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ソーシャルメディアにはびこる危険なわな
『時事英語―ご存知でしたか?世界ではこんなことが話題』第40回

2月 12日 2020年 文化

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SurroundedByDike(サラウンディッド・バイ・ダイク)

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オーストラリア旅行の際、ホテルでの朝食の時に手に取った新聞の記事に興味を持ちました。スウェーデンの16歳の環境活動家グレタ・トゥンベリさんが気候変動について世界の大人たちに対し警鐘を鳴らしていることに絡め、ソーシャルメディアの在り方を批判しています。デジタル社会に落ちこぼれていることに不安な自分としては最初、共感を覚えたのは事実ですが、最後まで読むと、複雑な思いになりました。よく読むと、世界的な温暖化の問題を、景気変動予測の難しさと同列に並べる無理な比喩(ひゆ)やグレタさんを事実上非難しておきながら彼女には興味がない、と突き放している点です。ただ、ソーシャルメディアについてはグレタさんだけでなく、世界のリーダーにとってさえ、自ら振り回したり、振り回されたりする状況で、実に無視できない存在です。さて、自分はどう向き合うべきか?

以下に全訳を紹介するのは、豪日刊紙The Australian(オーストラリアン)の土曜版The Weeekend Australian (ウィークエンド・オーストラリアン)の 2020年1月18~19日週末号Inquirer欄に掲載された、豪メルボルンのラ・トローブ大学社会学名誉教授ジョン・キャロル氏の「The Tyranny of Opinion」(意見の暴虐)と題する記事です。

◆アイデンティティーポリティクス

ソーシャルメディアで浅薄な道徳を説くのは今や新種の宗教となりつつある。

人種、民族、性的指向、障害などの理由で、社会的不公正により虐げられている人々の利益を代弁する政治活動(アイデンティティーポリティクス)の年であった2019年が終わった今、次は何が起こりつつあるのだろうか。中世の異教徒裁判とか苛烈(かれつ)な宗教審理、そして虚偽宗教のカルトによる世界終末説まがいが復活していることについて今少し掘り下げたい。

私たちがどう考えるかを巡っての新しい対立が起きている。意見は行動から遊離してきている(つまり、言い放つだけである)。その傾向と並行して、人のステータスは、財産の多寡とか社会的に何を成し遂げたかということよりも(世の中の諸問題への)自分の立ち位置とか態度が問題にされるようになってきている。この夏からの森林火災についてさえも、現実的で厳粛な認識と共感性をもち、この大陸の過酷な自然や歴史に立ち返って対処されるべきなのに、しばしば世界終末論の次元で語られる。

自分が何者であるかがわからない戸惑いの明白なあらわれ方の一つが自分のステータスについて抱く不安感である。近代を通して、人は世間の目に映る自分の値打ちを補うために大きな邸宅、高級車、デザイナー衣料、高価な旅行、郊外の格式ある住宅地での居住、あるいは子供をエリート校、有名大学に通わせることなどを周囲に見せびらかすことを行ってきた。アメリカの経済学者で社会学者でもあるソースティン・ベブレン氏が「目立ちたがり消費」と呼ぶ行為にふけってきたのである。新しいスノッブ(気取ること)とは、しかし、趣味の悪さ、ひどい方言、安物を持っていること、変な学校に行かせていることなどを揶揄(やゆ)することではない。それは問題に対する人々の態度を非難することである。

ある人々は#climatechange(気候変動)のハッシュタグ付き意見を投稿して多くの“いいね”を獲得することで自ら炭素税相殺ができた、とインスタグラム上で自慢する。また他の人たちは同性婚支持のハッシュタッグ#loveislove(愛は愛)を付けて投稿して、賛同を示すおびただしい数のハートマークをもらった、とツイートするのである。

マイケル・レウニグの漫画(スマホに夢中で自分の赤ん坊を落としたことに気づかずベビーカーを押して歩き続ける母親を描いた)を何千人もの人が非難している。人のステータスを表すものが変わってきていることは、部分的には豊かさの特徴に違いない。――(ツイッターなどで)意見が出てくるのはほとんど富裕層からに限定されている事実とも相まって、金持ちであることの具体的証拠を見せることが以前ほど重要ではない。中産階級以上にとって、暮らしに困らないことは当たり前のことであるからだ。アイデンティティーポリティクスの原点はその名称そのものが表している。すなわち、アイデンティティー(自分が何者であるか)、とそれに関して満たされていないことである。

