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徳島県に料亭の復活を―地方創生の提言
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第154回

10月 18日 2019年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

1.はじめに

徳島県は吉野川、那賀川、讃岐山脈、四国山地、紀伊水道、瀬戸内海をはじめとする自然が多く残っている。鳴門の渦潮や祖谷渓谷、大歩危小歩危などの自然の観光資源を有し、約400年以上の歴史がある阿波踊りの文化も有す。徳島県は古くから「関西の台所」と呼ばれ、食材にも恵まれている。藍や塩の専売により富が集中し、明治時代には隆盛を極めたが、現状を見てみると人口は47都道府県中44位、県内総生産も43位と全国でも下位に位置づけられる。今回はこんな地味な地位に甘んじている「徳島県の地方創生策」について考えてみたい。

2.徳島県の地理的特徴

徳島県は讃岐山脈と四国山地の間に位置する徳島平野を除けば、全体的に山地の多い地形。四国山地は西日本でも有数の険しい山岳地帯となっている。一方で山間部から流れ出る、吉野川、勝浦川、那賀川などの川と太平洋、紀伊水道、瀬戸内海の三つの海に囲まれ、豊かな水資源を有している。一般的にどの地域も温暖で、徳島平野以北は瀬戸内海式気候、四国山地以南は太平洋側気候に属す。徳島の現在の地形は中央構造線と大きな関わりがある。

(1)中央構造線とは

7000万年ほど前に、すでにアジア大陸の東端にできていた日本列島の大陸側半分と南からやってきた太平洋側の半分が結合し、その結合面が中央構造線と呼ばれている。その中央構造線は徳島県を東西に分断するように走っており、吉野川の北側、讃岐山脈の南側を通っている。徳島にある中央構造線は太平洋プレートにフィリピン海プレートが沈み込む活断層である。

(2)中央構造線が作り出した地理的特徴

①讃岐山脈

元々砂岩と泥岩が交互にミックスされた讃岐山脈付近の地層は、太平洋側の大陸プレートの押し上げと横ずれによって砂岩と泥岩のミルフィーユ地層がめくれ上がり地層が横から縦になった。泥岩層は削られ砂岩層が残り、讃岐山脈を形成。讃岐山脈の南側の山裾は四国中央部まで続く高台を形成している。

②吉野川

吉野川の上流は日本で一番降水量の多い高知県。高知県の山で雨が降り、海を目指して川は流れていく。讃岐山脈の南側、四国山地の北側を水は流れ、今の吉野川の中下流域となった。その吉野川は利根川、筑後川と並んで「日本三大暴れ川」の一つと呼ばれる。日本は海に囲まれた島国であり、国土が狭く、国土の75%以上が山地であることからも、世界的に見て非常に急流で短い川が多い。その中でも、古くから大きな洪水や水害を起こす川を「暴れ川」と呼んできた。利根川は関東1都6県を有す日本最大の関東平野を形成した。筑後川河口付近には吉野ヶ里遺跡があることからもわかるように、古代より栄えていた。川は山を切り開き平野を形成するだけでなく、肥沃(ひよく)な土地、豊かな水をもたらした。また、陸上運送が十分に発達していなかった江戸時代には交通網として機能した。

③鳴門海峡と小鳴門海峡

鳴門海峡では世界最大級の渦が生まれる。この渦は中央構造線が作り出した複雑な海底と四国・本州・淡路島の絶妙な位置関係により作り出される。鳴門海峡の地形を形成したのは中央構造線の断層活動である。讃岐山脈の東端に位置し、讃岐山脈を形成した砂岩層と泥岩層の流れが鳴門海峡にも繋がっている。泥岩層は深く削られ、砂岩層は残ることで鳴門海峡の海底は複雑な地形となっている。加えて満潮と干潮が同時に隣りあわせで存在する不思議な現象が起こる。鳴門海峡は1.2kmと狭い為、太平洋側から満ちてきた潮は大阪湾に流れ、明石海峡を通り、播磨灘へ流れる。鳴門海峡を通過できなかった太平洋の潮が鳴門海峡の瀬戸内海側に来るまでに約6時間かかる。干潮と満潮の周期は約6時間であるため、太平洋側は干潮となっている。高低差は最大2mで瀬戸内海の大量の海水が狭い鳴門海峡を一気に流れることで、時速20kmの激流を生じさせる。起伏のある海底地形に激流が流れ込むことで、鳴門海峡に世界最大の直径20mの巨大な渦が出来る。

