п»ї 所与としての生活者 『週末農夫の剰余所与論』第3回 | ニュース屋台村

所与としての生活者
『週末農夫の剰余所与論』第3回

11月 02日 2020年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

前回は、筆者の農園「Magley2号」の2020年7月2日の様子を紹介した。早くも秋が終わろうとしている。今年の収穫はサトイモ、ヤーコン、ショウガを残して、農園ではタマネギやニンニクを植えるなど、来年への作業が始まっている。週末農夫としての時間と体力に限界を感じ始めているけれども、新しい季節は予測不能なのだから、来年も何か新しい試みをしてみよう。

「所与」は、哲学の文脈では「感覚与件」(sense data)として議論されることが多い。筆者はライプニッツの個体論にさかのぼって、「所与」を「データ」そのものとして理解することを試みている。個体論は、17世紀の哲学者ライプニッツの哲学における出発点だった。ライプニッツは2進法を発明して、万能計算機の実現可能性を確信した最初の哲学者だけれども、おそらく彼自身も「データ」としての「所与」を理解できないまま、『モナドロジー』(岩波文庫)としての個体論を後世に残した。現代流にいえば、「データ」を定義するためには、データベースの属性に与えられた値と理解することが直接的だろう。しかし、データベースの属性はどのように与えられるのだろうか。17世紀の哲学者スピノザのように、神がすべての属性を創出したと信じる人は少なくなったかもしれない。一方で、人工知能(AI)が大量のデータから、データベースを作成するための属性を機械学習によって抽出する技術的な可能性は否定できない。属性が先なのか、データが先なのか、ニワトリとタマゴのような議論かもしれない。筆者はタマゴとデータが先と信じているし、スピノザが信じた神も「信じる」という意味では同じようなものだと思う。そうはいっても、AIの神を信じているのではなく、「データ」が属性よりも先にあることを信じているだけのことだ。そして「個体」はタマゴから生まれる。

データ解析を行う場合、「個体差」の無いデータと有るデータは解析方法が異なる。「個体差」の無いデータでは、データを説明する統計モデルにおいて、測定(観測)誤差の影響を定量的に評価する。例えば、光や電子には個体差がない。最初に学ぶ統計理論であり、固定効果モデルと呼ばれる。「個体差」の有るデータでは、データを説明する統計モデルそのものに「個体差」というランダムな因子が含まれるため、「変量効果モデル」と呼ばれ、固定効果も含めて混合モデルによって解析する。タマゴから生まれる個体の場合は、個体の定義がたやすいけれども、国家や企業にも個体差がありそうで、個体を一般的に定義しようとすると、ニワトリとタマゴのような議論になりやすい。

ライプニッツは物質的な個体と人格的な個体を統一する概念としてモナドを考えた。個体差の大きな複合的な性質を分解してゆくと、個体差がなくなる直前の個体としてモナドが定義できるという、典型的な科学的合理主義の議論だ。それでは、モナドとは粒子性と波動性をあわせもつ量子のことなのかと質問してみたくなるところだ。量子が粒子性と波動性を「表象」している、異なる観測条件に応じて異なるイメージを与えているのであれば、モナドといえなくもないかもしれない。しかし、タマゴから生まれる個体のほうが理解しやすいのだから、筆者としては個体としての最小限の性質は「表象」ではなく、「表現」であって、タマゴの表現型は、発生や成長・老化とともに個体を表現していると考えている。国家や企業にも発生・成長・老化はあって、個体としての国家や企業を表現している。統計的な変量効果モデルでは、個体差の有無だけを考えていて、個体差がどのように生じているのか、何を表現しているのかは問わない。一見、客観的なようで、科学的な考察が欠落した、解析者の恣意(しい)的なモデルとしか言いようがない。実際に、データを説明する統計モデルの全ての変数と、それらの変数の全ての組み合わせに個体差を仮定すると、全く解析不能になってしまうので、恣意的に個体差の有る変数を選択せざるを得ない。ライプニッツの個体論がどこで行き詰まったのか、再考して突破口を見つければ、それは現在のAIの突破口でもあるはずだ。筆者にとっての突破口は「所与」としての「データ」であって、個体差の有るデータにおいて、その個体が何を表現しているのか理解することだと思う。

