п»ї 魯山人に想う 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第158回 | ニュース屋台村

魯山人に想う
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第158回

12月 20日 2019年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

東京・京橋に「魯卿(ろけい)あん」という陶器店がある。北大路魯山人の陶器を中心に展示・販売している店である。私がその店を訪れたのは単なる偶然からであった。年2回の日本出張で東京の取引先を訪問する際、スケジュールの都合上2時間くらいの空き時間が出来ることがある。昔はこうした時間があれば、自分の趣味である音楽の楽譜や楽器を求めて、ヤマハや山野楽器に行って時間をつぶしていた。5年ほど前から少し陶器に興味を持つようになり、楽器店だけでなく百貨店の美術品店などものぞくようになった。百貨店の人から「日本橋・京橋界隈には多くの骨董(こっとう)店や美術商があり、現在イベントをやっている」と聞いた。翌日午後も少し空き時間があったため、早速行ってみることにした。4年前の4月のことである。

◆「魯卿あん」

確かに京橋の裏通りを歩くと、多くの骨董店や美術商がある。陶器や絵画・書などが展示されているが、私にはその価値がわからない。中国や朝鮮の陶器などは、古く汚れて見えるのに値段はとても高い。当然それが本物かどうかなど私にはわかるはずがない。どうも私にはレベルの高すぎたチャレンジだったようだ。そうこうするうちに、モダンながらシックな風情の店に行き着いた。店構えにひかれて私は「魯卿あん」に足を踏み入れたのである。

私はそれまで、北大路魯山人のことはまったくと言っていいほど知らなかった。陶芸家として名前を聞いたことがあるだけで、作品を目にしたことはない。「魯卿あん」で初めて魯山人に出会ったのである。

そもそも美術品の鑑賞眼のない私は、有名な作家の名前を聞けば安心する。それまでも酒井田柿右衛門や今泉今右衛門などの窯元に行き、出所のわかっているものだけを少しだけ買い求めてきた。「魯卿あん」は北大路魯山人の作品を扱う専門店であり、安心して見ることが出来るはずである。

ところが、実際にはそうはならなかった。「魯卿あん」には、茶室があり、掛け軸がかかり、壺(つぼ)が置いてある。掛け軸の書も陶芸の壷もいずれも魯山人の作品である。ショーケースには赤絵や染付の皿や湯飲み・盃がある。陶器は絵が描かれているものもあれば、「福」の文字が書かれているものもある。もちろん、ただ釉薬(ゆうやく)だけで世界を創っているものもある。書・絵・陶器など幅広いジャンルの作品があり、また作風も多様である。統一された作風があるとは思えない。魯山人とはいったい何者なのだろう。私は魯山人のなんたるかが全く理解できなかった。

やがて「魯卿あん」の店主である黒田草臣さんが外出先から戻ってこられた。黒田さんは幼少の頃、魯山人に可愛がってもらったと言う。私は正直に「魯山人のことを全く知らない」と黒田さんに話し、教えを乞うことにした。黒田さんは丁寧に一つずつ作品の説明をして下さった。しかし、陶芸の基礎を知らない私では埒(らち)が明かない。最後に黒田さんは自身の著書『美と食の天才 魯山人 ART BOX』(講談社、2007年)を読むことを勧められた。私はとりあえずその日はその本を購入し、「魯卿あん」を後にした。

◆「人間国宝」の指定を辞退

北大路魯山人(本名:北大路房次郎)は昭和前半期の日本で活躍した芸術家で、その活動は篆刻(てんこく=印象を作成する技術)・絵画・陶芸・書道・漆器・料理などの広範な領域に及び、その全てにおいて超一流と言われる実績を残した天才である。料理漫画「美味しんぼ」の主人公・山岡士郎の父親である海原雄山のモデルとして、一般にも広く知られている(もっとも私はこの漫画を読んだことがないので知らなかったが……)。

魯山人は1883年京都の上賀茂村で、上賀茂神社の社家をする貧しい家に生まれた。誕生前に父は自殺し、母は失踪(しっそう)するなどつらい幼少時代を過ごす。色々な家を転々とするが、6歳の時に引き取られた木版師・福田家で自ら買って出て炊事を担当し、料理の基本を習得していく。また、養父の木版の手伝いから篆刻や書道などの感覚も身につけていく。20歳の時、別れた母に会いに上京。そのまま東京に残り、21歳の時に日本美術協会の展覧会で褒状一等二席を受賞。翌年より岡本可亭(岡本太郎の祖父)に師事し、書道家として大成する。

