п»ї ふるさとの景色の先に広がる大きな世界 So far so good(2) 『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第11回 | ニュース屋台村

ふるさとの景色の先に広がる大きな世界
So far so good(2)
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第11回

2月 28日 2024年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

◆「あいさつの大切さ」思い知る

兵庫県の実家で暮らした18年間の生活で、現在の私の人生にもたらした出会いと学びをいくつか挙げると、まずは小学校の分校の時代に遡る。

分校に入学したのは私1人だったので、新聞やテレビで「独りぼっちの入学式」として紹介された。おそらくそれが、後年働くことになるマスコミとの初めての出合いだったと思う。当時2年生に4人いて、複式学級で、担任は地元の寺の住職のA先生だった。

A先生は常々、「おまえは一人だから、いつも一番。どこへ行っても一番。自信を持て。どこへ行ってもきちんとあいさつしなさい」と言っていた。振り返ってみて、先生の言う「一番」というのは、お坊さんらしく「学問や成績ではなく、人の道で一番になれ。そのためにはいつもきちんとあいさつすることが大切だ」というふうに自分なりに解釈するようになった。

就職して、国の内外を歩き、上下左右裏表(大統領や首相、左翼や右翼、ヤクザや任侠〈にんきょう〉など裏社会の人たち、そして一般の人たち)と接する中で、ぶれずによかったことは「きちんとあいさつをする。礼儀を尽くす」ということだった。

あいさつで思い出されるのは、プロ野球パ・リーグのソフトバンクホークスの王貞治会長から同じようなことを聞いたことがある。王さんは「あいさつとは、自分のためにするもの」だと言うのである。

王さんは監督をしていた時、どの選手を1軍に上げようか、ベンチ入りさせようかと考えた時、朝のミーティングであいさつが元気だったかどうかで判断していたという。

プロ野球で一軍に登録できるのは現在31人まで、このうちベンチ入りできるのは26人までと決まっている。王さんは監督時代、弱々しいあいさつをする人や、あいさつしない人は「きっと自分に自信がないのだろう、ということで起用しなかった」という。王さん自身、高校の時から、監督さん、先輩に対して、意識的に大きな声であいさつをしてきたそうだ。

元気で威勢のいいところをまず、目にとめてもらい、そして起用してもらう。そのチャンスがめぐって来た時には、この時とばかり必ず結果を残す。そのために不断の努力、練習を欠かさない。こういう前向き(ポジティブ)なサイクルを自分の中でつくりあげておくことが大切だと指摘していた。

◆早大マスコミ研究会

高校当時、H先生にとくにお世話になった。H先生は当時、定時制と掛け持ちで英語を担当していたのだが、週に1回、個人的に放課後の空き時間にマンツーマンで英語を教えてもらっていた。H先生が早稲田出身だったことも、私が同じ大学を目指すきっかけの一つになった。

先生からは受験英語はもちろん、英語の楽しさを学んだ。大学生になってから海外を歩いたり、ボランティアとして難民キャンプで働いたり、記者になってから特派員として海外で取材活動をするようになってからも、英語に対するコンプレックスのようなものを抱かずに済んだ。

1977年に大学に入学。大学では「マスコミ研究会」に所属していた。入学当初は、卒業後は地元に戻って公務員になるか、あるいは分校の先生になるか、と漠然と考えていたが、入学式直後の勧誘で「マスコミ研究会」に引っ張りこまれ、それがきっかけでジャーナリズムの世界に関心を持つようになった。

当時も今もそうだが、マスコミ業界に石を投げたらまず必ずと言っていいくらい、早稲田の出身者に当たる。「マスコミ研究会」はジャーナリズムの世界に多くの人材を輩出していて、たまにOBが部室にやってきて自慢げに仕事の話をしてくれるわけだから、大いに刺激を受け、2年生の初めごろには将来の進路をマスコミ1本に定めていた。

OBからは「記者になることに意義を求めるな。記者になってから何を書いていくかを考えろ」と言われ続けてきた。マスコミの試験に合格するのも狭き門なのに、「記者になってから何をテーマに書いていくか考えろ」というのはかなり飛躍した話だとその時は思ったが、実際に記者になってみて、OBの教えはその通りだった、とあとになって気づいた。

大学進学にせよ、就職にせよ、目指すべきゴールを設定すると、ゴールに到達することが目的化して、いったんゴールテープを切ると、気が抜けたような状態になる人が少なからずいる。自分の志の緊張感を切らさずに持続させるには、目指すべきゴールに到達したあと、それから何をするか、5年先、10年先の自分がどこで何をしているかということまで具体的にイメージしながら努力する、ということが大切だと思う。

◆「若気の至り」ピタウ上智大学長に直談判

では、私の場合、「記者になってから何をテーマにするか」ということだが、私が大学に入学した1977年は、ベトナム戦争終結からわずか2年後で、新聞には連日、ベトナム戦争後の混乱と、内戦と革命で当時の政権が崩壊したカンボジア、ラオスを含めたインドシナ3国からの大量の難民がタイの国境周辺に押し寄せ、自然発生的にできた難民キャンプの悲惨な状況が報道されていた。