タマゴから生まれる個体は何を表現しているのだろうか。生物学的にみた個体は、「生活環」ライフサイクルとして、タマゴからタマゴへの連鎖における一過程を表現している。前置きが長くなってしまった。本稿の剰余所与論は、生活者の生み出す「データ」は剰余ではなく、データの付加的意味、すなわちデータの支配者にとって経済的利用が可能で、価値の根源、「生命」の操作をも可能にする、「所与」としての「データ」そのものであることを告発する。そして政治経済的な文脈では、上記の告発内容を隠ぺいするために、生活者は「所与」としてしか扱われなくなる。間接民主主義において、生活者は選挙の票数でしかない。独裁国家においては、生活者はデータ化されたゾンビのようなもので、表現主体としては認知されない。独裁者には「生活環」としての生活力はないので、データ化された生活者の生活力を盗み取って存続しているに過ぎない。19世紀の思想家カール・マルクスが、歴史は階級闘争の歴史であると喝破してから、労働者階級はエリート化したけれども、階級闘争が色あせた現代社会は、多くの失業者と難民を生み出し、21世紀にはロボットがエリートとなる。階級闘争より普遍的な意味で、生活史は生活環の生活史であって、失業者と難民における歴史的所与としての生活には、生活者のデータ化を根底から180度転覆させる視座(パースペクティブ)と力能(ポテンシャル)がある。

タマゴとデータがあったとしよう。タマゴは表現主体として発生・成長・老化してゆく。発生の過程で、「データ」を取得する感覚器が動作し始める。「感覚与件」(sense data)は、その意味では正しい。しかし、センサーが取得する大量のデータは、大量のノイズでもある。現在のAIは、大量の視覚データから、自動的に人物や車を見分けるようになったに過ぎない。個体発生でいえば、一歳児程度の視覚情報処理だろうか。AIにとってのその他の「感覚与件」(sense data)、聴覚・嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚は一歳児以下だ。AIはこれから成長するかもしれないけれども、表現主体としての個体の成長・老化は哲学的な個体論の未踏領域で、想像したこともないものを作れるとは思えない。さらに、「感覚与件」(sense data)の問題点である概念的与件、数式や論理による推論は、AIにとっては古い話題であっても、概念的与件を「データ」として想像したことはないはずだ。数式であれば、リーマン仮説のような素数の個体差の問題を想像してみるとよいだろう。論理であれば、1x1=1という数理的に厳密な論理が、A=Aという文学的にあいまいな(埴谷雄高は『死霊』において、「自同律の不快」と命名した)トートロジーを過去に葬り去ることを想像できるだろうか。日本はAI技術において、米国や中国に大きく遅れているという指摘は正しいかもしれないけれども、AIの想像力そのものが、ライプニッツが行き詰った地点を出発点としているのだから、当面の順位をあまり気にしなくてもよいだろう。1万回以上トラックを回る競技の、最初の1周目のようなものだ。だれも、最後の1周のベルを聞くことはないかもしれないのだし。

日本には四季があり、季節が巡っている。北ヨーロッパでは、夏と冬しかなく、季節も論理的だ。日本には山と海があり、複雑な風土を形成している。大陸では砂漠とオアシスで、領土争いが繰り返されてきた。日本が素晴らしいとは思わないけれども、単純な欧米文明が理解できない複雑な地理や文化は世界中にたくさんあるはずだ。筆者はギリシャ哲学やアメリカ社会を尊敬しているし親近感も感じているけれども、奴隷の生活を想像することも許容することもできない。ギリシャ哲学に始まり原爆に終わる欧米文明の中から、量子力学や複雑系などの単純ではない新しい文明の芽も生まれている。週末農夫の生活をしていると、農作業は天気にあわせて行うのであって、一週間のカレンダーはお役人と商人のためにあること、キリスト教はお役人と商人とともに発展してきたことがよくわかる。ロボットやウイルスと共に生きる近未来のカレンダーは、素数ゼミのような知恵を表現できるのだろうか。素数の周期、11日、13日、17日、19日、23日、29日をうまくグループ割りする宗教があるとすれば、インド音楽のような宗教になるのだろうか。週末農夫には、解(わか)らないことがたくさんある。

『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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