小鳴門海峡はミルフィーユ地層の泥岩の多かった部分が侵食されて安全な水路となった。鳴門海峡の西側に穏やかな海峡を形成した。鳴門海峡と小鳴門海峡の二つの性格の異なった海峡が隣り合って存在している。

※中央構造線                       ※鳴門海峡

このような地理的特徴が密接に関わり、藍・塩・砂糖を生み出し、全国に販売され徳島は繁栄した。徳島の地理的特徴と過去の繁栄の関係について考察する。

3.徳島県の繁栄と衰退

(1)徳島の繁栄を生んだ徳島の産品と地理的特徴の関係

①藍

吉野川の中下流域は、毎年夏季になると台風の襲来によって吉野川が氾濫し洪水を発生させた。収穫後の畑を洪水が襲い上流域から肥沃な土壌が蓄積されたことで継続した藍作が可能だった。藍は連作できない一年草であり「土地枯らしの作物」と言われるが、洪水で入れ替わる砂は吉野川流域に肥沃な土を定期的に運んできたため、連作が可能となった。明治時代以降紡績業の発達や綿製品の増大によって需要が拡大。1903(明治36)年に徳島の藍植物の栽培面積がピークを迎え、全国で一番の生産量を誇った。

②塩

特異な地形により鳴門は潮の干満の差が大きく、塩の製造方法である入浜式塩田に適していた。入浜式塩田は海の干満の差を利用し、海水を塩田に自然に入れる。干満の差が長いほど、塩分濃度を濃くすることが出来る為、効率が良かった。1905(明治38)年に国が塩の専売制を導入したことにより塩の生産はピークに達した。鳴門の塩は日本のシェアの10%を超えていた。

③砂糖

阿波和三盆として有名な徳島の砂糖はサトウキビの在来種である「竹糖」を用いて作られる。一般にサトウキビは南方の常時温暖な水はけの良い地域でのみ育つ。徳島の竹糖は日照に最適な讃岐山脈の南斜面と水はけの良い扇状地という条件が重なり、育成が可能であった。当時砂糖は高級品であり、藍と塩に並ぶ商品作物であった。

(2)阿波商人の全国展開と阿波の豪商

①阿波商人の全国展開

かつての経済は、水運によって流通していた。鳴門の港(撫養港)は紀伊水道から太平洋を通じて東日本の太平洋側、瀬戸内海から瀬戸内地域、九州、山陰東北へとつながっている地理的条件のため、全国市場につながりやすい好立地であった。撫養港からは江戸、大阪、北は北海道、南は琉球までの航路が確立した。航路が確立したことで藍や塩、砂糖といった商品作物を全国に運ぶことができるようになった。当初は現地の卸問屋に販売していたが、利益が少なかった。阿波商人は各地に自ら卸問屋を設立し、生産から流通、販売までの一連の商取引を掌握し、莫大(ばくだい)な利益を上げるようになった。徳島出身の卸問屋街は東京大阪だけでなく全国に40か所以上あったといわれる。

②阿波の豪商

市制が施行された1889(明治22)年、徳島市の人口は6万861人で全国10位の大都市であり、1892(明治25)年の全国長者番付1500人の内123人が徳島県出身者であった。阿波商人は阿波大尽と呼ばれ、全国に鳴り響く豪商として贅(ぜい)の限りを尽くしたといわれている。阿波の表高は25万石であったが、実質70万石はあったともいわれている。

