п»ї 汎用人工知能の身体感覚『みんなで機械学習』第33回 | ニュース屋台村

汎用人工知能の身体感覚
『みんなで機械学習』第33回

1月 31日 2024年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニング®のビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

◆制作ノート

英国の経済学者エルンスト・シューマッハー(1911~1977年)の「スモール イズ ビューティフル」における中間技術の提案を、「みんなで機械学習」として実現するため、「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」という拙稿を連載している。今回からは、中小企業における機械学習のビジネス展開について、具体的ではあっても、個別で、まとまりのない話題を探訪してゆきたい。ビジネスの実務においては、もっと具体的で個別な話題を、数百、数千、積み重ねることをめざしている。「みんなで機械学習」の抽象的な意味での見通しは、ひと山越えたので、第5章のはじめにまとめた。最近注目されているAGI(Artificial General Intelligence;汎用人工知能)のひとつの可能性として、参考にしていただきたい。「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」は途中の画像以降なので、制作ノートに相当する前半部分は、飛ばし読みしてください。逆に言うと、制作ノートは形式にこだわっていないので、まとまりがないけれども読みやすいかもしれません。

「スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル」のゴールは、結論を論理的に構築することではなく、生活のライフサイクルにおいて、データの世界との共存・共生・共進化に希望を実感することにある。近代的なモノの価値に従属する経済から、コト(サービスなど)の意味を重要視する経済への移行を時代背景として、近未来のデータサイエンス テクノロジー アンド アート(データの世界)が、人類の文明論的な変革をもたらす夢物語を、少なくともディストピアとはしない、複数の探索路を切り開こうとしている。物語のゴールにおいては、意味が認知される以前の「データ」そのものが、みんなの機械学習によって、「言語」とは別の、文明の道具になるだろう。

◆データショービジネス

ファッションは、衣類と人びとを結び付けて、歴史的なシーンや流行(はや)りのモードなど、人びとの時代を印象づけている。ファッションショーに限らず、モーターショーなど、現在から近未来へと、商品と人びとを結び付けるショービジネスが、資本主義社会の「欲望」を刺激し続けてきた。「欲望」というとネガティブな印象があるかもしれない。「動機」「やる気」「活力」などに言い換えても似た意味になるし、哲学ではコナトゥス(羅:Conatus)という意味不明な議論が続いている。人びとを動かす内面的な力を仮定してもしなくても、商品と人びとを結び付ける「力」は確かに存在するし、ショービジネスによって、その「力」を人為的に増幅することもできるように見える。インターネットの時代では、インスタグラムなど、別の形で商品と人びとを結び付ける試みが行われている。ネット広告は、売り手と買い手の双方向の情報を使って、個人の好みに合わせた広告が可能になった。従来の、テレビ広告なの一方通行の広告よりも、効率が良いことは確かだろう。ネット上のショービジネスは、こま切れのエンターテインメントを取り込んで、商品と人びとを結び付ける「力」というよりも、商品と人びとを結び付ける「場」の「エネルギー」として、グローバル企業が、様々に工夫を重ねている。その工夫が、発明のレベルとなれば、ビジネス関連特許として、特許出願も可能だ。

ショービジネスに注目したのは、最近のAI(人工知能)ブームが、資本主義社会の最後の「欲望」であるかのように思えたからだ。現時点で、最大の「欲望」かもしれないけれども、あえて最後の「欲望」と言っているのは、AIの発展形としてのAGI(Artificial General Intelligence;汎用人工知能)を、10年後や20年後に実現する「欲望」が渦巻いているからだ。人びとの「欲望」は、AGIのショービジネスによって、メタバース(仮想空間)に取り込まれてしまい、AGIを実現する「欲望」が、資本主義社会の最後の「欲望」となる。生物が進化する原動力は、「欲望」だけなのだろうか。進化には退化も含まれるので、資本主義社会の最後の「欲望」が、人類を最終的に退化させてしまう可能性は否定できない。筆者としては、生物が進化する原動力は、生存するための「確率」であって、人間の言葉に翻訳すると、「冒険」だと考えている。AGIが資本主義社会の「冒険」であったとして、その冒険から、人びとはポスト資本主義社会を見いだすかもしれない。