1913年から1915年までは滋賀・近江長浜で、その後は金沢・山代温泉や京都などに食客として招かれ、食器と美食に対する見識を深めていった。特に山代温泉にある九谷焼の窯元・須田菁華(せいか)の下で、焼き物の基礎知識を勉強する。この時代には既に多くの看板や赤絵の陶器などを製作し、今もこれらの作品が現地に残っている。

1917年には東京に戻り、中村竹四郎と共同で古美術店の大雅堂を経営。この大雅堂で古美術品の陶器に高級食材を使った料理を出す。するとこれが評判になり、1921年には会員制食堂「美食倶楽部」を発足。1923年関東大震災で東京が焼野原になったあとの1925年、魯山人は中村竹四郎と共に東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を始める。魯山人はこの料亭の顧問として料理・接客の一切を差配する。魯山人が42歳の時である。この料亭は料理はもちろんのこと、建屋・家具・食器・接客とも超一流であったため、政財界や文壇の人たちがこぞって会員になりたがった。1927年には星岡茶寮で使用する食器を本格的に製作するため、鎌倉山崎に星岡窯(せいこうよう)を開設する。のちに重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される荒川豊蔵を招いて陶器作りをするが、魯山人はここでも陣頭指揮を執り、生涯3万点にも及ぶ陶器を製作する。

晩年の魯山人は不遇ではあったようである。53歳のとき共同経営者であった中村竹四郎と仲違いすると、魯山人は星岡茶寮の経営から追い出される。戦後は金銭的に苦労するとともに健康も害す。実の娘は魯山人が大切にしていた骨董品を多数持ち出し、魯山人はその後その娘とは二度と会おうとはしなかった。1959年に美食がゆえの寄生虫による肝硬変のため76歳でその生涯を閉じた。なお、1953年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退するという気骨の人であった。

悪評の絶えなかった生涯と徹底した執念

黒田草臣さんの書かれた本にはこうした魯山人の略歴とともに膨大な数の魯山人の作品が掲載されている。この本を読んで、私は更に絶望感を深くした。北大路魯山人はとても私が理解出来るような相手ではない。私はその後「魯卿あん」に数度お邪魔したが、それよりも専ら日本全国各地の窯元を訪問し、現地のそれぞれの陶芸を一つずつ理解していくことに努めた。有名な作家の先生たちとも直接お話をさせて頂き、多くのことを教えて頂いた。素人の私に丁寧にお付き合い頂いた作家の方たちには深く感謝している。

ところが3か月ほど前、経済週刊誌で「令和の価値を体現した嫌われ者の芸術家 北大路魯山人」というタイトルのコラムを目にした。著作家・コンサルタントなどをされている山口周氏が書かれたコラムである。そこには魯山人の悪評の絶えなかった生涯として、傲岸(ごうがん)・不遜(ふそん)・虚栄・独尊・ケチ・毒舌などの風評があり、人間関係の悪化など一顧だにしなかったと書かれている。魯山人の生涯を書いた『北大路魯山人』(白崎秀雄著、ちくま文庫、2013年)にはその人となりが詳しく書かれているようである。「芸術はすばらしいが人間が嫌いだ」と言う人が大宗をなすようである。ところが、山口氏はそのコラムでその逆説を語る。魯山人は「嫌われることを恐れないから大成出来た」と言うのである。リーダーシップは「嫌われる」ことと表裏一体の関係にあり、ジョン・F・ケネディ(元米国大統領)、マーティン・ルーサー・キングJr(米国黒人解放運動指導者)、マハトマ・ガンジー(インド独立の父)や坂本竜馬、織田信長、西郷隆盛などは秀でたリーダーシップを発揮したものの、反対派の激しい憎悪により殺されているのである。魯山人も芸術分野において、自己主張を強烈にしたリーダーシップに富んだ人間であったため嫌われたというのである。

私の中でむくむくと魯山人に対する興味が湧き上がってきた。早速『北大路魯山人』を購入し読んでみた。白崎氏は当時の魯山人を知る人たちを丹念にインタビューして、魯山人像の復元に取り組んでいる。このインタビューを通して白崎氏は魯山人の作品を多く自分の目で見るとともに、魯山人自身が書いた論評にも目を通している。

