п»ї 火・空気・水・土 『週末農夫の剰余所与論』第5回 | ニュース屋台村

火・空気・水・土
『週末農夫の剰余所与論』第5回

12月 14日 2020年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

冬支度をするMagley2号農園と隣の農園に出没したオスザル=11月22日、筆者撮影

毎年、冬支度(じたく)としてタマネギの苗とニンニクを植えている。タマネギは早春の甘い時に、半分ほどサルに先攻される。シカの場合は全ての新芽が無くなってしまう。来春はどのような状況だろうか。今年は5種類のタマネギを植えてみた。ツチガエルが冬眠し、モグラはミミズを狙っている。毎年いろいろなことがあり、同じ年はない。

ギリシャ哲学は自然を体系的に説明する自然学と、数学を論理的に連携しようとしたけれども、数理を使って自然に自然を説明できるようになるのはニュートンの時代まで長い道のりがあった。ギリシャ哲学の四元素のうち、最初にうまく説明できるようになったのはエネルギーとしての「火」だった。ニュートンの微分積分で、力や速度との関係が明らかにされた。質量についてはアインシュタインまで待ってもらおう。「空気」は、化学としては火に必要な酸素であっても、物理としては質量のない真空や空間概念として理解される。気体分子運動論によって、熱力学を統計力学として説明できるようになった。

「水」の化学分子としての性質は、細胞の構成成分として最大のもので最重要であることは疑いようがない。物理としては核磁気共鳴現象として、量子力学的な効果を電磁気学によって実際に測定できる。先端医療のMRI画像というほうが分かりやすいかもしれない。ギリシャ哲学は、物質的な化学の分類を行っているようで、実は深い物理学的な洞察があるのだろう。「土」については、物理的な見通しは立っていない。化学としても試行錯誤の段階で、「抗生物質」の宝庫としての理解のほうが先行しているように見える。PCR検査が有名になったけれども、温泉に生息する耐熱細菌の研究がきっかけだった。「土」の物理は、近未来において、どのような数理で表現されるのか楽しみだ。

新型コロナウイルスを科学的に理解しようとしても、現在は微分法的式で記述される「火」のレベルでしかない。「空気」のような統計力学的な理解や、「水」のような量子力学的な理解のレベルには程遠い。そして「土」のレベルの理解については、想像すらできない。細胞の中で、ウイルス粒子を大量生産している「生きている」ウイルスの姿は、土の中のミミズを顕微鏡で観察するようなもので、ほぼ不可能なのだ。姿を見たこともないものを、数理で理解しようもないだろう。科学はその程度のレベルなのだけれども、中世の魔女狩りの時代から、着実に進歩していて、人類が生き延びる時間が1000年ほどあれば、大いに期待できるはずだ。

最近、家族で北陸にドライブに行った。国道沿いの小さな喫茶店で、エマニュエル・トッド の『大分断 教育がもたらす新たな階級化社会』(PHP新書, 2020年)が目に留(と)まった。几帳面に色分けしたハイライトペンが、最初から最後まで書き込まれていた。学生やエリート教授がいるはずのない田舎の町で、喫茶店店主による確かな学習と批評が行われている。日本も捨てたものではない、と思った。新型コロナウイルスのことで、教育がもたらす新たなムラ社会について考えていた時だったので、新鮮な驚きだった。豪華客船、ジャンボジェット、新幹線のような、大量旅客輸送による感染拡大は予測と制御が困難であっても、自家用車や渡り鳥のような移動手段であれば、感染拡大の心配はほとんどないだろう。日本国内、ほぼすべての地域で感染が進行している状況では、感染拡大のスピードは、移動距離ではなく、規模や密度の問題なのだと思う。しかしムラ社会では、特に公務員などのエリートが、数理ではなく心理で行動するようだ。喫茶店の店主などの民間人から、批判的精神を見習ってもらいたいものだ。

農園に出没するサルはヤクザ化していて、批判的精神は感じられない。新興のサルムラ社会だろう。知恵のあるサルは山に棲(す)んでいるはずだ。サルと共存する気はないけれど、暴力で撃退する気もない。難しい問題を考え続けよう。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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