(3)豊かな農産水物と阿波の豪商が育んだ料亭文化

①徳島の農産物と地理的特徴

海産物に関して、吉野川から流れ出た、植物性プランクトンや海藻といった栄養分をまんべんなくかきまぜてくれる渦潮により、プランクトンが増え、それを餌とする小魚、そしてさらに大きな魚が育まれる。激しい海流で育った魚は締りのいい身をしている。農産物に関して、吉野川の流れが運んだ土は多くの栄養分を含み砂壌土は農産物の栽培に適しているといわれる。

②阿波の豪商が育んだ料亭文化

阿波商人を中心として政財界人、文化人が街に足繁く通い、全国各地から商品作物の買い付けに来る商人の接待を行い、徳島の街は活況を見せていた。豊かな農水産物とあいまって、徳島の料亭文化へと発展。街には料亭が建ち並び、「阿波の芸所」と呼ばれるほど全国でも屈指の街であった。最盛期で芸妓だけで200人を超える大世帯。現在の京都の芸妓が100人程度であり、いかに徳島の料亭文化が大規模なものだったかが分かる。「阿波踊り」の名付け親は芸妓の指導をしていた林鼓浪(はやし・ころう)であり、阿波踊りも料亭文化と共に洗練されていったといわれている。

(4)徳島県の衰退

明治後半より藍はインドからの沈殿藍とヨーロッパからの合成藍の輸入が増え、阿波藍の製造量は激減していった。塩は1955(昭和30)年ごろに新たな製造方法が確立され、政府による塩田整備が行われるなどし、1972(昭和47)年には鳴門の全ての塩田が閉鎖。和三盆は戦前、一般の砂糖として利用されていたが、明治時代に台湾を統治するようになると、安価な台湾産砂糖が流入し、生産業者は激減した。各種商品作物が衰退。各地の阿波商人は業種転換と現地との同化により、徳島との交流も減少した。徳島県経済は衰退し、最盛期で20軒程度あった料亭も今では1軒を残すのみとなっている。

徳島が育んだ料亭文化を復活させ、観光に生かせないか、徳島の観光の現状と訪日外国人の消費動向について考察する。

4.徳島県の観光の現状と外国人観光客の消費動向

(1)徳島県の観光の現状

徳島県は観光に関して全国でも低位にある。阿波踊りは4日間だけの開催であり、その期間は120万人程度の観光客が来るが、継続性がない。阿波踊り以外にも、コンテンツはあるが、関西圏及び四国のその他の県まで2時間弱とアクセスがいいため、徳島で遊んで県外で泊まるという観光客が多いのも宿泊者数最下位の一因となっている。

出典:観光庁 訪日外国人消費動向調査(2018年)宿泊旅行統計(2017年)

ブランド総合研究所 魅力度ランキング(2018年)

(2)外国人観光客の消費動向

訪日外国人の観光目的は数年前までは「爆買い」との言葉が流行ったように、買い物を目的にすることが多かったが。2018年の調査では、「日本食を食べること」を目的とする観光客が最も多い。訪日外国人の消費支出の内、買い物代金が一番大きいが、宿泊費・飲食費の割合も大きいことが分かる。また徳島の旅行客一人当たりの旅行支出も全国平均の半分程度となっている。観光客が徳島に来て、食事をしてもらい、泊まってもらうことが必要である。買い物代の費用別購入率を見たところ、7割近くの人が菓子類をお土産に買っている。お土産に出来る菓子は一人当たり旅行支出の底上げに必要である。

出典:観光庁 訪日外国人消費動向調査(2018年)

外国人観光客が日本に来て期待していること1位である「日本食」を目玉とすることで観光客の増加を図る。日本食を夕食として食べることで、宿泊者数の増加も期待することができる。観光消費額の最大化を図るには、宿泊・飲食・お土産が重要である。その具体的な施策について考察する。