人が自分に関して不安を抱くことは何ら新しいことでないことを銘記しよう。17世紀フランスの倫理学者フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーは自尊心が人を駆り立てる最も強力な動機であると論じている。人にとって、虚栄心、エゴイズム、面目を失うことや失敗への恐れが行動の原動力のほぼすべてを占めるのである。近世以前の世界においてそれは今ほど普遍的に当てはまることではなかった。というのは、当時9割以上の人々は、日々何とか生きていくための苦労で時間、エネルギーの余裕がなかったからである。自分が何者であるかというアイデンティティーの不安を感じることなどは暇な人間にしか許されないぜいたくであった。アイデンティティーを確かなものにするカギは、信条と自分が何らかの集合体に帰属しているという意識とによって支えられて内なる自信を持つことである。信条が一番重要である。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、近代西洋文明圏を取り巻く中心的な脅威を意味する「迷夢からの目覚め」(disenchantment)という言葉をつくった。もはや神とか超越した地位にある何らかの原則の存在を信じない俗世の時代にあって危険なことは、世界が信仰の魔術を失い、単調退屈でくだらないものになることである。人間が快楽を求め苦痛を避けること以外にはほとんど何もしないで済むようになることである。

サミュエル・ベケットは20世紀の最重要な戯曲と見なせる「ゴドーを待ちながら」(waiting for Godot)の中でその趣旨をテーマとして描いている。ベケットが登場させる2人の浮浪者が人生はあまりに無意味なため自殺を話題にはするが、敢えてそんな面倒なことはしたくないのである。生きる意義が現代の問題となったのだ。

実際、神への信心は、人を強く傾倒させる主義主張に取って代わられつつある。それは 人の周囲を取り巻く現実を支える深淵で永続的な真理、そしてさらにそれをある程度理解し、それから何とか逸脱しないよう努めることが良い人生を送ることにつながるような真理である。

そのような真理とは捉えにくく、系統立てて説いたり、正式にこうだ、と述べたりすることが難しいものである。シェークスピアのすべての作品を読むにはそれらの複雑な含意を解明すべく格闘せねばならないことのように。物事は教会宗教時代ではうんと容易だった。牧師、修道会、神学そして教義、絶対的な道徳規範、膨大な前例に裏付けられた伝統、壮大な建築物、音楽や絵画、それらすべてが教えを称揚するために捧げられている。

西洋がだんだんポストキリスト教時代に向かうなか、高度な文化や大学が枢要な社会的重要性を持つようになってきた。それらの指導的役割は一般市民が人生をよりよく理解し、そしてとりわけ彼らを悩ます困難や悲劇を耐えるよう助けることであった。

それらは人生のストーリーを様々な形の寓話で説くことを通して使命を果たした。すなわち、文学、美術、音楽そして最近では映画などを使い、解釈を加えることによって行った。過去1世紀半を通して、この使命は概して徐々に放棄されてきた。その結果として、敢えて言えば、信仰の喪失がこの世には何もないとする空白と反宗教をもたらした。(以下、全訳続く)

◆倦怠の法則

信仰、あるいは宗教でなくても何らかの代替となるものが必要とされることは広く認められている。それがなければ、ベケットが描くところの日々、生涯を過ごすべき精神指針を持たない浮浪者の行き場がなくなる。確かで明白なかたちが見えないアイデンティティーは、卑しい快楽と権力を求めることに駆り立てられ、でたらめな存在となる人を生み出す、と非難される。快楽はいつかついえるものであり権力も永久には続かない。ある人々は信ずるものがないことが原因で鎮静剤や麻薬を求めるようになる。また他の同様な人々は攻撃的な非宗教思想に走るようになる。そのような疑似宗教的な人々は、世界を妄想的に善と悪に二分化する考えに染まる。

このような心理は歴史上からもなじみがあるもので、教会が不安な立場に置かれた過去には異教徒、あるいは魔女として、自分たちに従わないと見なした人たちを迫害したのだ。弱体化した中世宗教は、世紀末信仰派を発生させたのであるが、それは過去最も迷信深かった時代に不気味に逆戻りする形で今再び登場してきている。

