п»ї 社会の摂理 『WHAT^』第27回 | ニュース屋台村

社会の摂理
『WHAT^』第27回

12月 17日 2019年 文化

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

「データ」が経済活動に大きな影響を与えていることは確かだとしても、『データ資本主義』(ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、トーマス・ランジ、NTT出版、2019年)として、「データ」が資本主義を延命するかどうかは疑わしい。日本が誇る経済学者である宇沢弘文がアドバイスしたという、ローマ教皇(法王)ヨハネ・パウロ二世のレールム・ノヴァルム(ローマ教皇〈法王〉の公式文書)におけるメッセージ「社会主義の弊害と資本主義の幻想」のほうが現実的だろう。実際、その前半はソビエト社会主義共和国連邦の崩壊として現実のものとなった。著者ビクター・マイヤー=ショーンベルガーの考えは社会的に保守革新のバランスが良く、ビッグデータの技術とビッグデータビジネスの現実を熟知している専門家でもある。しかし、宇沢のように経済学を根底から再考するものではなく、貨幣からデータへと市場の主役が交代することの「社会的」意味を、金銭的な観点からしかとらえていない。

宗教の役割は神の摂理に従って生きることであり、それは自然の摂理に反するものでないことは明らかだ。しかし、個人と自然の間にある「社会」には摂理があるのだろうか。近代自然科学の法則性を社会の摂理と拡大解釈すると、共産主義のようにドグマでしかなくなる。歴史的実験にも失敗してしまった。社会の構成要素が人間だから、人間の集団として社会を理解すると、複雑系における要素還元主義の限界につきあたる。ミクロ経済学とマクロ経済学の関係は、統計力学と熱力学の関係のように科学的な説得力のあるものではない。宇沢の回答は「ヒューマニズム」、人間のための経済だ。個人と自然の間にある人間が「社会の摂理」となると考えている。とても立派な思想だけれども、デジタルな時代の「データ」は、どこに居場所を見つけるのだろうか。

宇沢は、経済学者ジョン・ラスキンがアダム・スミスの『富国論』にささげた「There is no wealth, but life」という名言を、「富を求めるのは、道を開くためである」と理解したそうだ。しかしもっと素直に、「life is life」として「生命とは生活のことだ」と考えれば、個人と自然の間には「生命」の摂理があって、それは「生活」そのもののことなのだと言っているのかもしれない。「ニュース屋台村」の別稿で長々と書き続けてきた『住まいのデータを回す』シリーズも最終段階となっている。その結論であり出発点は、「データ」は生活の中に居場所を見つけることだ。「データ」は「市場」よりも独立で自由な居場所を求めている。宇沢のような立派な思想家を失った人類は、認知症を生きるしかない。ただし、「データ」の力を借りて、認知症は治癒する病になるという約束とともに。「データ」の大部分は、人びとがコーディングして作り出してきた。今後は人工知能技術がコーディングを自動化してゆくだろう。「データ」にとっての社会的共通資本は、公開されたコーディング技術と社会的コーディング・プロセスであって、社会の摂理に従うものでなければならない。思考経路は異なるけれども、ビクター・マイヤー=ショーンベルガーの結論とも一致している。

WHAT^(ホワット・ハットと読んでください)は、何か気になることを、気の向くままに、イメージと文章にしてみます。

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