5.徳島県に料亭の復活を

徳島に残る和食文化を活かし、徳島の料亭を復活させる。料亭では「その為に旅行する価値のある卓越した料理」を提供する必要がある。

(1)食材

2018年の農林水産統計を見てみると野菜の産出量は18位、果物の産出額は21位と上位に位置するが、漁獲高は35位と下位となっている。一方で、徳島県産品はミシュラン獲得店で多く使われている。

漁獲量、収穫量、生産量が決して多いわけではないが、全国的に有名な料理店で利用される、付加価値の高い産品が徳島県にはある。

※各店HP等より作成

(2)人材

ミシュラン3つ星の日本料理店17店舗の内、3店舗が青柳出身、3店舗が吉兆出身となっている。。「青柳」は「徳島にすごい店がある。」とかつて言われた名店である。青柳出身の3人の師匠である小山裕久氏は「吉兆」出身である小山氏は「吉兆」にて「未在」石原氏や「虎屋壷中庵」岩本氏と同時期に修行をしている。また、青柳出身の3人のミシュラン料理人も青柳で同時期に修行している。青柳出身者はその後も、他ジャンルの有名料理人を育てている。一流の技術は伝承されるものであり、切磋琢磨(せっさたくま)により磨かれる。徳島関係者には一流の技術を伝承した料理人が数多くいる。その料理人に料亭復活の協力をお願いしたい。

※各店HP等より作成

(3)お土産

日本最高級の砂糖、阿波和三盆糖を利用したい。「虎屋」で使われている砂糖は阿波和三盆糖(岡田精糖所)であることからも、菓子に適している最高級の砂糖であることがわかる。

菓子に適している産品の中で一番有名なのは「なると金時」に代表されるさつまいもだろう。都心では1000円以上で売られる高級フルーツ「ももいちご」や糖度が12度ある「春にんじん」も徳島産品であり、菓子に適している。そのような食材を使った外国人に受け入れられやすいお土産用の菓子を上記の料理人監修で企画したい。

出典:農林水産省 農林水産統計2018年

(4)場所

全国の著名な料亭を見てみると、伝統的な建物や格式高い庭園等を有している。徳島には江戸時代の豪華な庭園が現存しており、その庭園を料亭として利用したい。旧徳島城表御殿庭園は枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石組みによる桃山様式の庭。 日本の名勝に指定されている。上田宗箇は武人としては豊臣秀吉の家臣として大名となった。茶人としては千利休に直接師事し、その後、古田織部に学んだ。古田織部の一番弟子といわれる。阿波徳島藩「徳島城表御殿庭園」だけでなく、「名古屋城二の丸庭園」や安芸広島藩「縮景園」を作庭したことでも有名。長さ10.48mの世界最大といわれる青石が使われている。

※徳島城表御殿庭園

(5)資金

地方銀行が中心となり地元有力企業に出資を要請。出資金に応じた料亭の利用制度を設ける。またクラウドファンディングにより広く資金を集め、同様に利用制度を設ける。

6.最後に

県外や海外での商談会の開催や徳島県PRのためのアンテナショップの設置等の取組も地方創生にとって重要な役割を果たす。一方で効果が見えづらく、継続性に欠ける面も否定できない。過去に有名料亭が存在した頃の徳島は数多くの有名な料理人を輩出した。それはその店が素晴らしかっただけではなく、素養のある人材が徳島の料亭を目指して修行に来て、地方にしかない本物の食材を産地で直接見て、料理人同士が互いに切磋琢磨することが大きな理由であった。魅力的な料亭をもう一度徳島に復活させ、徳島から日本料理という素晴らしい文化を発信していくことで、その料亭だけでなく徳島全体にもう一度文化として広がり、地方創生に資するのではないかと考える。

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