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タイはセター政権下で何が変わるのか
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第253回

11月 03日 2023年 国際

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

今年5月14日に実施されたタイの下院総選挙は大方の予想を覆し、前進党の地滑り的大勝となった。この選挙の結果分析と新政権の枠組みの予想などは、拙稿第243回「前進党が大躍進-タイ総選挙を総括」(2023年6月16日付)で私の考えを明らかにした。

7月13日に1回目の首相指名選挙が行われ、下院第1党となった前進党の党首ピタ・リムジャーランラット氏が立候補したものの、保守系議員が大半を占める上院議員の支持が得られず、首相に選出されなかった。このため、首相指名選挙の主導権は前進党から第2党のタクシン派のタイ貢献党に移った。タイ貢献党は上院議員の支持を得るため「前進党外し」を画策。最終的には、親軍政党である国民国家力党(PPRP、プラウィット副首相派)や国家建設タイ合同党(UTN、プラユット首相派)を巻き込んだ大連立政権をもくろんだ。8月22日に上下両院議員による2回目の首相指名選挙が行われ、タイ貢献党のセター・タウィーシン氏が立候補。プラユット首相に近い上院議員が賛成に回ることにより、センシリ財閥のオーナーであるセター氏が首相に選ばれた。

新内閣の主要閣僚人事が9月2日に発表された。セター政権は紆余(うよ)曲折を経て本格始動したが、果たしてどのような政権運営がなされるのであろうか? またそれに伴いタイの政治・経済はどのように変わっていくのであろうか? 2回目の首相指名選挙と同じ8月22日に、タクシン・チナワット元首相が15年の亡命生活を終えタイに帰国した。タクシン氏は首相の座を射止めたセター首相の出身母体であるタイ貢献党の実質的なオーナーである。タクシン氏の帰国はタイの政治・経済にどのような影響を与えるだろうか? 政治は「一瞬先は闇」と言われるが、現在の政治・経済の体制が当面続くことを前提に、私なりに今後のタイの政治・経済の変化を予測してみたい。

◆4年の任期全うか

まず、セター内閣の主要閣僚の顔ぶれを見てみよう。今回の政権に参画した主要政党は、総選挙で2番目から5番目までの議席数を獲得したタイ貢献党(141議席)、タイ誇り党(71議席)、PPRP(40議席)、UTN(36議席)で、それらの政党に政策の一致はほとんど見ない。強いて言えば、急進的改革を唱える前進党(151議席)への警戒感だといえよう。

それよりも政権の「蜜の味に群がるアリ」の様相が強いように感じられる。軍事政権の下で約10年にわたり、政権の座から離れ野党の悲哀を味わってきたタイ貢献党は資金的にも干し上がっていた。逆に、プラユット政権下で利権を味わってきた親軍政党やタイ誇り党などは「何が何でも政権にぶら下がっていたい」と強く願っている。こうした人たちが政権を担っている。

できるだけ長く、すなわち次の下院総選挙がある4年後までは政権を手放したくない、と考えるのは自然の流れである。たとえ、1年後に迫った上院選挙で前進党の大躍進といった地殻変動が起こっても、首相指名選挙をしなければ現在の内閣は維持される。こう考えると、セター政権は4年間の任期を全うする可能性が高い。政権側による前進党の解党処分などの過激な措置が取られない限り、政治に大きな混乱はないであろう。

◆内閣主導ではなく政党単位の施策

次に主要政党と閣僚の配置を見ていこう。副首相は6人いるが主要政党で分け合っており、各党とも党首級の人物を送り込んでいる。こうした副首相自らが、主要省庁の大臣を兼務している。例えば、タイ貢献党の経済チームの要(かなめ)であるプムタム氏は副首相兼商務相、タイ誇り党の党首アヌティン氏は副首相兼内務相、UTNの党首ピラパン氏は副首相兼エネルギー相など、利権が絡む省庁が各党に配分されている。

さらに大臣職を見ても、政権内第1党のタイ貢献党に厚めに配分されているものの、タイ誇り党は内務相以外に教育関連の大臣ポストが二つ、UTNはエネルギー相と工業相、PPRPは天然資源相と農業相など、各党が強みを持っている省庁が配分されていることがわかる。

こうした大臣ポストの配分から読み取れることは、今後のタイの政治・経済施策が内閣主導というよりも、各党単位の施策に流される可能性が高いということであろう。このため、社会変革を伴うような大規模な施策は当面棚上げ。各省庁にまたがるような案件の調整も困難を極める可能性が高い。

◆ばらまきと外資誘致に動く政権

では、セター政権は何を売り物にして政権運営をしていこうとしているのであろうか? 主要政党各党が自分たちの利権が絡む省庁を抑えてしまった中で、セター首相が注力できる分野は経済分野の一部に限られる。タイ貢献党の経済運営チームを見ると、前述のプムタム副首相兼商務相以外にプロミン元官房長官、キティ元財務相の名前が挙がっている。これら3氏に共通することはいずれも元共産党員で、タクシン愛国党政権時代に「30バーツの国民医療制度」や「1村100万バーツの互助金制度」などの社会主義的色彩の強い制度を導入したチームのメンバーだったことである。

