п»ї 日米物価格差の背後にある社会規範、長期金利を弾力的に~「物価目標2%はグローバルスタンダード」という錯覚(その2、完)  『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第55回 | ニュース屋台村

日米物価格差の背後にある社会規範、長期金利を弾力的に~「物価目標2%はグローバルスタンダード」という錯覚(その2、完)  
『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第55回

5月 16日 2022年 経済

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山本謙三(やまもと・けんぞう)

oオフィス金融経済イニシアティブ代表。前NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。

前回(第54回)のコラムで、次のように述べた。

(1)日米の物価上昇率には「一定の格差をもって連動する強固な関係」がある。1978年以降、日本の物価は一貫して米国を下回っている。上昇率が2%を下回るようになった1993年から2021年までの年平均格差は、1.8%だった(いずれも消費税導入・同税率引き上げの年を除く、参考参照)。

(2)この関係は今も変わらない。日本の物価が4月以降2%台に達する可能性が出てきたのは、米国が目標の2%から大きく外れて高騰したことと相関している。

(3)今回の物価上昇は典型的な輸入インフレであり、望ましくない。日本銀行は長期金利の誘導レンジ「ゼロ±0.25%」を堅持する姿勢を崩さない。しかし、これは内外金利差の拡大を通じて円安を促し、「望ましくない物価上昇」を加速させる。異次元緩和で失われた金利機能を回復させるためにも、長期金利の柔軟な変動が必要である。

(参考)日米物価上昇率の推移

(注)日本は消費者物価前年比、米国はPCE(個人消費支出)デフレーター前年比。1970年までは両国とも「総合」。71年以降は、日本は「生鮮食品を除く総合」、米国は「食品、エネルギーを除く総合」

(出典)総務省「消費者物価指数」、セントルイス連銀「FRED(経済データ集)」

輸入インフレへの対応はいつも難しい。物価の上昇と景気の後退が同時に起きるからだ。日銀は、今回の物価上昇を「好ましくない」としながらも、4月下旬の金融政策決定会合で異次元緩和の継続を決めた。

しかし、金融政策は本来、経済の短期的な変動を均(なら)すためのものである。「好ましくない物価上昇」の加速は、企業の国内収益と家計の実質所得を圧迫し、景気の悪化を深いものとする。9年間実現してこなかった「物価目標2%」の達成のために、長期金利を狭いレンジに抑え続け、円安を促すことは本当に適切か。

◆「適合的期待」、「インフレ心理」で説明することの限界

なぜ「物価目標2%の安定的な達成」は実現してこなかったのか。これまで多く取り上げられてきたのは、消費者心理や企業の価格設定行動だった。「消費者の間にデフレマインドが染みついている」とか、「日本の企業には値上げを回避する傾向がある」といった説明である。

日銀が理由としたのも、「適合的期待」と呼ぶ人々の物価観だった。「人々の物価観は、過去の経験に基づき形成される面が大きい」との説明であり、その打破には時間がかかるとした。しかし、そう言い続けながら、異次元緩和は9年を過ぎた。「適合的期待」の当否はともかく、この説明はもはや政策的含意をもたない。

消費者心理や企業行動による説明も同様である。これらは仮に正しいとしても、「原因」でなく、何かの「結果」と考えるのが自然だろう。原因とみなして「証明終わり」としてしまっては、政策的含意に乏しいばかりか、場合によっては短絡的な政策提案を呼び込みかねない。

典型が、異次元緩和だった。異次元緩和は「大量の資金供給で、消費者のインフレ心理を駆り立てよ」とのリフレ派の主張を踏まえた政策だった。しかし、開始直前の資金供給量の約4倍に当たる資金(約530兆円)を追加供給しても、インフレ心理を駆り立てることはできなかった。

当初「2年程度」とした政策が今なお続くのは、「インフレ心理」の説明だけでは不十分なことの証しである。

◆雇用安定と倒産回避に傾斜した社会規範

重要なのは、消費者や企業の心理や行動の背後にある社会経済的な構造要因が何かである。人々の心理や行動は、社会全体に通底する規範(ノルム)に強く影響される。社会規範、あるいは国民的合意といってもよい。多くの仮説がありうるが、筆者が考えるのは次のようなものだ。

