山本謙三(やまもと・けんぞう)

経済学の学説に「ライフサイクル仮説」がある。一生涯を通してみると、現役の間は所得の一部を貯蓄に回し、引退後は貯蓄を取り崩して消費に充てる、というものである。貯蓄は将来の消費のため、というわけだ。
きわめて自然な考え方にみえるが、実際には、日本の高齢層は引退後も貯蓄を増やし続けている。あくまで「世帯平均」の話だが、どうしてこうなるのか。
記事全文>>経済学の学説に「ライフサイクル仮説」がある。一生涯を通してみると、現役の間は所得の一部を貯蓄に回し、引退後は貯蓄を取り崩して消費に充てる、というものである。貯蓄は将来の消費のため、というわけだ。
きわめて自然な考え方にみえるが、実際には、日本の高齢層は引退後も貯蓄を増やし続けている。あくまで「世帯平均」の話だが、どうしてこうなるのか。
記事全文>>私たちは日ごろ生活を送る中で「他人からお金を借りること」がある。生活資金を親から借りたり、住宅取得資金を銀行から借りたりする。しかしこうした「借りたお金は返さなければいけない」ことは誰でも知っている。人として生きていく上での当たり前の規則である。ところがこうした常識が「国の借金」となると全く当てはまらなくなる。日本国民は「国の借金はいずれ雲散霧消してしまうものだ」と信じているようである。さもなければ「多額の借金があるという事実から目を背けている」だけなのかもしれない。しかし国の借金といえども、いずれ誰かが借金の返済を迫られるのである。
矢野康治(こうじ)財務事務次官が月刊「文芸春秋」11月号に、「このままでは国家財政は破綻する」という記事を寄稿した。衆議院選挙前の10月19日にこの記事が公表されると、マスコミの間では一時、蜂の巣をつついたような騒ぎとなり「国家財政の健全化」議論に一石を投じた。今回の衆議院選挙ではコロナ禍の中とはいえ、与野党ともに財政資金の大判振る舞いを公約としていたからである。中には「国家公務員が公の場で自分の考えを述べるのがけしからん」といった国家主義的発言をした政治家まで現れた。
記事全文>>◆はじめに
中国共産党は今年11月の中央委員会第6回全体会議(6中全会)において「歴史決議」を採択し、日本経済新聞は一面トップで「社会主義回帰、資本主義と再び対峙」と見出しをつけた。米中対立は、資本主義対社会主義の対立の構図という理解は正しいのだろうか。
前稿では国際政治学者・佐橋亨(東京大学准教授)の『米中対立』を読んだ。佐橋は――米中対立は相互不信が根底にあるため長期化する――と見る。この見解に納得しつつも、対立の背景にグローバル資本主義を重ねることによって、事象をより構造的に理解できるのではないかと考えた。すなわち――米ソ冷戦の終焉(しゅうえん)を資本主義と民主主義の勝利だと信じた米国は、それを世界に拡大するためにグローバル化を牽引(けんいん)し、巨大市場を持つ中国をW T O(世界貿易機関)に招き入れた。中国は、グローバル資本主義への参加によって経済力を飛躍的に高めることで富国だけでなく強兵も実現した。米国は、中国が経済発展に伴い民主化を進めて米国が主導するリベラルな国際秩序に従うことを期待したが、それは裏切られた。不信感を強めた米国は、中国の軍事的伸張に危機感を募らせて対中強硬策に転じ、それに中国が反発して相互不信に陥り、対立が激化した――。
しかしながら、この理解は「中国とは何か」という考察が十分ではないことに留意しなければならないと考えている。そこで今回は、中国への視点を持った本として米国の経済学者ブランコミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』を取り上げたい。
記事全文>>石油の時代はもう終わる。そんな「エネルギー革命」に逆らうかのように原油価格が上昇している。ガソリンが上がるだけではない。燃料費の高騰は物流費や生産コストを押し上げる。アメリカでは消費者物価指数(CPI、季節調整済み)が10月、前年同月比6.2%増に跳ね上がり、31年ぶりの上げ幅となった。デフレの暗雲が漂っていた世界は、にわかにインフレへと目を向けるようになった。
原油・資源・食糧などの価格高騰を「一時的な現象」と見るエコノミストは少なくなかった。新型コロナの蔓延(まんえん)で世界経済は1年余も落ち込み、需要不足から様々な分野で生産が停滞、供給は絞られていた。ところが、感染が一服し、アメリカを先頭に需要が回復。経済が軌道に乗ると今度は、供給が追いつかない状況が生まれた。企業は素材・原料の確保に走り、春先からモノ不足が顕在化した。
記事全文>>農園は来春の準備が始まった。前回『週末農夫の剰余所与論』第21回に晩秋の農園を報告してから、すでに2カ月が経過している。毎年同じような農作業の繰り返しが、15年以上続いている。予測不能な天候と、気まぐれな農作業なので、毎年新しい発見と、たくさんの失敗がある。
来春の準備中=2021年11月19日 筆者撮影
記事全文>>1 「デジタル遺産」機能
近時、IT大手企業よりその提供するサービスに関連して「デジタル遺産」プログラムなる機能の追加が発表されました。
これは、ユーザーにおいて自身が亡くなった後に当該アカウントの特定のデータへのアクセスを認める人物を指定し、指定された人物は、死亡証明書類を提出し、かつ必要なキーを持っていれば、一定のデータにアクセスできる、というもののようです。