タイ貢献党は先の下院総選挙でも「国民1人当たりデジタル通貨1万バーツの支給」や「最低賃金400バーツへの引き上げ」など、ばらまき政策を公約としていたが、さっそく国民受けを狙ったこれらの施策を導入しようとしている。タイの日系企業はこれらのばらまき政策はコストアップ要因となりかねないので注意を要する。

さらにもう一つの政策が、実業家出身のセター首相とパープリー副首相兼外相の二人三脚による外資誘致策である。セター首相は就任後米国に飛び、テスラ社やマイクロソフト社などと面談。10月17、18日に北京で行われた中国政府主催の「一帯一路」の会議に出席し、習近平国家主席やプーチン・ロシア大統領と会談した。セター首相は中国の主要自動車メーカーとも会議を行い、タイへの工場誘致を要請した。

ウクライナ・ロシア戦争や中国・米国間の緊張の高まりなどから地政学的にリスクが低いと考えられているタイの需要は高まっている。現にタイで工業団地の販売を手掛けるアマタナコン社やWHAグループなどは「今年は過去最高売り上げの見込みで、現在は販売できる手持ちの土地が無い」という。それほどまでに中国、台湾、米国などの各企業がタイに押し寄せてきている。

日本はかつてタイへの最大の投資国として国別投資額で全体の50%を超えていたが、2022年には16%まで低下し、存在感を弱めている。タイ政府は中国や米国の政府に秋波を送り、投資の呼び込みに必死である。先発組としていち早くタイに進出した日系企業は、後発の中国や米国の企業を迎え撃つ立場にある。自動車産業などを中心に競争激化が予想され、日系企業は新たなビジネスチャンスに立ち向かう覚悟が必要だ。

◆タクシン氏の動向に注目

一方、8月に帰国したタクシン元首相は今後、タイの政局にどんな影響を与えるだろうか? タクシン氏は亡命期間中に8年の実刑判決が確定していた。しかし、帰国後、国王の恩赦により刑期が1年に減刑。健康状態に問題があるとのことで警察病院に送られた。現在はバンコク市内の中心部にある警察病院の特別室に収容されている。

ところが不思議なことに、タクシン氏の動静についてはタイのマスコミは全く報道していない。本当に警察病院にいるか確認できていない。刑期は1年に減刑されたが、年末年始の定例恩赦などで来年2月には刑期が満了するとの観測もある。

タクシン氏の帰国に当たってはそもそも、前進党を外した政権運営を行う▽不敬罪の変更には与(くみ)しない▽タクシン氏は今後積極的に政治に関与しない――などの密約があったといわれている。真偽はわからないが、その後の政局を見ると、あながちうそではないような気がする。

ただ一方で、帰国後、タクシン氏は不敬罪で訴追されている。この裁判で実刑判決が出るようなことになれば、タクシン氏の身の上も決して安全ではない。タイ貢献党は実質的なオーナーであるタクシン氏が人質に取られたような形では、今後ますます保守的な傾向を強めていく可能性が高い。

◆地方で巻き返し図る前進党

最後に、下院総選挙で第1党になりながら政権から排除された前進党の今後について考えてみたい。今回の密室での政権誕生劇を見せられて、前進党を支持したタイ国民の失望感は深い。世論調査によると、「タイ貢献党に投票した有権者のうち15~20%は次回選挙で同党に投票しない」と回答。またタイ貢献党に近い過激な左派グループやUTNに近い右派の過激派は、今回の節操のない談合劇に嫌気が差し、活動を停止したという。

一方、タクシン氏の地元で、従来タイ貢献党の最強地盤だったチェンマイを含む北部地域では、下院総選挙で前進党に大敗。政権中枢に顔が利く下院議員が激減したため、同党のチェンマイ支部が混乱しているという。既存政党に対する不信感がじわじわと国民の間で広がっている。

こうした中、前進党の実質的オーナーとされるタナトーン・ジュンルアンキット元新未来党党首が巻き返しのため地道に地方票の掘り起こしをしているようである。タイは元々、中央政治による地方政治への関与は少ないとされる。タナトーン氏は2020年に憲法裁判所により10年間の政治活動禁止を命じられた。しかし、禁止された政治活動は中央政治に関するもので、タナトーン氏はこの判決を逆手に取り、地方政治に前進党を根付かせようとしている。

前進党は、次回の地方選挙で全選挙区に候補を立てる準備をしているという。政権の中枢を占めたタイ貢献党以下主要4党が中央での利権獲得に躍起になっている間に、前進党は確実にタイ国民の中に浸透し、前回以上の支持を得る可能性が高い。タイ政界は4年後、全く違う景色が見えているかもしれない。

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り

第243回「前進党が大躍進-タイ総選挙を総括」(2023年6月16日付)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-123/#more-13941

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