ニュース屋台村」の開設当初、二つの屋台を繰り出して自らも書いてきた。読み返すと、原稿執筆当時の自分が置かれていた環境やその情景が色あせず鮮明に思い出される。「屋台村」は自ら書く機会も、そして、寄せられた原稿を最初に読む機会も与えてくれた、私にとって今も修業の場である。

その一方で、私は2018年10月、東京湾の江戸川河口から戻ってくるサイクリングの途中に、突然車道に飛び出してきた女児を避けようとして転倒。左ひじを粉砕骨折し、手術・入院した際はやむを得ず休載を余儀なくされたことがあった。また、妻の実家があるオーストラリア・シドニーに滞在していた際には執筆陣に無理を言って事前に原稿を書いてもらい、日本不在中も「アップロード予約」の裏技を使って、なんとか休載せずに済んだ。そして、原稿が集まらずにいよいよ払底し、山田さんと小澤さんが隔週で執筆する1本だけで窮状をしのいだことは何度もある。さらには、「そろそろ潮時。ひと区切りつけましょうか」と弱音を吐くこともたびたびあった。

しかしさすがに、中高オヤジたちは「いったんやると決めたらとことんやる」という共通の気概と図太さがあった。私たちのサイト開設時の決意は、「ニュース屋台村宣言」として明らかにした。それは「他に類を見ない媒体として、さまざまな分野の執筆陣が時代をナビゲートしていきます。 多様なものの見方を多彩な執筆陣が提供し、読者の情報の羅針盤をめざしながら、日本や世界の将来を見すえつつ独自の座標軸を打ち出していきます」という、かなり大上段に構えた内容である。その一心で続けてきた先に、図らずも「開設10周年」というマイルストーンがあった。しかし、この節目が、いまだ先が見えないでいるこれからの私たちにとって、「ケルンの一石」になるかどうかは正直、わからない。

10年の歳月の流れとともに、執筆陣の顔ぶれもずいぶん変わってきた。おそらくこれからも変わるだろう。ただ、母校の校歌の好きな一節、「集まり散じて人は変われど 仰ぐは同じき理想の光」の心意気は持ち続けたい。

私自身、本業は今年1月に定年退職し、現在は無職の身。これまでは、本業の傍ら「屋台村」の編集作業はしんどい、と勝手な理由を付けてしばらく執筆せずにいたが、本業がなくなってしまったので言い訳はもうできなくなった。これからは重い腰をヨッコラショと上げて、生来怠け癖の強い自らの背中を押して再び書いていこうと思う。

これまで「ニュース屋台村」に執筆陣として参加され、しばらくお休みしている方々や、読者の方々にもぜひ、「屋台村」の輪に積極的に加わっていただきたい。大歓迎である。「屋台村」の入り口の間口をさらに広げ、さまざまな分野の方々にご専門の領域や関心のあるテーマについてぜひ自ら屋台を繰り出して発表していただきたい。そして、より多くの読者の方々に読んでいただきたいと切に願っている。それが、このサイトを10年続けてきたわれわれ中高年オヤジの心の糧(かて)になると信じて疑わないからである。

※「ニュース屋台村」過去の関連記事は以下の通り

『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第246回「『ニュース屋台村』開設10周年を迎えて」(2023年7月28日付)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-126/#more-14043

「ニュース屋台村」執筆者懇談会。後列左から、北川祥一さん(北川綜合法律事務所代表弁護士)、引地達也さん(みんなの大学校学長)、山本謙三さん(元日銀理事)、小澤仁運営委員長、古川弘介さん(元東海東京フィナンシャル・ホールディングス執行役員)、山口行治さん(株式会社ふぇの代表取締役)。前列左から、山田厚史編集主幹、岡本登編集長。東京都中央区のうなぎ「はし本」、2023年5月25日撮影

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