古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆はじめに
前稿では、米国の文化人類学者デヴィッド・グレーバーが、『負債論――貨幣と暴力の5000年』で示す「貨幣とは何か」に関する論考を以下のように整理した。
①貨幣の誕生は、古代メソポタミアの神殿経済が、管理のための計算単位としての貨幣を要請した結果である。歴史上、貨幣の最初のかたちは計算単位(信用貨幣)であった
②基盤的コミュニズム(互助関係)における貸し借りは、数量化(貨幣化)されることで信用・負債関係に転化した。貨幣の本質は、人間の「債権・債務関係の記録(信用・負債)」である
③貨幣は暴力性を内包する。負債の増殖による共同体の崩壊防止のための(信用システム上の)歯止め(徳政令など)を必要とした。戦争のための鋳造(ちゅうぞう)貨幣(硬貨)の誕生によって貨幣の暴力性は飛躍的に高まった
本稿の目的は、上記①〜③を次稿の経済学の視点からの考察につなげることにある。そこで貨幣論と関係すると思われる論点を抽出した。
①では、貨幣の起源を物々交換ではなく信用に求めている。すなわち、経済学の通説とされる「物々交換」は否定される。本書では物々交換起源説を、歴史的、実証的、論理的に否定しており、検討したい。(→論点1)
②は、貨幣の本質は、人間の「債権・債務関係の記録」であるという主張である。貨幣は、人間の社会的関係から生起したという本書の核となる考え方について検討したい。(→論点2)
③の貨幣の暴力性については、貨幣と国家権力の結びつきに焦点を当てたい。グレーバーは、国家への義務(「税」など)を正当化する「原初的負債(人は生まれながらに社会に負債を負っているという道徳観)」論を批判しており、検討したい。(→論点3)
◆論点1:「物々交換」の否定
⚫️物々交換仮説
グレーバーは、経済学者の「物々交換」についての一般的な説明は、次のようなロジックで行われるのが常だと指摘する。
①まず、「貨幣のない世界(物々交換の経済)」を想定する
②次に、「物々交換経済では、欲しいものを持っている相手が、同時に自分が持っているものを欲していなければ交換ができない」と指摘する。これを「欲望の二重の一致の困難」と呼ぶ
③そこで、「不便を解消するために、誰もが欲しがる“特定の商品”が交換の媒介として使われるようになった」と説明する
これは、アダム・スミス以来の貨幣の起源に関する物々交換仮説である。物々交換においては、市場の多くの商品の中から“特定の商品”(金や銀などの貴金属)が自然に選び出されたと説明される。貨幣はそれ自体に価値を持つ商品(モノ)から生まれたので、こうした貨幣観を「商品貨幣説」と呼ぶ。
商品貨幣説では、貴金属でできた鋳造貨幣から、現在の預金貨幣などの信用貨幣に発達したと説明されるので、グレーバーは「barter(物々交換)→money(貨幣)→credit(信用)」説と表現している。後述するように、グレーバーはこの順序が全く逆で、「credit(信用)→money(貨幣)→barter(後発的な意味での物々交換)」なのだと主張する。
物々交換仮説は広く一般に浸透して通説となっており、貨幣の歴史=鋳造貨幣(硬貨)の歴史というのが現在の一般的な認識となっている。
グレーバーは、この物々交換起源説を、「物々交換の神話」と呼び、考古学、歴史学、人類学のこれまでの研究実績に基づいて、歴史的、実証的、論理的に否定するのである。
⚫️歴史的見地からの否定
グレーバーは、約5000年前の古代メソポタミアの遺跡から発掘された大量の粘土板に記録されていたのは、当時の神殿経済における財産管理のための会計記録(信用による貸借、神殿による支給の配分、神殿領地の地代、穀物と銀それぞれの価格など)であったことを示す。
こうした行政的な管理には数字、文字の発明は不可欠の要素であるが、計算単位としての貨幣の存在も同じくらい重要だと思われる。計算貨幣がなければ会計管理は不可能だからだ。当時は、銀と麦などの間に固定した等価を設定することで、計算貨幣を創造していた。銀貨は存在せず、銀ならばいくらという「価値の尺度=計算の単位」として用いられていたのである。貨幣は文明の始まりとともに信用貨幣として誕生したのである。
実物の貨幣として鋳造貨幣(硬貨)が出現したのは、古代メソポタミアより約3000年近く後のことである(*注1)。歴史的には「credit(信用)」が大きく先行しているのは明らかだ。
なお、グレーバーは、物々交換という行為そのものを否定しているわけではない。見知らぬ者同士や敵対関係にある者同士の関係においては、儀式の舞台としての物々交換はあったとして、人類学のフィールドワークにおける未開部族の贈与交換(見返りを求めることなく物やサービスをやり取りする行為)の例(*注2)を挙げている。
