п»ї ふるさとの景色の先に広がる大きな世界So far so good(1)『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第10回 | ニュース屋台村

ふるさとの景色の先に広がる大きな世界
So far so good(1)
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第10回

2月 21日 2024年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

大学進学のため故郷を離れて以来、ほぼ半世紀。帰省するたびに今も必ず向かう場所がある。生家の上流にあるダムに通じる町道の山の中腹。ここからは、私が生まれ育った小さな集落が一望できる。それはまるでジオラマ(情景模型)のようで、ずっとながめていてもいっこうに飽きない。

ここに立って、手のひらの上にのってしまいそうな景色を望むたびに、独りぼっちの入学式を経て分校に通っていた頃のことや、農繁期に集落の人たちが総出で助け合った田植えや稲刈りの作業、そして春夏秋冬の四季折々の田畑の情景などが鮮やかに蘇ってくる。

新聞社を定年退職して1年余り。ジャーナリズムの第一線を退き、年金生活が始まった。ふだんの日常はこれまでのところ、まあまあ順調である。記者の隊列から離れたのを機に思うままに時間が自由に使えるようになったので、私自身のこれまでの歩みを計6回に分けて振り返ってみようと思う。題して、「So far so good」――。

◆原点はジオラマのような小さな集落

私が生まれたのは、携帯電話の電波がいまだに通じない超過疎の限界集落である。ここ数年、帰省するたびに消滅集落になってしまう恐れを現実のものとして感じるが、今も幼い頃と変わらないのは、夏空の澄んだ青さと集落を温かく包み込むように囲んだ山並みである。ここに立つと、都会でのストレスが癒やされ、昔日の思い出がパノラマビューのように浮かんでは消え、そして身が引き締まり、時には武者震いし、私の背中を「さあ、また行ってこい」と強く押してくれるのだ。

いつだったか、ラオス・ビエンチャン生まれの妻と2人の子どもを連れてここに立って眼下の小さな集落を見おろした時、東京・新宿生まれの娘が「ここがまさにお父さんの原点なんだね」と言い、ブラジル・サンパウロ生まれの息子は「そうか、お父さんの人生はここから始まったんだ」と、納得したようすだった。

この「手のひらサイズ」の寒村で生まれ育ったことが、大学卒業後に進んだ大海原のようなジャーナリズムの世界でも、精神面で大きな支えになった。記者として取材の最前線で、たった独りでできることの「限界」と「可能性」に直面するたびに、割と冷静に「限界」を速やかに把握したうえで、「では、最適解にするにはどうすればいいか」と自問し、ただひたすら「最大の可能性」を追求してきた。度重なる「特オチ」など仕事の上での失敗は数え切れないが、取材の最前線の隊列から離れた今、ストレスからすっかり解放され穏やかな気持ちでいられるのは「やるべきことはやり尽くした」という安堵があるからだろう。

大事に至って臆することなく挑戦し続けることができたのは、だれにも負けないほどのこの超過疎の寒村で生まれ育ったことに起因する。

「見たい」「知りたい」「会いたい」「感じたい」――。好奇心は成長とともにどんどん膨らみ、小学校の分校当時の担任の先生が繰り返し説いてくださった「あいさつの大切さ」は、日本はもちろん、世界のどこにいても、知らず知らずのうちに私を守ってくれていた。どんな窮地に立たされても、私自身の原点である、あの山の中腹から眺めたジオラマのようなふるさとの景色を思い浮かべると、なぜか落ち着くのだ。

そして、その景色の先には、ワクワクするような刺激と言葉で表せないような感動があふれる世界が無限に広がっていることを、私自身のこれまでの歩みを振り返ってみて、改めて実感するのである。

わがふるさと 筆者写す 2023年11月 

◆行き止まり集落生まれの分校育ち

私は兵庫県の南西端部を流れる、県下屈指のアユ釣り場として知られる千種(ちくさ)川の支流・安室(やすむろ)川源流域の山間部にある赤穂郡上郡(かみごおり)町の小さな集落で生まれた。私が暮らしていた頃は行き止まりの集落で、県境を接する隣の岡山に行こうとした人が道に迷って上がってきて、よく道を尋ねられた記憶がある。いまは上流に安室ダムがあるので、オートキャンプをはじめドライブやツーリングのコースにもなっていて、岡山県側に抜けることができるようになった。

私が生まれた集落は現在(2024年2月時点)、7世帯、人口11人、平均年齢79.3歳の典型的な限界集落で、やがて消滅集落になる恐れがある。ドコモの携帯は通じるが、auやソフトバンクの携帯は通じない。私と妻はソフトバンクを使っているので帰省している間、実家では携帯は使えない。私はふだん、スマホはほとんど見ないし、現役の時は四六時中、電話で呼び出されるというストレスがあったので、実家にいる時は情報から隔絶されるので、むしろ気楽に感じている。

私は小学校当時、自宅から800メートルほどのところにあった分校で2年間を過ごし、3年から6年までは7キロほど離れた本校に通った。本校へは、自宅からほぼ中間点の約4キロ先にある集落まで自転車通学が認められていて、その集落のタバコ屋さんの軒下に自転車を置かせてもらい、そこから歩いて通学した。中学、高校は上郡にあり、どちらも片道12キロを自転車で通った。

当時は、タバコ屋さんのところから上流域はまだ防塵(ぼうじん)舗装すらされていなかったので、砂利道でパンクすることがあった。いつもサドルの下にパンクを修理する紙ヤスリやパッチ、ゴム糊(のり)などの小道具を入れておいて、パンクしたら近くの家にかけこんでバケツと空気入れを借りて、自分で修理をしていた。

毎日往復24キロ、単純計算すると3年間で2万6280キロ。高校も同じ町内にあったので、トータル5万2560キロ。赤道の長さがおよそ4万キロだから、中学高校の計6年間で地球をざっと1.3周した計算になる。

2014年の夏に帰省した折に自分が通った通学路が懐かしくなって、実家から上郡の町まで歩いて往復してみた。夜が明ける前に自宅を出ると、途中で山の中から「ケーン、ケーン」をいう鳴き声がして、それがシカの鳴き声であることを知った。

私が中学生だった頃、田んぼを荒らすのはたいがいイノシシで、ある秋の日暮れ時に自転車で帰っていると、分校のそばの坂道のところでイノシシに追いかけられたことがある。死にものぐるいでペダルをこいで、とっさの判断で脇の山道に入ったが、イノシシはそのまま直進し、難を逃れた。冗談のようなホントの話で、「猪突猛進」とはこのことか、とあとで思った。

23年11月に帰省した際、もう一度、実家から上郡の町まで歩いてみようと計画していたが、町の広報誌などでクマの目撃情報を知り、身の安全のために残念ながら断念した。

小学校の分校は1997年に休校、小学校の本校は2010年に閉校、中学は2009年に当時の場所から移転してしまったので、私が通っていた当時の分校、小中学校は今はない。

1976年に高校を卒業したが、大学受験に失敗して岡山の予備校の寮で1年間浪人生活を送り、翌77年に大学進学のため上京した。(以下、次回に続く)

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