п»ї 砂漠緑化の地球内科『週末農夫の剰余所与論』第22回 | ニュース屋台村

砂漠緑化の地球内科
『週末農夫の剰余所与論』第22回

11月 24日 2021年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

農園は来春の準備が始まった。前回『週末農夫の剰余所与論』第21回に晩秋の農園を報告してから、すでに2カ月が経過している。毎年同じような農作業の繰り返しが、15年以上続いている。予測不能な天候と、気まぐれな農作業なので、毎年新しい発見と、たくさんの失敗がある。

来春の準備中=2021年11月19日 筆者撮影

スピノザを読み込み、精力的に活動している哲学者、國分功一郎の『原子力時代における哲学』(晶文社、2019年)は、哲学の巨人ハイデガーの技術論の優れた解説でもある。ハイデガーの技術論は、フランスで活躍している哲学者ベルナール・スティグレールの『技術と時間1 エピメテウスの過失』(法政大学出版局、2009年)、『技術と時間2 方向喪失-ディスオリエンテーション』(同、2010年)、『技術と時間3 映画の時間と〈難 ― 存在〉の問題』(同、2013年)が詳しく論じているし、ギリシャ時代から哲学は技術とともにあったことも確かだ。しかし、良くも悪くも、技術は未来を向いているので、哲学によって過去から技術を再考することには限界がある。少なくとも、國分功一郎の哲学論議のように、過去にとどまっているのでは、本来の技術論にはならない。スティグレールも、ギリシャ神話から出発して、メディア論として現在まで技術をさかのぼって、止まってしまった。原子力発電は、哲学するまでもなく過去の技術でしかない。しかし、原子力発電のゴミでもある高純度のプルトニウムさえあれば、自爆用原爆を容易に作成できる。軍事技術としての原子力は、覇権国家やテロリストにとって、いまだに未来の技術でもある。

形而上学などの観念論哲学を、カール・マルクスは逆立ちした哲学と看破(かんぱ)して、生活を支える経済学によって、哲学全体を転覆しようと試みた。資本論において、市場の唯物史観をある程度見通したマルクスが、来るべき未来の共産主義社会における技術論を模索して、資本論自体が止まってしまったのではないかと思う。筆者はマルクスの研究者ではないので、何の根拠もないけれども、哲学としての技術論は、経済学よりも手ごわい何かを転覆する必要がありそうだ。

全ての地球型生命は、自然環境と共に生活している。しかし、人類の発明した技術は、自然環境を生活のための「資源」としてしまった。おそらく最古の技術は軍事技術で、その技術は狩りや農業にも応用されたのだろう。おそらく最初の科学技術も、軍事技術だった。科学技術にとっての自然は、資源というよりも、人工物であって、生活の役に立つようなものではない。そして相対性理論E=MC2の軍事応用として、原子力爆弾が発明される。量子力学の軍事応用も、量子暗号や量子計算機により直近の課題となった。科学技術の軍事技術応用が止まらない限り、地球環境の保護など、100年の努力が一瞬で破壊される。哲学によって、技術が生活を支えるように転覆できるだろうか。哲学が「言葉」にこだわっている限り難しいだろう。技術は言葉よりも手ごわそうだ。

ギリシャ時代から、医療技術もあった。軍事技術と医療技術は表裏一体のようにも思える。少なくとも、軍事にとって外科は必要だったはずだ。量子力学は、磁気共鳴画像診断技術(MRI)として、最新の医療技術を支えている。残念ながら、本格的な認知症の治療薬は実現できていないけれども、内科も科学技術によって順調に進歩している。技術を転覆するということは、軍事技術だけではなく、医療技術も否定することになるのだろうか。このような暴論に、とりあえず「YES」と答えてみる勇気が、哲学には必要だ。科学技術によって支えられる「生活」には未来がないとすれば、生活によって科学技術を再構築するしかない。難しい話ではない。MRI技術は病院のものであっても、画像のもとになる身体は生活者のものなのだ。内科的な病気の診断には、多くの患者さんの画像を比較する必要がある。体重を測るように、MRI画像を測定して、社会で共有するような時代は来るのだろうか。

地球の画像も、軍事技術に興味がある覇権国家や、金融商品に興味がある巨大企業のものではなく、生活者のものだと言いたい。公開できない地球の画像は、盗撮であって、犯罪なのだ。そしてその地球が、過剰な軍事技術と生活には直結しない経済活動によって、死に至る病にかかっている。地球温暖化の原因として、CO2排出量だけがクローズアップされ、CO2をコンクリートで固めて地中埋設するといったような、外科的技術に期待が寄せられている。地球温暖化により、生活環境が劣悪になり、農業や漁業にも深刻な影響がもたらされていることを考えると、外科的手術ではなく、SDGs(持続可能な開発目標)のような、包括的な対策が望まれる。例えば砂漠緑化について、SDGsでは169のターゲットの一つとして「15.3;2030年までに、砂漠化に対処し、砂漠化、干ばつ及び洪水の影響を受けた土地などの劣化した土地と土壌を回復し、土地劣化に荷担しない世界の達成に尽力する」と明記されている。中国では、歴史的に国土の砂漠化が問題とされてきた。『砂漠考―中国の荒れ地とその緑化修復から』(徳岡正三、研成社、2019年)は砂漠と沙漠の違い、乾燥地と荒地など、中国に限定して、著者の経験をもとに広い視野でまとめられた良書だ。SDGsのターゲットとしても、大いに参考になる。地球規模で、様々な砂漠化の現状をまとめた書籍を探しているけれども、『砂漠考』のような良書は見つからなかった。世界中の砂漠を比較して、地球内科のような処方を考えてみたい。もし地球内科が成立するのであれば、それは技術を転覆するヒントになるだろう。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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