◆人類の知能は、植物の叡知にはかなわない

筆者は、高次元の世界を「見る」ことができると信じていた。高校生の時に、中原佑介(1931~2011年)がコミッショナーであった「人間と物質」展(第10回東京ビエンナーレ、1970年)に感化され、『見ることの神話』(フィルムアート社、1985年)を愛読し、九州芸術工科大学へ学士入学しようとしたけれども、失敗した。自分を取り囲む平面画像の中に自分を位置づければ、高次元の世界を「見る」ことができると考えていた。現在のメタバース技術を、50年前に空想していた。学士入学に失敗したので、数理生物学の勉強をしようとしたけれども、そのような学科はなかった。植物生理の研究室で、培養細胞から個体を再生し、微生物との共生システムの実験を行っていたので、そのデータを解析したいと思い、研究室に受け入れてもらった。実験データのフーリエ変換を機械語でプログラミングするなど、それなりに役立ってはいたと思うけれども、まとまった研究をせずに卒業してしまった。筆者にとっては、動物でも植物でも、細胞でも個体でも、生物データとして同様に興味深かったのだけれども、社会では「医学」や「薬学」が役に立つ研究課題のようだった。パソコンが存在しなかった当時は、医学や薬学の研究で、数学やコンピューターを使うことはとてもまれで、筆者のような異端者は、国内と国外の医学部や病院で、サポートスタッフとして重宝された。給料は化学会社や製薬企業から支給されていたけれども、社内の仕事より、社外の仕事が多い「Travelling Researcher」と揶揄(やゆ)されていた。

個人的な失敗談を紹介した理由は、「人類の知能は、植物の叡知(えいち)にはかなわない」ということを言いたかっただけのことだ。人類の知能は、筆者の知能もその仲間として、その場しのぎのつぎはぎで、生活に役立てば、それ以上は空想であっても問題はない。進化論的には、植物は動物よりも「進化」した生物で、細胞に葉緑体を取り込んで、細胞内共生を実現している。窒素固定菌との共生も実現していて、植物と根菌のネットワークは、地球環境に適応しながら、地球の生命全体を支えている。筆者は「偶然」、植物生理を勉強し、生物統計学を専攻して製薬企業の研究者となった。現在でも、数理生物学への興味は続いていて、ウイルスの数理生物学を細々と勉強している。その間に、データサイエンスは花形職業となって、AIが株価を押し上げる最先端技術となった。そして、筆者自身の仕事として、個体差の機械学習、フェノラーニング®を推進しようとしているのだから、「偶然」としか言いようがない。それでも、偶然以外の要因があるとすれば、生命を数学的に理解したい、という「欲望」または「好奇心」なのかもしれない。植物のことも、ウイルスのことも、ほとんど理解できない人類が、AGI(汎用人工知能)を作ったとしても、人類もAGIも、たいした知能ではないことは確実だ。金魚の知能程度のことだろう(※参考:ソフトバンクの孫正義さんのプレゼン、https://liquid-sense.com/2023/10/06/son-chatgpt/)。

◆ライフサイクルからデータサイクルへ

現在の資本主義社会で「成功」するためには、「運」と「出生」が重要で、知能は無いよりも有ったほうが良い程度のものだろう。しかしそもそも、英国に産業革命をもたらしたのは、蒸気機関の発明だった。蒸気機関の原理は、科学革命におけるニュートン力学とは別系列の、物理学よりも化学に近い熱力学によって、ほぼ完全に理解しうる。カルノーサイクルという、熱機関のエネルギー効率を計算する方法も、蒸気機関とほぼ同時期に発見されている。ニュートン力学は、相対性理論を経て、量子力学へと、理論物理学の王道を歩んでいった。一方の、熱力学は、天才ボルツマン(※参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィッヒ・ボルツマン)によって統計力学との接点が開拓されたけれども、理論の整備は、21世紀の現在も進行中だ。生命活動の数理的な理解には、自由エネルギーの情報熱力学が、量子力学よりも重要になるはずだし、熱力学と量子力学が統合する未来の「力学」が見えてくるかもしれない。