元々、亡くなったユーザーのアカウントへのアクセスのリクエストという手続きは存在しているようですが、これについては、その規約から読み取れる必要書類などからは一定の手続の難しさ・煩雑性があるものと思われ、また、今回の新しい機能がユーザー側からの積極的なデータの開示という特徴を持つこととは異なるものといえるでしょう。
このような「デジタル遺産」機能は、一定のデジタルデータを相続人等に遺したいと考えるユーザーのニーズには資するものといえそうです。
記事全文>>日本は名目GDP(国内総生産)では依然として世界第3位の経済大国であるが、過去30年その総額はほとんど伸びなかった。その結果、日本の1人当たりの購買力平価GDPは世界193か国中33位で、韓国の後塵(こうじん)を拝することになってしてしまった。一方、中国は過去30年にわたり急速に経済発展を遂げており、2010年には日本を抜いて米国に次ぐ世界第2位の経済大国となった。2020年の中国と米国の名目GDPの差は約6兆ドルまで縮まっており、2028年にも中国が米国を抜くとも言われている。
しかし、日本のマスメディアの記事を見ていると、中国の大手不動産会社である中国恒大集団の支払い不履行問題や、世界的なエネルギー危機から「中国経済の破綻(はたん)」を予想する論調が目につく。私たち日本人は本当に中国の実像を理解しているのであろうか? 私の知る中国人の支配者階級の人たちは、必死になって日本を研究し日本を追い越していった。京セラの創始者である稲盛和夫氏の主宰する経営学の勉強会「盛和塾」が、日本よりも中国で人気を博したことからもこのことはわかるであろう。いまや中国の名目GDPは日本の3倍である。今こそ私たち日本人は冷静に中国を分析し、必要なものは中国から学ばなければいけない時に来ている。今回は、中国の過去30年の発展の要因をデータから読み取っていきたい。
記事全文>>総選挙の前と後で政治を取り巻く空気はガラリと変わった。自民党に向かっていた批判の矛先が立憲民主党へと移った。世論を「右旋回」させたのは議席3倍超の日本維新の会だが、もうひとつ見逃せない勢力がある。労働組合の全国組織「日本労働組合総連合会(通称:連合)」である。
投票の翌日、連合の芳野友子会長は記者会見で「連合の組合員の票が行き場を失った。到底受け入れられない」と語った。「受け入れられない」のは、投票結果ではない。立憲が小選挙区で共産党などと行った選挙協力のことだ。この発言を機に、「立憲民主党の敗北は、野党共闘が原因」という声が広がった。
記事全文>>過去30年にわたる日本経済の長期の低迷は、コロナ禍による経済苦境と相まって日本の賃金の低さを浮き彫りにした。身近に迫った生活苦の恐れから、ようやく多くの日本人がこの「相対的貧困」という事実に気づくこととなった。しかし日本人の貧しさの原因を「中国元凶の資源高」や「悪い円安」などの一過性の問題にすり替えようとする論調がマスコミの中で後を絶たない。そもそも日本の貧しさの根本要因は「日本の製品やサービスが世界的な競争力を失った」ことにある。さらに「円安誘導などで実質ダンピング(価格引き下げ)を行ってきた延命策のコストを日本国民全体で分担させられてきた」結果、日本人総体が貧しくなってきたのである。いまや日本の1人当たりの購買力平価GDP(国内総生産)は世界193か国中33位となっており、2018年には隣国の韓国に抜かれてしまった。
日本人が豊かさを取り戻すためには、なによりも日本の製品やサービスの競争力を向上させることが必要である。民間レベルでは経営方針の見直しや人事制度の改革など複合的な施策の動員が必要となる。一方、日本全体としては30年間全く効果を生み出さなかった政府の成長戦略の抜本的見直しが必要である。その中心的施策の一つが「日本製品やサービスの競争力向上」を担保するための教育制度改革にあると私は考えている。今回は日本の教育の現状を振り返るとともに、改革の要諦について考えていきたい。
記事全文>>ⓒ福田徹、一般社団法人二科会写真部、2021、第69回展二科会写真部作品集、p387
写真が記録ではなく表現となったのは、いつごろからだろうか。筆者は『見ることの神話』(中原佑介 著/粟津潔 デザイン、フィルムアート社、1972年)に決定的な影響を受けた。写真家はシャッターを押す前に、何かを見ている。写真家には見えていないものが、写真に偶然写ることもあるだろう。しかも、写真家は作品となる写真を見ている。写真機がデジタルになっても、写真家の網膜や頭脳は、アナログであり、デジタルでもある。網膜の視神経や、脳の神経細胞は、個数を数えうるという意味でデジタルだ。しかし、ひとつの神経細胞では「見る」という機能を実現できない。多くの神経細胞がネットワークでつながり、神経細胞以外の細胞たちと共に生きているという意味ではアナログだろう。『見ることの神話』ではさらに、ひとりで見ることはできない、少なくとも表現としての「見ること」は、社会や社会制度に大きく依存し、制約され、表現の「場」の問題でもあることを明らかにした。物理学における「場」は、波動とともにありアナログな世界だった。量子力学によって「場」も量子化され、粒子の生成と消失を表現する「場」のデジタルな性質も明らかになった。写真が表現となったのは、写真を撮るのではなく、写真を見ることが意識されたときからと、暫定的に答えておこう。
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