スウェーデンのティーンエージャー、グレタ・トゥンベリさんがケーススタディーの材料を提供してくれている。彼女の態度と演説は世紀末を唱える原理主義キリスト教の説教師をまねたものだ。強烈な感情を表す目つき、怒りを込めた世紀末の警句、そして「よくもそんなことを」(how dare you)の呪文をサタンである大人たちの世界に向けて浴びせるさまは米テキサス州のウェーコで生じたカルト集団の一件(注)を思い出させる。

(注:黙示録による終末到来を信ずる信者及びその子供たち、および豪州、英国などの外国人信者も含めた宗教団体が大量の武器を不法に装備し立てこもったのに対し、1993年2月教団本部に強制捜査が行われたが激しく抵抗した。同年4月に当局の実力行使に放火で対抗し、信者側に多数の焼死者と当局側に数人の犠牲者が出た。)

中世の初めには子供による改革運動もあった。約2万なにがしに及ぶ子供たちがリーダー2人に率いられ、終末思想を信じない人々からエルサレムを救う目的でフランスから行進を始めたのである。運動は飢えと不満により目的地の随分手前で挫折した。

まるで「新約聖書の最後の本」(the Book of Revelation)から飛び出たように行進する自称「美徳の兵士」運動を繰り広げる市民運動「Extinction Rebellion」(エクスティンクション・リベリオン)も最近出現している。彼らはロンドンからメルボルンまで、頭巾と鮮やかな深紅の衣装をまとい、顔を白く塗り、口紅を赤く薄くひいた唇のいでたちで、中世の死のダンス行進と不気味なハリクリシュナを織り交ぜたようなパフォーマンスを見せながらやってきた。これら殉教者たちは建物に身をくくり付けてわざと逮捕されることを求めた。――それは自分たちの主張の弁明機会を得るため、進んで「邪悪な当局」による迫害を求めたのである。

気候変動の真実がどうあれ、エクスティンクション・リベリオンの終末思想は長期気候変動予測を誇張した内容を根拠にしているにすぎず、そのような予測はハーバード大学の著名なエコノミスト、ジョン・ケネス・ガルブレイス氏が「星占い」に気の利いた別名を与えるために考案されたにすぎないと皮肉る「経済予測」ほどひどくはないかもしれないが、信頼できない点では同じだ。(以下、全訳続く)

◆世界の終わりは近い

グレタ自身に興味はないが、驚くべきは彼女が世界中のメディアによってまともに相手にされて、アッパーミドルクラス(上位中産階級)の広い層と文化的エリートたちが熱心にその言葉を聞き、国連が彼女にその演壇に立つ機会を与え、米タイム誌の「今年話題の人」(Time person of the year)としてたたえたことである。

大人の倫理とは、普段は実際の生活のなかで地道、真剣、勤勉、論理的であって、たまの余暇には疑似宗教的にガス抜きのため、暗い偏執病妄想と素朴な義憤に関心を向けることはある。一方、運動家たちの主張は自分たちの小さな世界のなかの「はしゃぎ」のなかでつくりだされている。

社会学者のピーター・マーフィー氏はツイッター利用に関する統計データから、アメリカの成人人口のわずか2%しかツイッターでは政治関連の話題に触れていないと分析した。他にどんな話題について投稿しているかと言えば有名人ともう一つ、日々の暮らしについてである。――しかし、そんな投稿も英国のメーガン・マークル王妃が経験したように意地悪な結果をもたらすのだ。彼女はソーシャルメディア上で、一部には政治的色合いも重ねたものを含む憎悪コメントの集中砲火を浴びたのだ。

昨年の豪連邦選挙で、気候変動は些細な心配事で、大概の有権者たちが興味を示さない取るに足らない事柄であったことが判明している。ソ-シャルメディアで話題にされるということは、かつてパブとかゴルフクラブのラウンジで個別の政治家をこき下ろすことに限られていたのが今では即、世界中に報道されてしまうことだ。自分と違う人たちに対する憎悪と悪意に満ちたうわさ、あざけりと迫害の大雑音を伝え、そして、直接にそう言わないまでも「私に賛成するのかしないのか」と脅迫尋問を行うマイクとなるのだ。