熱機関の効率は、1回転するときの熱の出入りによって、理論的な上限がある。生物のライフサイクルは、日本語では生活環とか生活史として表現されている。ライフサイクルも、次世代を含めて1回転する状況を想定していて、「回る」ことの理解が基本になっている。ユークリッド幾何学やデカルト座標に慣れ親しんだ近代文明では、「回る」現象を数理として理解することがうまくできていない。筆者は経済学に疎(うと)いけれども、回る経済学の理論構成を知らない。「回る」ことがうまく理解できないので、持続可能な開発などという、ニュートン力学の慣性の法則のような、意味不明な概念に頼っている。熱力学の第1法則、「永久機関は実現できない」、は無視しうるほど脆弱(ぜいじゃく)な自然法則ではない。熱機関は回って、人や家畜の代わりに働く、労働力となった。AGIの知能について、金魚程度と揶揄したけれども、金魚程度でも、現在の資本主義社会では「大成功」する可能性を否定するものではない。産業革命に匹敵する、AI革命となる可能性も大いにある。AI技術自体は回らないので、データが回る「データサイクル」という技術思想について考えてみたい。

現在のAI技術は、覇権国家や巨大企業によって独占されたデータを使って実現されている。独占されたデータは回らない。データを回すためには、ライフサイクルを見習って、データの種をまくこと、データの種が生育する環境を整える(耕す)こと、データを収穫して、その一部を次世代の種として保存することを、自覚的に行う必要がある。最初のうちは、うまくいかないかもしれないけれども、肥沃(ひよく)なデータを独占するデータの狩猟採取よりも、環境の変化に柔軟に対応できるデータサイクルが、産業技術として生き残る確率が高い。筆者のような、古いデータベース主義者は、データにはデータ型が定義されていないと気持ち悪い。文章のような、非定型なデータによって、巨大なデータベースが作られる時代になったけれども、その基本的な語録は、単語を分割した言語的意味の最小単位のようなサブワードによって、超高次元ベクトルで表現されている。単語の意味をスペクトル分解しているイメージだ。関数をスペクトル分解するフーリエ変換の場合、関数を無限次元ベクトルで表現している。フーリエ変換の基底となる関数は三角関数(サインとコサイン)なので、ほぼすべての関数が、三角関数のように回り始める(関数環として代数学的に厳密に定義される)。数万次元のサブワードを、ほぼ無限次元のようなものだと考えれば、非定型な言語データが回り始める(言語環の構造が見えてくるかもしれない)。

◆省エネルギー産業福祉社会

米国のAI革命が実現したとしても、英国の産業革命が、大英帝国の終わりの始まりであったように、覇権国家としての米国や、独占的なグローバル企業が、主役であり続けるとは限らない。産業技術に国境はないし、新しい産業技術は、新しい社会で開花する。現在の資本主義社会は、産業革命によって開花した古い社会と見なされるだろう。AI革命が、本当に革命的であれば、現在の資本主義社会が抱える不治の病、自然環境の破壊と過剰な経済格差を乗り越えてゆくはずだ。自然環境の破壊と過剰な経済格差を解決するために、ひとつの正解はありえない。おそらく、10000以上の対策を試みて、成功確率は1%以下だと思われる。その意味でも、現在の原子力発電は、正解でも不正解でもなく、ただ単に古い社会の古い技術と見なされるだろう。原子力発電も蒸気機関であって、カルノーサイクルの限界は超えられない。

省エネ技術は、従来エネルギーを使っていた過剰なサービスを不要なものとするか、必要なサービスであれば、エネルギー効率を良くするしか方法は無い。エネルギー効率には、エネルギーの生産から消費までの、全体の効率が関与する。エネルギー産業において、国策には依存せずに、現在の技術によるエネルギー効率と、原理的な限界を、産業技術の立場から、正確に議論してもらいたい。AI技術には、資本主義社会の最後の欲望として、過剰なサービスを削減する効果に期待したい。そもそも、エネルギーに関する正確な知識として、仕事に変換できる自由エネルギーと、情報エントロピーの関係について、具体的な産業活動の中で議論してゆきたい。炭酸ガスの削減効果のような、政治的な議論、もしくは経済的なディールの入り込む余地がない、厳密な科学的な議論を期待している。そうはいっても、非平衡統計力学、もしくは情報熱力学の理論は発展途上で、産業活動に応用するのには、人びとの知能ではなく、AGIの活用に期待することになりそうだ。単純に言って、過剰なサービスを不要なものとする省エネ技術として、産業活動にAGIを応用する可能性に期待している。