この本は魯山人を知る上では秀逸な作品である。しかしそこには私がそれまで理解していた魯山人と全く違う魯山人が存在していた。自分の好みの女性は手当たり次第手ごめにする、金持ちの娘とは結婚してその実家から金をせびる、女性に飽きると徹底していじめ抜く。こんなことだから6度も結婚を繰り返す。権力者や金持ちには積極的に近づき利権を得ようとする。金は自分のためだけに使い、骨董品や美術品を買いまくる。自分以外の才能は認めず、あたりかまわず人を罵倒(ばとう)する。さすがに、こうした情景を描く箇所にくると私も気分が悪くなる。大変な人物であったことは確かなようである。

一方で、魯山人は自分のやりたいことは徹底した執念で臨んだ。書道は自分の好きな書体をいち早く見つけ、「常用漢字三体習字帖」を独学で勉強。更に書家の岡本可亭の内弟子となり、3年間の住み込み修業をする。後年には自ら朝鮮や中国に出向き、それらの地の大家と交流をする。陶器についても、九谷焼の須田菁華に手ほどきを受けたのち、京都に赴いて尾形光琳や乾山など京焼きの作風を勉強。また、古瀬戸や織部焼にも興味を持ち、荒川豊蔵と親交を深める。晩年は岡山・備前焼の金重陶陽に教えを乞う。

魯山人の星岡窯には、萩・備前・信楽・瀬戸など全国各地の土が集められていたようである。自分が習得したいと思うものは、その地に赴き教えを乞うとともに、徹底した努力と集中力で最後は自分の中に取り込んだ。これだけの執念を発揮するためには、人との協調性など彼にとって全く意味が無かったのであろう。

まさに努力の人

魯山人を語る上で忘れてはならないのが料理である。星岡茶寮には多くの「食い道楽」が押しかけたようであり、その料理のおいしさは格別であったことだろう。残念ながら、私は魯山人が作った料理を直接口にする機会に巡り合えなかった。そのため彼の料理を品評することは出来ない。

しかし白崎氏の本を読み感じ取ったことがある。第一は食材の大切さである。幸いにも私は仕事で日本全国を渡り歩き、お取引先や提携銀行の方からその土地特有のおいしい料理をごちそうになっている。日本は日本列島が出来た過程で複雑な地形が生み出された。静岡や北陸にある深海湾、日本海溝によりプランクトンを大量に生み出す黒潮、海底の複雑さが生み出す鳴門海峡、こうした海からはその土地でしか獲れない豊かな魚介類がある。南北に広がりかつ起伏のある日本列島だからこそ、それぞれの土地の野菜がある。また、急流に育つ川魚もある。こうした新鮮な食材を魯山人は大切にしたのである。魯山人は獲れたての鮎(あゆ)を生きたまま一昼夜をかけて全国各地から東京に運ばせた。ここまでしておいしい料理を作ろうとしたのである。

魯山人の料理に共鳴出来る2点目は、料理と食器のマッチングである。恥ずかしながら私がこのことに気づいたのはこの数年前のことである。世の多くの方々は高い食器を買っても大切に箱にしまったり、食器棚の奥に置いたままにしておいたりすることがあるだろう。「もし高価な食器を使って割れてしまったらもったいない」。私もこう考えていた。

しかしこの歳になると余命いくばくもない。せっかく買った食器も一生使わずになってしまうかもしれない。こう考えて伊右衛門窯の絵皿を引っ張り出して使ってみた。料理を盛って見ると景色が違って見えるのである。なんと味まで違って感じる。料理は味覚だけでなく、視覚もそれを構成するものだと気づいた瞬間であった。魯山人にとって陶器はそれだけで存在するものではなく、料理とかみ合ってその存在意義を体現するものだったようである。星岡茶寮で使う食器を作るために星岡窯を開設し、わざわざ荒川豊蔵を呼んできたのである。その眼識たるや恐るべしである。

今回私は魯山人を少しだけわかったような気がしている。私の好きな格言に「努力に勝る天才なし」というものあるが、魯山人もまさに努力の人であった。また自分が興味あるものには限界を設けずひたすら習得しようと努めた。私はこの姿勢にも共鳴する。しかし魯山人には自分の個性を大切にする強い意志と生まれついての鑑識眼があったようである。残念ながら私にはこうしたものがない。料理や陶芸についてもう少し勉強してから、魯山人に再度会ってみたいと思う。

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