現代西側社会の礎石が裂けている。偏見にとらわれない個人の良心の自由、道理を尽くした議論と言論の自由の啓蒙的価値そして民度を表す価値としての節度と礼儀が脅かされているのだ。指でキーを操作するだけのコミュニケーションの容易さが、気分が高揚した誰をも衝動的に、よく考えずに、あるいははっきりした議論を経ないで判断させてしまう傾向を助長するのだ。

人々が暇なときスマートフォンの操作により多くの時間を割き、読書の時間を短くすることが、熟考には不向きな習慣を身に着けてしまうのだ。ソーシャルメディア漬けになることで、浮かされたように熱中する不安定さと、人からの同意依存症に陥るのだ。それはフェイスブック、インスタグラム、ツイッターへの投稿の場において中心的特性であって、インスタグラムとツイッター上でハートとか、見知らぬ他人が数秒見るだけで送ってくる“いいね”を示す、立てた親指のサインを送信してもらいたがることである。投稿が愛のハートの形の返信で認められることは、隠れてはいるが抑圧的な文化のひずみをうかがわせるのである。(以下、全訳続く)

◆深みと自分の欠如

病的に極端な場合、このように脆弱(ぜいじゃく)な自尊心は、自分のまずい仕事ぶりを親方に注意されて2日ほどふてくされてしまう20歳の見習い配管工に見られるような、他人の批評を受け入れることができない未熟さと結びついてゆく。あるいは、カウンセリングに対して、自分と違う意見に感受性が傷つけられたかもしれない学生が示す反応であったり、人権擁護団体の調査を受けたオーストラリアの漫画家ビル・リーク氏(先住民差別の漫画を描いたとしてメディアで大きく非難された漫画家)に対する(世間の)反応などと同じであったりする。アイデンティティーポリティクスはキャッチフレーズに従う。われ大げさに美徳をふりかざす、ゆえにわれあり。意見を裏付ける筋道を追う論争をあまりしない傾向でわかるように議論の中身は時として重要ではないのだ。

こんにち、流行の話題である性的指向、人種、西洋文明への嫌悪そして環境など自己の立ち位置を示す対象の話題は、本当に各個人の特性に根差した問題意識というより、いっときの無意味な狂信状態が体裁を取り繕っているだけである。なぜなら、「聖戦に殉じている人」たちは、実際にはほとんどがトランスジェンダー(性別の境界を越えて生きる人)、先住民、ガンジーのような禁欲苦行者とかグリーンピース(国際環境NGO)の乗組員であったりはしないからである。政治デモの際の、興奮して述べる意見とか落書きにおいてそのような狂信さが表現されるのである。そんな抑圧的ナルシシズムのロジックでは主たる見返りを賛同のマークを獲得することに求める。立てた親指とかラブハートは、主に孤独な自分に対する外部による認知が想像の中で大きく膨れ上がり、そのマークの総数は自分が認識される総数であって、話題の中身よりも重要なのだ。同時に自尊心はあまりに脆弱になり、自我はあまりに自信を欠き、異なる意見のわずかなつぶやきが感情を入れて美徳をふりかざすことをできなくする。

立派な組織だって美徳をふりかざすことがある。それは部分的には、実際に抱えてきた事実を表面的に排除してきた事実を隠すためであった。企業、大学、スポーツ団体のミッションステートメント(綱領)では誇らしげに受容性、寛容さ、多様性を自慢する。彼らが自慢すればするほど、差別、不寛容さ、政治的公正さの見かけの順守アピールをより目立たせることになった。(以下、全訳続く)

◆病的否定症候群

ジークムント・フロイトはこの病的否定症候群を「ほほ笑んでほほ笑んで、でも悪人でいる」ための攻撃的スマイルと名付けている。否定主義は、ドイツ民主共和国と自ら名乗った近代で最も卑劣な独裁国家であった東ドイツが政治的にその行為の実例を示したのである。だから、信じることと行動が別々になることには驚かない。人は何をするかではなく何を信じるかで判断される。(その理由で)豪サッカーのイスラエル・フォラウ選手とテニスの大スターのマーガレット・コート選手がわが国のスケープゴートにされた。

