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物価目標2%へのこだわりは「マクナマラの誤謬」
『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第67回

7月 17日 2023年 経済

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山本謙三(やまもと・けんぞう)

oオフィス金融経済イニシアティブ代表。前NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。

先日、NHKがテレビ番組「映像の世紀バタフライエフェクト:ベトナム戦争 マクナマラの誤謬(ごびゅう)」を放送していた。概要が、同局のホームページに紹介されている。

「数字にばかりこだわり物事の全体像を見失うことを『マクナマラの誤謬』という。この言葉の由来となったのが、米国防長官を務めたロバート・マクナマラ。神童と呼ばれたマクナマラはデータ分析を駆使してベトナム戦争を勝利しようとしたが、数値では計れないベトナム人の愛国心やアメリカ市民の反戦感情に目を向けず、300万以上の犠牲者を出す泥沼の戦争を招いた。アメリカを敗北に導いた一人の天才の物語である。」(NHKホームページより)

経済政策は、もちろん戦争とは違う。しかし、「数字にこだわり物事の全体像を見失う」との文脈は、日本銀行の異次元緩和を想起させる。

◆市場機能低下の軽視=全体像を見失っている

筆者が異次元緩和を「全体像を見失っている」とするのは、市場機能の低下があまりに軽視されてきたからだ。

日銀は、市場金利を「短期金利マイナス0.1%、長期金利ゼロ%程度」に抑え込んできた。10年間の国債購入額(償還額を差し引いたネット)は、新規国債発行額の9割以上に達した。株式市場では、今や国内最大の投資家だ。

過去10年の名目成長率を大きく下回る長短金利の水準や国債市場、株式市場への大規模な介入は、市場機能をゆがめないはずがない。

市場経済が計画経済に比べ優位とされてきたのは、市場機能を通じて資源の効率的な配分が実現するからだ。市場機能の低下は、市場経済にとって致命的である。にもかかわらず、日銀や一部のエコノミストが市場機能の低下を「微害」とするのは解せない。

もちろん、副作用の一つひとつを異次元緩和の直接的な結果と証明することは難しい。「企業の生産性低下」も「財政規律の緩み」も「金融機関のハイリスク資産への運用傾斜」も、一義的な責任はそれぞれ企業、国会、金融機関にある。

しかし、金融政策とは、もともとそういうものだ。あくまで市場を通じて、間接的に企業や家計、政府に働きかけるものである。それでも、効果は絶大だ。だからこそ、重要な経済政策の一つとされてきた。

市場機能の低下と副作用を「微害」と評するのは、物価目標という数字にこだわるあまり全体像を見失っているように見えてならない。

1.米国:平均物価目標2%の失策

◆平均物価目標2%が招いたFRBの「失策」

そもそも物価目標「2%」は適切か。

日銀が物価目標2%を掲げた一つの理由に、「グローバルスタンダードだから」というのがあった。たしかに、多くの中央銀行が2%を物価目標に据えてきた。しかし、今回の世界的な物価の高騰とその後の高止まりは、この枠組みの脆弱(ぜいじゃく)さを露呈している。

典型が米国だ。FRB(米国連邦準備制度理事会=中央銀行に相当)は2012年に2%の物価目標政策を正式に導入したが、米国ではそれ以前から物価目標を意識した政策運営がなされてきたとされる。

しかし、インフレの収束した1996年から2022年までの27年間を振り返ると、物価目標の対象とするコアPCE(個人消費支出)デフレーターが前年比2.0%を超えたのは、わずかに2005~07年と21~22年の計2回、合わせて5年しかない。

しかも、前者はリーマン・ショッ直前のバブル期、後者は今回のインフレ期であり、いずれも良好なパフォーマンスではない。米国にあって安定的な経済と整合的な物価上昇率は2%よりも低い水準であり、2%は過大な目標だったとみえる。

にもかかわらず、新型コロナの感染拡大後、FRBは物価の下落を恐れて「平均物価目標2%」の枠組みを導入した(2020年8月)。一定期間2%を下回る物価上昇率が続いた場合には、平均値が2%となるよう、その後しばらくは2%を超える物価の上昇を目指すとした。2%達成へのコミットメントを一段と強める試みだった。

これが裏目に出た。21年春には、コアPCEデフレーターは前年比3%を超える水準まで上昇した。それでもFRBは、平均物価目標の政策方針に沿い、物価の上昇を意図的に見過ごした。結局、引き締めに転じたのは、ロシアのウクライナ侵攻後の22年3月である。