また、グレーバーは、物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代において初めてであることを指摘し、そう考えるには正当な理由があるとする。
すなわち、物々交換が起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、何らかの理由でそれをふんだんに持ち合わせていない人たちの間においてなのだ。物々交換のシステムが出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときであるとして、1990年代のロシア、2002年のアルゼンチンを例として挙げる。
また、捕虜収容所や刑務所では囚人たちがタバコを貨幣のように使うことが知られている。貨幣を使いながら育ったにも関わらず、今やそれがなしでやりくりしなければならない人々なのである。いわば物々交換の「後発的な発生」の例である。
⚫️実証的見地からの否定
物証やデータ、すなわち、考古学的な発見、人類学のフィールドワークなど実証的な見地からは、物々交換社会の実例は見つかっていない。本書では――「物々交換経済について純粋で単純な事例が記述されたことなどない。物々交換からの貨幣の発生についてはなおさらである。入手可能なあらゆる民族誌が、そんなものは存在していなかったことを示している」――と結論している。
グレーバーは、アダム・スミスによる貨幣の起源の物語を、「神話」と呼ぶのは、「実際に起こったことではなく、あくまでも想像上の実験として提示されている」ためである。歴史上、物々交換社会の実例が発見されていないために「空想世界」から始めざるを得なかったと言うのである。
⚫️論理的見地からの否定
アダム・スミスが唱えた「お互いが欲しいものを同時にもっていなければ(欲望の二重の一致がなければ)取引できないという不便さ」は、頭の中の論理としては理解できる。なんとなくわかったような気になるが、よく考えてみると、近隣住民同士の間で、欲望の二重の一致が成立する可能性は極めて低いことは容易に想像できる。
むしろ、グレーバーが言うように、コミュニティー内の貸し借りを記憶し合う関係にある人間の間では、誰かが何かを必要とした時は、物々交換ではなく、貸し(信用)と借り(負債)の関係が成立すると考える方が、より現実的であり、論理的妥当性が高いと思われる。
◆論点2:貨幣の本質は人間の「債権・債務関係の記録」
⚫️貨幣は「負債の記録」と言う理解が意味するもの
グレーバーは、貨幣の本質を「負債の記録」だと言う。彼が、本書を貨幣論ではなく、負債論と名付けた理由はここにあると思われる。貨幣とは、単なる交換のための「モノ」ではなく、人間と人間の間に結ばれた「債権・債務関係」から生まれたという理解が重要である。
グレーバーは、人間の社会的関係は基盤的コミュニズム(互助関係)の上に成立していると考える。コミュニティーにおける人間関係の多くは「貸し・借り」によって成り立っている。こうした貸し(権利)と借り(義務)は、履行期限はないが、可能なときにお返しをするという暗黙の了解がコミュニティーの成員に共有されている状態にある。
この「義務」が、余剰生産物の増加と格差の拡大を背景に、やがて数量化されるようになると「負債」となる。負債と義務の違いは、負債が厳密に数量化できることである。数量化のために貨幣を要請するのである。「貸し」と「借り」は「信用」と「負債」に転化する。
人間が社会生活を営むためには、他の人々との間にさまざまな債権・債務関係を結ばざるを得ない。それは古代メソポタミアの農民であれ、現代の会社員であれ同じである。そうした関係が貨幣で換算されるということは、人間関係が数量化されることを意味するとグレーバーは考える。
ここで重要なのは、(アダム・スミスが主張する)貨幣が交換を容易にするための中立的な道具としてではなく、人間関係を数値化し、比較可能にする社会的な装置として理解されている点である。
⚫️鋳造貨幣の誕生と国家の暴力
貨幣の介在によって、人間の価値が数字で測定されるようになると、人間社会に破壊や変容をもたらす。そこには「暴力」が深く関わっているとグレーバーは指摘する。戦争や奴隷制(国家の暴力)によって、人間が本来持っていたコミュニティーや家族との人間関係から無理やり引き離されるからである。
その大きな契機となるのは、鋳造貨幣(硬貨)の誕生である。グレーバーは、歴史上硬貨は、国家が兵士に給与を支払い、民衆に「税」という負債を強制する手段として発展した(国家による暴力)と指摘する。
ここでは貨幣(硬貨)は国家によってつくられたと解釈される。そして貨幣は人間関係から生まれ、人間関係を数量化する一種の装置として捉えられている。
◆論点3:「原初的負債」への批判的視点
⚫️「原初的負債」神話とは何か