昨年、豪ラグビー協会は自分たちのスポーツの興行の成否、競技のパフォーマンス水準あるいは財務状況を心配するよりも彼らの社会的倫理美徳をアピールすることを好んだように見受ける。中世の宗教狂信主義をまねて、ラグビー協会は時流に合わない考えを理由に、豪ラグビーの最良選手を責め立てた。おそらくベストな選手であるがゆえにいじめられた。そして、素晴らしくプレーすればするほど彼の人格が邪悪に見えるよう際立てのだ。

プロスポーツ選手たちは、行動が厳しく詮索(せんさく)されたら、その多くが異端者判定テストをパスできないことになるであろう。フォラウが他の選手と違うのは、まず彼がスーパースターであること、次にいまどき珍しいことだが、彼は事柄によっては強固に信じていることがあるのだ、と広く示したのだ。エクスティンクション・レベリオンやグレタさんの熱烈な支持者のような少数の狂信的な信者にとって、フォラウ選手は本当に間違った神を信じている人物なのだ。コート選手(同性婚に関するメディア上でのコメントが物議をかもしている)についても同様だ。彼女が豪州でそしておそらく世界でも最高のテニスプレーヤーであることでスポーツ界での輝く目標とされている。彼女の考えはつい最近までほとんどの西洋社会での伝統的な結婚についての常識的見解であり、また少数派とはいえまだかなりの数のオーストラリア人に支持されているにもかかわらず、今では異端とされている考えに自らのお墨付きを与えたのが理由で火あぶりの刑の目に遭っているのだ。

フォラウ、コート両選手の事例は我々にさらに伝えていることがある。問題とされる倫理上の見解はとりたてて衝撃的なものではない。というのは、一般大衆の熱い怒りが向けられている事柄は、両選手が責任を負う専門領域から外れているからだ。フォラウの同性愛者への態度はほとんどの人の気持ちにとって、彼が地獄の存在を信じていることと同様、滑稽で笑えるともいえる。そして正式な同性婚論争は終わって決着がついている。だから、コートがどう考えようと誰が構うのか? しかし、行進する殉教者は、いかに変わり者で弱くてもよいので、とにかく悪魔が必要なのだ。悪魔の匂いが血をたぎらせるのである。(以下、全訳続く)

◆仮想的浅薄さ

なんらかの共同体に属していることが、信ずるものを持てずに感じる不安な自己同一性を補うための伝統的に最も成功している手立てであることがわかっている。共同体のつながりが壊れるとき、社会学者がアノミーと呼ぶ状況がもたらされる。アノミーとは、世の中に人々をまとめることのできる規範や価値が不十分な状態を指す。強い共同体とは、構成員が自分たちの住む環境において何をして、いかに日々を生きるべきかについて自信をもち、安らぎを感じるようにまとめ、彼らが共有できる目的と共通の信念によって団結させるのである。

こんにちでは、学校、クラブとか他の組織はより軽く、補助的な役割を果たし、核家族が最も普通で、最もうまくいく手本を示すのである。ソーシャルメディアによってつくられる疑似共同体は完全に満足なものではない。それは家庭に比べ、一般的に不安定で長続きせず、人を固くまとめることはできず、移ろいやすくて結束力を欠く正当性をふりかざすのである。さらに、その疑似共同体は、共に何かを行ったり、集まって対面したりすることよりも共有意見を集めることだけを奨励する。人間のおかれた状態を安定させる、どんな基本的真理も信じられなくて幻滅することは有害な代償を払うことになる。

それは個人の自己同一性にかかわる安定を求めるという人間として至極当然な行為を狂わせてしまうのだ。地獄は去ってもサタンの霊力と復活を信じている。キリストの救済は去っても政治による救済を求めることはやめない。無神論者の仲間が増えるにつれて、宗教に関してフロイト学説が説く、「抑圧された者の帰還」(Freudian return of the repressed)を多く見かけるようになった。最良の世俗的価値である、自由民主主義により保障される良心と意見の自由は最悪の過剰宗教の攻撃下で患っている。すなわち、うわべはもっともな意見の暴虐、狂信的伝道と異端者迫害によってである。(以上、全訳終わり)

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