その時点では、物価の上昇は加速し、歯止めが効かなくなっていた。FRBは、出遅れを取り戻そうと急激な利上げに転換し、これが銀行の保有債券に多額の含み損をもたらした。動揺した預金者が多額の預金を引き出し始め、一部の中堅地方銀行が破たんした。

米国の物価上昇は、当初の輸入物価の高騰局面から、賃金と物価の「悪循環」へと転化した。コアPCEデフレーターは足元、前年比4%台後半に高止まりし、目標達成への道筋ははっきりしない。

◆FRBに平均物価2%を目指す覚悟はあるか?

「平均物価目標2%」は、どれほど決定的なミスだったのか。

FRBは、現在も「平均物価目標2%」の旗を降ろしていない。そこで、この方針に従うことを前提に、今後どの程度の物価上昇率であれば目標が達成されるかを試算してみよう。

コアPCEデフレーターの前年比実績は、2020年1.3%、21年3.5%、22年5.0%だった。2023年も、少なくとも4%程度にはなるだろう(23年1~5月前年同期比4.6%)。

平均物価目標を導入した2000年を起点に、仮に26年までに目標2%を達成するとすれば、来年から3年間の物価上昇率は年0.1%でなければならない。

もちろん、そのようなアップダウンの激しい政策運営は、誰も考えていないだろう。要は、失敗だった。ただでさえ過大な目標を、さらに平均値で追い求める枠組みは過度の金融緩和をもたらし、物価の高騰を招いた。「デフレ防止のための物価目標2%」の政策枠組みは、未熟にすぎた。

2.ボルカー、ラジャンの警鐘:低インフレを過度におびえてはならない

◆物価の安定は「0%」:ボルカー元FRB議長

米国内にも、物価目標2%を誤りとする議論は以前からあった。2019年に亡くなったポール・ボルカー元FRB議長の主張が典型だ。

同議長は、人々が経済計画を安心して立てられる状態を重視し、物価の安定とは「「名目」と「実質」がおおむね等しい状態」とした。すなわち、おおむね0%の物価上昇率である。その上で、次のような見解を述べている。

第1に、物価の動きに振れがあるのは当然だが、だからといって許容幅の上限が2%であるとか、2%が物価の目標であるといった議論は受け入れがたい。

「『ほんの少しのインフレがあるぐらいの経済状態が望ましい』との学説は多くの研究や事実関係が間違いだと示してきたにもかかわらず、いつまでも消えずに残り、現在は、デフレーションへの危惧(きぐ)という形で繰り広げられている。」(ポール.A.ボルカー、クリスティン・ハーパー共著『ボルカー回顧録―健全な金融、良き政府を求めて』〈日本経済新聞出版、2019年〉、一部筆者要約)

第2に、いったん2%目標を許容すれば、いずれは目標値を3%、4%に引き上げよとの議論が起き、経済のリスクを高めていく。

「インフレで打撃を受けた国が、安定を取り戻すために闘う。ところが勝利が視野に入ってくると、当局は経済成長を刺激しようと手を緩めて『ほんの少しのインフレ』を容認する。そして結局、以上の過程(=スタグフレーションの過程)をやり直すことになる。」(前掲『ボルカー回顧録』、カッコ内筆者補足)

第3に、「デフレ防止のために物価2%が必要」との主張は、実証的な根拠がほとんどない。物価の大幅な下落として定義されるデフレは、米国では(1930年代の大恐慌以来)80年以上も現実的な脅威にはなってこなかった。

◆低インフレをおびえるべきではない:ラジャン元インド準備銀行総裁

最近、ボルカー元議長と類似の主張を行っているのが、2013年から3年間インド準備銀行(中央銀行)総裁を務めたラグラム・ラジャン シカゴ大学教授だ。同氏は、今年3月初めのIMF(国際通貨基金)季刊誌への寄稿の中で、量的緩和政策の危うさを指摘し、以下の警告を発している。

第1に、量的緩和政策は出口が難しく、実体経済への効果も疑問である。クレジット市場、資産価格、流動性をゆがめるものであり、中央銀行は金融システムの安定が損なわれるリスクにもっと目を向けるべきだ。