過剰なサービスを不要なものとする省エネ技術として、福祉活動にAGIを応用する可能性は膨大だと思われる。過剰な福祉が行われているという意味ではなく、福祉活動を管理する、予算を確保するなどの間接業務や、相談窓口など福祉サービスの入り口での適切なナビゲーションなど、福祉活動においてAGIが得意とする業務は多数見いだされる。一方で、必要なサービスを効率よく提供するために、ロボットの利用などが工夫されているけれども、受益者自身によるセルフサービスの可能性も大きい。筆者としては、教育や医療も含めて、広い意味での福祉活動が、国家資格や国家予算によって運営される旧来の社会システム全般を、AGIは変革すると考えている。福祉活動に使っても「安全」なAGIであることを、国家が保障すれば、その他すべての国家資格が不要になるかもしれない。筆者としては、このように強いAGIが実現されることを信じているけれども、法治国家が適切に運用されるためには、司法と立法の専門家(報道関係者やオンブスマンなども含めて)はAGIではなく、AGI技術に依存しない独立した人格であるべきだと思う。国家の運営には省エネ技術は不必要だし、法人格からも独立した個人が主体的に関与することで、本当の意味での責任ある行動となるはずだ。

AGIが何年後にどのような形で実現されるのかは別問題として、資本主義の最後の欲望が、人類の最後にならないように、AGIが実現された後の社会について考えてみた。革命的な変化においては、今日の欲望ではなく、希望が未来につながってゆく。

◆アルゴリズム+データ構造=プログラム

社会の問題を、政治や経済の問題から区別すると、おそらく最大の問題は「家族」の姿が、社会システムで想定されている過去の家族像から大きく定離(じょうり)して、急速に変化して多様化していることだろう。未婚の一人暮らしが増えていたり、同性婚が認められたり、家族制度としての問題だけではなく、ひきこもりのように、家族以外の人間関係を望まない場合や、難民や移民として、社会問題が家族関係を破壊する場合など、社会の足場が根底から崩壊しつつある。家族の問題に、AIや機械学習が無縁であったり、無力であるとは限らない。社会的な人間関係よりも、仮想現実(メタバース)における仮想的な人間関係のほうが心地よいかもしれない。前稿では、筆者の哲学的な立ち位置を「小さなプラグマティズム」と記載した。もっとも簡潔にその立場を説明すると、哲学として抽象的な概念を議論するのではなく、「動詞」を哲学することにある。「家族」の問題を考えるのではなく、家族になることや、家族の問題を乗り越えること、もしくは家族ではなくなることについて、ラディカルに考える。多くの場合、家族の一員として生まれてきて、個人として死んでゆく(おらおらでひとりいぐも)。個人として死ぬのが一度目の死で、個人を「知っている」人びとが死ぬのが二度目の死だ。二度目は社会的に(例えば家族として)死ぬ。芸術家の場合、二度目は作品の死だけれども、作品は死なないと信じている芸術家が多い。生死の問題は「小さなプラグマティズム」には大きすぎるかもしれない。「動詞」を哲学すると、話が大きくなりやすいので気をつけよう。

筆者は、大学生の時から、コンピューターと共に生きてきた。パソコンがない時代から、コンピューターを使うことで、給与を得て生活してきた。最も影響された一冊の本を選ぶとすれば、『アルゴリズム+データ構造=プログラム PASCAL』(Niklaus Wirth、日本コンピュータ協会、1979年)だ。当時のFORTRANなどのコンピュータープログラムは、機械的な命令の連鎖でしかないのに、PASCALのコンパイラー(機械語への翻訳プログラム)をPASCAL言語で記載するという、画期的な内容で、データ構造の重要性が良く理解できた。プログラム作成の実務としては、ボーランド社のTurbo PASCAL(※参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/Turbo_Pascal)が画期的だった。表計算プログラムのソースコードがついてきた。プログラム作成をプログラミングと動詞で記載するようになり、プログラミング環境とプログラミングは、名詞と動詞の関係にあることがよくわかった。名詞は複雑だけれども、動詞が主役なのだ。