そこでまさに「若気の至り」だったのだが、タイの難民キャンプに直接赴いて、自分の目で実際に確かめてみようと考え、当時、現地の難民キャンプで働くボランティアの募集を始めた上智大学のチームに加われば現地に行けると思い、学長だったヨゼフ・ピタウ先生(1975~1981年に上智大学第7代学長、2014年86歳で死去)に直談判することにした。

ピタウ先生はのちにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の秘書や大司教になられたローマ・カトリック教会の重要人物である。日本語がとても堪能で物腰が柔らかく、穏やかな方だった。私はインドシナ難民に対する私の考えを説明したうえで、「上智の学生ではありませんが、難民キャンプで働きたいのでぜひ上智のチームに加えてください」とお願いした。

先生はその場で快諾してくださったが、上智大学のチームに加える条件として言われたのが、「旅費と滞在費は全額自己負担」することと、「ボランティアとは何かということを考える」ということだった。

私は渡航費用を稼ぐために日当が高いアルバイトを選んで、地下鉄東西線の延伸掘削工事の地盤強化剤注入作業などをやった。それでもなお足りない分は「マスコミ研究会」のOB名簿を頼りに、カンパをお願いした。

◆休学して難民キャンプへ

一方、難民キャンプで働くため大学を休学するに当たっては、受講していた教授の一人ひとりを研究室に訪ねた。休学に至った説明とともに、「なんとか単位だけはください。卒業した暁(あかつき)には日本人の国際性を啓蒙するようなジャーナリストになります」と、卒業はおろか就職もまだ先の話なのに、大風呂敷を広げてムシのいいお願いに行ったのである。

幸いどの先生も快く了解してくださり、その中に餞別(せんべつ)まで包んでくださったI先生もいた。I先生は私の大学時代の恩師で後年、私たちの結婚式に出席してくださり、祝辞の中で私が難民キャンプから書き送った活動報告を紹介しつつ、私と難民出身の妻の結婚について「当然の帰結である」と話してくださった。

当時の早稲田はまだ学生運動がくすぶっていて、学内を牛耳る革マル派が学費値上げ闘争などでバリケード封鎖し、大学がしばしばロックアウトされたり、前期後期の試験が中止されたりしていた。難民キャンプで働き休学していた期間を含めると、大学4年間のうち実際に大学に行ったのは3年弱ほどだった。

早稲田には私と同じような地方出身者や苦学生が多く、先生がたも当時は太っ腹というか懐(ふところ)が深く、大らかな雰囲気が漂っていた。校歌の歌詞に「集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光」という一節があるが、その心意気はいまも染みついている。

◆ライフワークになった難民問題

私は難民キャンプでの活動期間中、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の援助を受けて、現在は弁護士をしているアメリカの友人と共に「Survival English Handbook」というパスポートサイズの小冊子を作成して、配布したラオス出身の難民がアメリカやカナダなど英語圏の第3国に定住する際に役立つよう、日常生活で最低限必要な言葉をイラスト入りで、ラオス語と英語の対訳で記(しる)したもので、その活動が帰国後、全国紙の夕刊の1面で紹介されたりした。

一方、難民キャンプでの体験を元に書いた論文が大手商社日商岩井(現在の双日)の「全国大学生懸賞論文コンクール」で1席に選ばれた。この論文は、難民キャンプに赴く前にお会いした上智大学のヨゼフ・ピタウ学長から出されていた二つ目の条件「ボランティアとは何かを考える」というテーマに対する私の答えでもあった。

当時「ボランティア」とか「NGO(非政府組織)」という言葉は、ほとんど知られていなかった。私は難民キャンプでの活動を通じて、ボランティアの本質は「自分にできることをするという能動的なものというより、活動を通して自分自身が人間として何か大切なものを与えてもらう受動的なもの。つまり、与えるのではなく、与えてもらうもの」だと結論付け、論文の締めくくりにそう記した。

論文コンクールの1席の副賞として、世界一周の航空券をもらった。カナダ行きを希望しながら当時まだ行けずにいたラオス出身の友人をタイの難民キャンプに再び訪ねた後、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ、ギリシャのアテネを経由して初めてアフリカの地を踏み、ケニアのナイロビを起点に、南は南アフリカ共和国の国境まで、西はナイジェリアの当時の首都ラゴスまで見て歩いた。その後、ロンドンからヨーロッパを経由してニューヨークに渡り、タイの難民キャンプで知り合いカナダ、アメリカの各地に定住した友人を訪ね歩いた。

私が大学時代に出会った「難民問題」というテーマはやがて私のライフワークになり、結果として、難民として来日した現在の妻との結婚という形で帰結し、私の人生そのものになった。(以下、次回に続く)

※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り

第10回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(1)」(2024年2月 21日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-12/#more-14559

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