貨幣の起源に関して3つの仮説がある。今後の議論のために簡単に整理しておきたい。まず、グレーバーが推す信用貨幣説(貨幣は債権・債務関係から生成)、アダム・スミス以来の商品貨幣説(貨幣は商品から生成)、そして国家貨幣説(貨幣は国家がつくった)である。
国家貨幣説においては、国家は市場を創設するために「税」という負債を民衆に要求すると考える。グレーバーは、この仮説の弱点は、「(国家は)いかなる権利において」(税を)課すことができるのか、への答えとなる有力な「物語」がないことであったと指摘する。そこでこの仮説の支持者たちが注目したのは、現代フランスのラディカル経済学派(*注3)による「原初的負債」論であったとしている。
グレーバーは、次のように説明する――人は社会に生まれた時点で負債を負う→しかしそれは返済不可能である→だから国家や神への義務(税、犠牲)が正当化される――。原初的負債を「返せない負債を設定することで、永続的な服従を正当化する」と批判的に論じている。なお、グレーバーの批判は国家貨幣説そのものではなく、そのイデオロギー的説明に向けられている。
グレーバーは本書の冒頭で、「本書は一連(2つ)の神話に穴を穿(うが)つことから始まる」と宣言している。一つは、すでに見た「物々交換」の神話である。もう一つが「神々や国家への原初的負債」神話である。前者は、(貨幣を生み出した)市場の論理の優位の根拠となっている。後者は、(貨幣をつくりだす)国家の論理の優位をイデオロギー面から担保している。
両者は、対立的関係にあるとみなされている。しかしグレーバーは、「市場が先か国家が先か」という議論に与(くみ)しない。「国家は市場を創造する。市場は国家を必要とする。どちらも互いなくしては存続し得ない」という立場である。すなわち、市場中心主義を批判するとともに、国家の役割の重視にも慎重な姿勢を崩していない。
⚫️原初的負債論とナショナリズム
グレーバーはまた、原初的負債論の中に「究極のナショナリズム神話を見てとることさえできる」と述べている。確かに原初的負債論は、ナショナリズムにも展開可能であると思われる。グレーバーは、「祖国への恩」「国のために払う税」は、原初的負債の世俗版であり、「国家神話」だとして批判的に捉えている。貨幣論における国家貨幣説の拡大的解釈に対する警句として受け止めたい。
◆まとめ
グレーバーの議論は以下のように整理できる。
(1)貨幣の起源を物々交換ではなく信用に求める。物々交換説を歴史的、実証的、論理的に否定する。
(2)貨幣を単なる交換手段ではなく、社会的負債関係の記録として理解する。貨幣の本質は「負債(の記録)」にある。
(3)その負債関係が政治権力と結びつくことで支配の道具にもなりうる。
ここまでの論考を通じて、貨幣の起源として3つの説が登場した。それは「信用」、「商品」、「国家」であり、経済学では、それぞれ「信用貨幣説」、「商品貨幣説」、「国家貨幣説」として議論される。
グレーバーは、信用貨幣説の立場から商品貨幣説を批判する。しかし信用貨幣説だけで貨幣制度を説明できるわけではない。国家は貨幣制度の中でどのような役割を果たしているのかという考察が必要である。こうした点を含め、次稿では、3つの貨幣説を経済学の視点から比較しながら「貨幣とは何か」を検討したい。
〈参考書籍〉
『負債論――貨幣と暴力の5000年』(デヴィッド・グレーバー、以文社、2016年11月初版、原著“DEBT:THE FIRST 5,000 YEARS”2011年初版)
(*注1)現在確認されている世界最古の硬貨は、紀元前7世紀に小アジアのリディア王国(現在のトルコ西部)で発行された「エレクトロン貨」である。
(*注2)グレーバーは「ふつう物々交換が起きるとすればそれはよそ者同士の間においてであった。敵同士の間ですら例外ではない。」としてブラジルのナンビクラワ族の例(その贈与交換は、単なる物の売り買いではなく、集団間の対立を防ぎ、社会的なつながりを作るための平和外交の手段)、オーストラリアの西アーネムランドのグヌィング族(「遅延的互酬」と呼ばれる独自の贈与交換システム。これは互いの絆〈きずな〉を保つために義務的な返礼を伴う社会的・宗教的な儀礼)などを挙げている。
(*注3)レギュラシオン学派(レギュラシオン理論):1970年代のフランスで誕生したマルクス経済学や制度学派の流れをくむ経済学の潮流。資本主義経済が外的ショックや危機に直面した際、国家、労働市場、企業などの制度がどのように変化し、経済全体のバランス(調整=レギュラシオン)を保ちながら歴史的に発展していくかを解明しようとする。(出所:コトバンク>ブリタニカ国際大百科事典)











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