AIがもてはやされる45年後の現在から再考すると、「予測するxデータ化する=機械学習する」といった感じだろうか。アルゴリズムとしては「予測」に集中して、データ構造は予測しながら発見する手順を、ぐるぐると回す。PASCALの時代から、ずいぶん遠くまできてしまった。後戻りはできないので、もう少し頑張ってみよう。

早朝の公園のトイレでランダムに点滅するLED  筆者撮影  2024年1月2日

 

『スモール ランダムパターンズ アー ビューティフル』

1   はじめに; 千個の難題と、千×千×千×千(ビリオン)個の可能性

1.1 個体差すなわち個体内変動と個体間変動が交絡した状態

1.2 組織の集合知は機械学習できるのか

1.3      私たちは機械から学習できるのか

2   データにとっての技術と自然

2.1 アートからテクノロジーヘ

2.2 テクノロジーからサイエンス アンド テクノロジーへ

2.3 データサイエンス テクノロジー アンド アート

2.4 データサイクル

2.5 データベクトル

2.6 局所かつ周辺のベクトル場としてのデータとシミュレーション

3  機械学習の学習

3.1 解析用データベース

3.2 先回りした機械学習

3.3 職業からの自由と社会

3.4 認知機能の機械学習とデジタルセラピューティクス(DTx)

3.5 学習は境界領域の積分的探索-ニッチ&エッジの学習理論

3.6 機械学習との学習

4  機械学習との共存・共生・共進化-まばらでゆらぐ多様性

4.1 生活と経済の不確実性

4.2 生活と経済に関連する技術は、何を表現しているのか

4.3 スモール データ アプローチ-個体差のまばらでゆらぐ多様性

4.4 まばらでゆらぐ多様性の過去・現在・未来

4.5 生活の不確実性を予測する

4.6 弱い最適化脆弱性/反脆弱性からのスタート

4.7 ひとつのビッグ予測、たくさんのスモール適応(前稿)

5  自発的な小組織(seif-motivated small organizations)(本稿)

5.1 社会、地域、家族 vs. 国家、企業(本稿)

第5章「自発的な小組織」の各論に入る前に、本稿で考究した「個体差の機械学習」フェノラーニング®が、最近話題になっているAGI(Artificial General Intelligence;汎用人工知能)の可能性について、どのような立ち位置にあるのか、図示してみたい。

筆者としては、個体差のないAGIは独裁AGIで、危険すぎると考えている。独裁AGIは、経済力で、全人類を支配するだろう。個体差があるAGIであっても、50年以内の近未来では、意識をもったAGIとはならないはずなので、個別の得意分野に特化した、現在のAIの技術的な延長上でしかない。意識の研究は、大脳生理学としても、病気の治療としても、重要な研究課題で、大きな進展を期待してはいるけれども、安易な人工意識の技術的な課題だけが先行することには危惧(きぐ)している。カール・マルクス(1818~1883年)が危惧した独占資本主義は、覇権国家による経済の独占であっても、巨大グローバル企業による市場の独占であっても、金融資本主義における規制と調整によって、難局を乗り切ってきた。しかし、覇権国家や独占的なグローバル企業による独裁AGIが実現すれば、それは本当の独占資本主義として、人類の未来を破壊するだろう。当然、独裁AGIも、規制や調整の対象になるけれども、スピード競争において、民主主義的な社会や人びとには、勝ち目がなさそうだ。個体差があるAGIを開発して、多面的な先回りによって、独裁AGIを封じ込める作戦を提唱したい。

自発的な小組織(seif-motivated small organizations)は、筆者の造語であって、社会学の専門家によって検討された内容ではない。技術的な自律的(autonomous)とか自己組織化(self-organized)とは多少意味が異なり、主体的(independent)とか自主的(voluntary)に近い感じであっても、個人のレベルではなく、小組織のレベルでの最小限の組織原理を考えている。動詞としての家族をイメージしていて、政略結婚でない限り、自発的に家族になり、自発的に家族の一員としての役割を発見する。昭和の会社は、家族経営といわれていたことがあり、筆者にも経験がある。会社が従業員の生活の面倒を見ながら、従業員の長期的な成長を期待する、という経営モデルだった。昭和の家族構成はステレオタイプで、自然でも自発的でもなかった。従って、家族経営の会社も、自発的ではなく、経済の自然な成長(外的要因)に依存していて、逆境や変化には弱かった。自発的な小組織(seif-motivated small organizations)は、「みんなで機械学習」する中小企業の経営論で、スポーツ科学を自発的に使うサッカーチームに近いかもしれない。