第2に、物価の下落と景気の悪化が増幅し合う「デフレスパイラル」に経済が陥らない限りは、低インフレを過度におびえてはならない。

第3に、日本経済の停滞や労働生産性の低下も、長期にわたる低インフレが原因ではなかった。

ボルカー、ラジャン両氏は、それぞれ米国、インドで中央銀行の総裁職を担い、物価の安定と金融システムの健全性確保のために、時の政治と真っ向から対峙(たいじ)した人たちである。その両者が、物価目標2%に疑問を投げかけた。

2人の議論は、(1)「物価目標実現のため」として行う大規模金融緩和が、金融システムにもたらす悪影響を強く意識していること(2)金融緩和と財政拡大に偏りがちな「政治の慣性」を危惧していること――に特徴がある。

3.日銀は早期に金融の正常化に着手を

◆FRBの「平均物価目標2%」以上に高い日銀の物価目標

日銀はどうか。

日本のコア消費者物価は、昨年4月以来14カ月連続で前年同月比2%を超え、今年5月は3.2%を記録している。常識的にいえば、かなりのインフレ局面だ。それでも日銀は「物価目標の持続的・安定的な達成には、なお時間がかかる」として、異次元緩和を継続している。

「物価目標の持続的・安定的な達成」という表現は、トリッキー(巧妙)だ。どの程度の期間にわたる物価2%超えを見通すことができるようになれば、緩和解除の条件を満たすのかは明らかにされていない。

手掛かりとして最近の日銀の発信をみると、物価下振れリスクへの警戒が繰り返し発せられている。これを踏まえれば、半永久的、あるいはよほど長期にわたる物価2%超を見通せない限り、解除できないようにも見える。平均値2%を目指したFRBの「平均物価目標」と比べても、より高い目標設定である。

◆半永久的な2%達成の可否を短期間で見極められるか

だが、その実現の可否は短期間で見極められるのだろうか。

次のように考えてみよう。足元の物価上昇の理由を、日銀は企業や家計の行動変化に求める様子だが、よりシンプルな説明も可能である。

日本の物価は、海外の物価動向に強い影響を受けてきた。日米の物価上昇率を比較すると、1970年代後半以降、日本は平均的に1.8%程度米国を下回りながら、おおむねパラレルに動いてきた。今回も、まさしくその通りの動きである。

足元の日本の物価が前年比3%台にあるのは、米国が2%の物価目標を踏み外し、5%前後まで上昇したからである。仮にこの経験則が維持されるとすれば、(1)米国の物価が高止まりを続ける間は、日本の物価は2%を超え続け、(2)米国が3%を割れれば、日本も再び2%割れ――となることになる。

もちろん経験則であって、必ずそうなるわけではない。しかし、経験則が覆されたかどうか、すなわち物価2%台が定着したかどうかを、確信をもって述べられるのは、米国の物価が目標水準まで低下した後になるだろう。

それでも日銀自身は企業の価格や賃金の設定行動の分析に基づき判断したいとするが、それだけでは不十分である

これまで企業が価格の引き上げに慎重だったのは、個々の企業が不合理な行動をとってきたからではない。財政面からの手厚い支援などにより成長性の低い企業が温存され、利益率よりもシェア確保を優先する企業が多かったからだ。

表面的な価格や賃金の設定行動でなく、社会経済構造や財政スタンスの変化を確認する必要があるが、これも容易に見極められることではない。

◆政策変更が先送りされるほど、市場機能の低下が進む

しかし、こうした見極めに時間をかける必要はないし、時間をかけてはならない。

海外の事例も示すように、「デフレ防止のための物価目標政策」は未熟だった。そもそも物価目標の値「2%」に、強い根拠があるわけではない。先行きの物価見通しも、不確実性が高い。

そうであれば、目標にも見通しにも不確かさがあることを前提に、機動的、漸進(ぜんしん)的な政策を見直すのが本来の金融政策だ。見極めに時間をかけている間に、市場機能は一段と低下していく。

2%の絶対視は危険だ。米国でも、経済の安定と整合的な物価上昇率は2%未満だ。先行き物価が2%を割ったとしても、失敗と考える必要はない。日銀は、早期に金融の正常化に着手すべきである。

物価目標2%という数字を絶対視するあまり、市場機能の低下を軽視し、全体像を見失ってきた。これ、すなわち「マクナマラの誤謬」だろう。早くこの罠(わな)から抜け出さなければならない。

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