着目するのは、70年代後半に日米の物価上昇率が逆転し、一定の格差をもって連動するようになったことである(前掲参考参照)。70年代前半、日本は物価の高騰と失業率の高止まりというスタグフレーションに陥った。75年度には赤字国債が初めて発行され、以後、一時期を除いて発行高の拡大が続く。

70年代半ばを境に生じた最大の変化は、「賃金、雇用が伸縮する社会経済」から「雇用確保と倒産回避を重視する社会経済」への規範のシフトだっただろう。賃上げを主体に春闘を闘った企業組合は、雇用の安定確保に重点を移した。政治も、高度経済成長の終焉(しゅうえん)とともに、雇用安定のための企業倒産の回避に舵(かじ)を切った。

新しい社会規範は、日本の社会に深く静かに浸透した。一例として、リーマン・ショック後に始まった「金融円滑化の要請」をみてみよう。金融機関に対し中小企業金融の円滑な実施を要請するもので、危機に伴う失業と倒産の増加を抑制しようとしたものだ。

当初は法律に基づく要請だったが、2013年の法の期限切れ後は行政上の要請となった。19年春、いったんは取り下げられたが、1年後、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い復活した。

09年の金融円滑化法施行から数えて14年。要請がなかった期間は、わずか1年にとどまる。

市場メカニズムを一定程度制約する要請にもかかわらず、これほど長く続いたのは、「雇用確保と倒産回避」の社会規範に沿うものだったからだろう。同様に財政面では、危機が訪れる都度、社会規範に沿った大規模な財政出動が繰り返され、政府債務を累増させてきた。

◆市場機能の低下が生産性の向上を阻む

雇用確保と倒産回避の重視」の社会規範は、国民が暗黙裡(り)に行った一つの選択である。しかし、それまでの「賃金、雇用が伸縮する社会経済」からの離反は、市場機能を低下させ、成長性の低い企業を温存する結果を生んだ。

生産性の低下とともに、賃金が上がりにくくなった。新陳代謝の遅れは、企業の過当競争をもたらし、企業の値上げ回避の行動を生み出した。

賃金と物価が上がりにくいのは、生産性の伸び鈍化の結果である。物価の内外価格差を埋めるには、生産性の向上が欠かせない。そのためには「自由競争と新陳代謝を重視する社会経済」への規範の転換が必要だろう。物価目標さえ達成されれば、経済が良くなるといった単純な話ではない。

むしろ注意を要するのは、現在の社会経済構造のもとで無理に物価を押し上げようとすれば、経済に深刻な歪(ひず)みが生まれることだ。異次元緩和の副作用である①市場機能の低下②金融システムの軋(きし)み③財政規律の緩み――は、まさしくこれに当たる。

◆「グローバルスタンダード」論再考

「物価の安定」とは、グリーンスパン元FRB(米国連邦準備制度理事会)議長の定義を踏まえれば、「家計も企業も、物価の変動を気にせずに経済活動を行える物価の状態」となる。しかし、これを現実の数値に置き換えるのは簡単ではない。

潜在的な成長率や失業率には、グローバルスタンダードは存在しない。各国の経済構造が違うからだ。にもかかわらず、物価にだけは「グローバルスタンダードとしての共通の数値がある」というのは、やはり無理がある。「物価安定」という概念は世界共通であるにしても、具体的な数値は国ごとに違っておかしくない。

物価目標を改めて考え直す時である。少なくとも目標数値を絶対視すべきではない。あえて数値目標を設けるのであれば、足元の社会経済構造に見合った数値とする必要がある。現在の日本経済を前提にすれば、現行の「2%」より低い値だろう。

足元の物価は、輸入物価の上昇を背景に前年同月比2%に近づく。少なくとも今は、長期金利の弾力的な変動を容認し、円安の進行に伴う「好ましくない物価上昇」の加速をけん制するのが妥当だろう。

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