資本主義社会の主要なプレーヤーは企業であって、株式市場がメインスタジアムだ。中小企業の場合は、大企業の傘下で株式市場につながったり、地域社会や業種別のサービス市場や商品市場につながって、資本主義社会のエコシステムを形成している。金融業が資本主義エコシステムの温度調整役のはずだけれども、温度調整は必ずしもうまくいっていない。情報熱力学を経済学に応用する研究に期待したい。米国ドルが世界の基軸通貨だった時代は遠い昔で、世界の為替相場は複雑な多体問題になっている。多体問題ではあっても、単純な統計処理ができるアボガドロ数の世界(6.02214076×1023 mol−1)には程遠い。地球上のすべての企業の数を考えても、それぞれの企業の個体差と企業間の相互作用を無視できるとは思えないので、抽象的な経済学だけでは経済活動を理解できず、個別の企業の経営論が不可欠になる。経営論は、企業の経営者が、それぞれのビジネス環境において、ビジネス哲学を実践した結果の解釈だった。過去形としたのは、機械学習する経営論の場合は、結果だけではなく、シミュレーションによる予測が可能になると考えているからだ。天気予報を見て外出するようなもので、長期経済予報はあまりあてにならないけれども、短期経営予測は正確になりうる。

機械学習する経営論は、経済環境の予測に限らない。地域社会や業種別のリスク管理は最重要な経営課題になる。業務の品質管理も、リスク管理の重要課題だ。どのような経営課題があるのか、そのリストを作る(課題を発見する)のは人間の役割であって、経営者だけではなく、従業員や地域住民も含めて、できるだけ包括的に、周辺を徹底的(網羅的)に調査(データ化)したい。現在は、大きい経営資源を活用できる大企業のほうが、中小企業よりも経営効率が良い。しかし、創造性や顧客からの信頼など、企業文化が問題となると、必ずしも大企業が有利ではない。企業文化というと抽象的すぎるので、経営にとって有益な個性と考えるほうが良いだろう。経営にとって不利な個性は、組織の病気や組織犯罪の話になるので、別に考えたい。経営に透明性が求められる場合は、企業文化も企業の外からの視点が不可欠になる。経営にとって有益な個性は、企業の身体にとって、皮膚感覚としてとらえられる。外交上手な企業が必ずしも望ましい企業像ではないかもしれないけれども、筋肉を競うスポーツ型の企業だけではなく、演劇やショービジネスを得意とする企業もありうるだろう。

個体差を機械学習する経営論にとって、組織の身体性は比喩(ひゆ)以上に重要な視点だ。筆者は、小さい組織や小さい技術、小さい哲学など、小さいことが有利な理由として、多数の試みを同時に実行できることに言及してきた。しかし、ひとつの中小企業が、大企業よりも有利な理由にはなっていない。小さい組織の身体感覚は、大きい組織の身体感覚よりも優れている場合が多いことに気がついた。大企業の経営においては、経済的なパフォーマンスが重視されるので、経営者の頭脳(知能だけではなく感覚や感情も含めて)に依存している。中小企業の経営においては、頭脳だけではなく、全身の感覚が重要になる。すなわち、中小企業の経営は、本質的に多様性があり、しかも健康志向になる。大脳機能の一部でAGIを使い、事業の運動能力や消化能力では機械によるオートメーションを活用する近未来の企業は、経営者が組織の周辺まで身体感覚を研ぎ澄ませて、組織が健康であることを意識する。そのような近未来の企業では、小さい企業のほうが、頭でっかちの大企業よりも、環境の変化に適応しやすく、社会的信用を得やすいだろう。

経営論の立場から、機械学習する企業について考えてみた。おそらく、国家においても似た状況で、地方自治体などの小さい組織のほうが、機械学習による変革に適応しやすいだろう。企業の場合は、サービス産業として福祉ビジネスを取り込んでいるけれども、国家や地方自治体における福祉は、単純にサービス産業としては割り切れない。採算性の問題よりも、国民や住民の納得感や感謝の気持ちなどの、サービスの受け手による評価が重要になる。双方向コミュニケーションが可能になったSNS(Social Network System)の時代では、産業としても顧客視点は重要性が増している。顧客の場合は、サービスを選択できるけれども、国民や住民としては、選択肢が限定されているので、教育や医療も含めた広い意味での社会福祉にとって、国民や住民からのフィードバックは重要だ。政治のように、選挙の時だけのフィードバックでは不十分だろう。筆者は英国で生活していた時、感謝の気持ちで病院に寄付したら、同額が政府から助成された。個人の所得税からも寄付を控除された。日本でも「ふるさと納税」のような、寄付に政府からの助成と税金控除を組み合わせたシステムがある。機械学習する社会システムとして、より広範囲に納税システムを活用して、国民や住民からのフィードバックを、行政サービスに生かしてもらいたい。

最後に、機械学習する家族について、夢想してみたい。家族像がどのように変化しても、社会の最小単位としては、家族が無くなることは無いだろう。物質的もしくは身体的な生活において、衣食住を共有するライフサイクルとしての家族に加えて、人間関係(仮想空間も含めて)としての生活の次元を追加する場合、筆者はあまり根拠もなく、手がかりとして波風雲のイメージで考えるようにしている。近未来の機械学習と共存・共生・共進化する家族にとって、もしくは社会の最小単位となる自発的な小組織において、波風雲は何を意味するのだろうか。筆者としては、宗教のような、大きな哲学を背景とする人間関係としての家族像ではなく、それでも西欧的な行き過ぎた個人主義とは別の、小さな人間関係としての家族像を模索している。生き物の居場所は、昆虫類や比較的高等な動物では、天敵不在空間と繁殖干渉によって決まるそうだ『生き物の「居場所」はどう決まるか-攻める、逃げる、生き残るためのすごい知恵』(大崎直太、中公新書2788、2024年)。繁殖干渉は種間の雑種の問題だし、天敵とは言っても、人間の人間関係における天敵とは、意味が全く異なる。それでも、人生の波風を乗り越える、または波風の防波堤としての家族関係は、「居場所」を共にする重要な要因と思われる。ここで想定している人生の波風は、健康問題や、経済的貧困であって、どちらが波で、どちらが風かは考えていない。機械学習によって、健康問題や経済的貧困のリスクが、予測可能で公的な支援が期待できるのであれば、別の問題になる。人間が作り出した生活のリスクは、人間が解決できるとしても、仕事をしないで生きてゆく時代『WORLD WITHOUT WORK-AI時代の「大きな政府」論』(ダニエル・サスキンド、みすず書房、2022年)において、どのように家族になり、どのように家族の一員としての役割を発見するのだろうか。筆者としては、食からの新展開が居場所にも波及して、波風雲につながるのではないかと考えている。自然が作り出す生活のリスクは、人間やAGIには容易に解決できないので、植物やウイルスから機械学習して、したたかに生きてゆくことになりそうだ。AGIが実現できても、小さな家族は、健康志向でしたたか(反脆弱性)なのだから、小さなAGIをうまく使って、料理などを楽しみながら、生活することに変わりはなさそうだ。

◆次回以降の予定

5.2 組織は組織でできている組織サイクル

5.3 機械学習する組織

5.4 CAPDサイクル

5.5 ビジネス表現(3×3 table)

5.6 組織の周辺積分的思考

5.7 データサービス商品を創出する知的自由エネルギー産業

6  おわりに;生活と社会のビューティフル ランダム パターンズ

(中里斉 モナド; Hitoshi Nakazato, Monado)

6.1 ほとんど色即是空・空即是色な世界

6.2 観測できないブラックホールは実在する?

6.3 データ化する私(datanize me)

6.4 延長されたフェノラーニング®

作家は2度死ぬ、作品は死なない

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『みんなで機械学習』は中小企業のビジネスに役立つデータ解析を、みんなと学習します。技術的な内容は、「ニュース屋台村」にはコメントしないでください。「株式会社ふぇの」で、フェノラーニング®を実装する試みを開始しました(yukiharu.yamaguchi$$$phenolearning.com)。

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