п»ї ふるさとの景色の先に広がる大きな世界So far so good(4)『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第13回 | ニュース屋台村

ふるさとの景色の先に広がる大きな世界
So far so good(4)
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第13回

3月 13日 2024年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

◆サツ回りで鍛えられる

1987年に本社に異動し、1991年まで社会部に在籍した。社会部の4年間のうち3年間は桜田門にある警視庁での警察取材、いわゆる「サツ回り」で、記者として鍛えられた。

北海道、京都・大阪の2府、そして43の県の場合、警察組織を統括するのは「警察本部」でそのトップは「警察本部長」だが、東京都の場合、統括するのは「警視庁」で、トップは「警視総監」。サツ回りは社会部取材の原点ともいわれるが正直、もう二度とやりたくない過酷な経験だった。

マスコミの業界用語で、他の社に先駆けて1社だけがスクープすることを「特ダネ」と言う。逆に、全社が報じているのに1社だけ抜け落ちて報じていないことを「特オチ」と言う。記者として最も不名誉なことで、私は何度も「特オチ」を経験した。

甲子園のマウンドに素っ裸で立たされるような大恥である。警視庁のすぐそばに皇居のお堀があって、春の桜の満開時期、お堀周辺は身動きが取れないほど花見客で混雑する。桜が散り始めるころになると、お堀には桜の花びらが浮かんでピンクのじゅうたんを敷き詰めたように、それはそれはとてもきれいなのだが、私は「特オチ」をした時、お堀の中をボートで漕いでいって飛び込んでしまいたいという衝動にかられたことが何度もある。

警視庁の階に記者クラブがある。首都警察の取材のいわば総本山。警視庁の組織を説明すると、警視庁の下に第1方面から第10方面まで10の「方面本部」があり、さらにその下に102の警察署がある。私は最初の1年間は第4方面本部と第5方面本部を担当。第4方面は新宿警察署、第5方面は池袋警察署に記者クラブがあって、そこを拠点にそれぞれの方面の管轄下にある警察各署を毎日取材して回った。

2年目の半年間は第1方面を担当し、皇居の正面にある丸の内警察署の記者クラブ詰めになった。丸の内署は10ある方面本部のいわば「扇の要」で、方面回りの記者にとってはスゴロクでいうと、警視庁詰め記者になるための最後の関門。私は都合1年半、方面回りをしたあと警視庁詰めになった。

◆「調査報道」の裏に「たれ込み」

警視庁詰めの記者は一課担当、二課担当、防犯担当、公安担当というように取材対象の担当が決まっていて、殺人、強盗、強姦、放火など凶悪犯罪や盗みは「一課担」、汚職とか詐欺とかの知能犯の取材は「二課担」。私は右翼や左翼、スパイ、北朝鮮や中国、ソ連(当時)が絡む外事事件を扱う「公安・警備」担当だった。

当時はバブル経済が弾ける前だったのでどの社もカネ回りがよく、夜は黒塗りのハイヤーに乗ってサツ回りをしたり、警察官が自宅に帰る時間を見計らって玄関先で待ち受けたりした。これを「夜討ち」あるいは「夜回り」と言い、また早朝、警察官が出勤する前に自宅の玄関先で待ち構えていて最寄りの駅までいっしょに歩きながら話を聞く「朝駆け」もした。

当時私は新宿区市ヶ谷の社宅に住んでいたが、大きな事件があったりすると自宅で寝る時間はなく、たいがい「夜討ち・朝駆け」の車の中か記者クラブのベッドで寝ていた。サツ回りはとにかく体力が必要なので、若い時しかできない。超過勤務は青天井で、月に優に100時間は超えていた。

「特オチ」の記憶しかない私が言うのも負け惜しみのようだが、「特ダネ」というのはもちろん記者の努力の結果によるものもあるが、そうでないものも実はけっこうある。「リーク」つまり「たれ込み」である。中には警察が特定の社にたれ込んで書かせる、情報操作のようなこともある。警察に限らず役所や企業が、特定の会社に情報をリークして書かせることは今もけっこう多い。

私が社会部時代、事件取材では、大阪では産経、東京では読売が強かったが、警察が産経や読売にリークしていたことがあとでわかった。最近では「調査報道」という言葉がよく使われるが、そのきっかけは読者からの1通の投書とか1本のたれ込み電話から始まるというケースも少なくない。

◆女性記者の本格進出

社会部に在籍当時、職場環境を大きく変える出来事があった。女性記者が警視庁の記者クラブに配属されたのだ。今でこそ当たり前だが当時は、女性記者といえば文化部や英文部など内勤の部署が多かった。それが、男女雇用機会均等法が公布された1985年以降、もっぱら男の持ち場と見られていた警視庁の記者クラブにも女性が配置されるようになったのである。

Aさんは87年、同法施行後、初の女性記者として社会部に配属され、警視庁第6方面を管轄する上野警察署の記者クラブの担当になった。民放各社も相前後して警視庁記者クラブに女性記者を配置するようになり、庁内に女性記者専用の仮眠室が設けられた。

当時、パワーハラスメント(パワハラ)、あるいはパワハラまがいの言動はすでに部内で公然と横行していたが、パワハラという言葉自体存在していなかった。現在の定義では明らかにパワハラと見なされる恫喝(どうかつ)やいじめ、蹴られたり殴られたりする暴力行為もあったが、当時は「体育会のしごき=教育の一環」のように受け止められ、大きな問題にはならなかった。

実は私自身、ハラスメントまがいの言動について上司から口頭で注意を受けたことがある。泊まり番で会社に上がっていた時のことだ。加盟紙の朝刊の降版時間が過ぎて一息ついていた時、先輩記者との雑談の中で、ある新人記者について、先輩記者が「あいつ、ほんとにトロいな」と言うので、私は「トロいもトロい、大トロですよ」と相づちを打った。ところが、そのやり取りを当の本人が聞いていて翌日、上司に報告。われわれは上司から呼び出され、注意を受けたのだった。

社会部記者、とりわけサツ回りは、今なら即アウトになるような隠語が頻繁に飛び交い、ガサツで野蛮(やばん)なイメージが強かった。それが、女性記者が配置されたことを契機に部内でセクシュアルハラスメント(セクハラ)に関する研修会が何度か行われた。

「バカヤロー!」が、まるで接続詞のように日常的に使われていた職場に配属されたAさんに対して、私は同情やいたわりの言葉を掛けたことは一度もない。初の女性記者を受け入れ内心、右往左往していた部長やデスク、キャップ、そして私たちは、多分にAさんの大らかで明るい人柄に助けられたのだと思う。

米国留学経験があり英語が堪能なAさんは、同じ警視庁のサツ回りとして第4方面(新宿署記者クラブ詰め)、第5方面(池袋署記者クラブ詰め)、第1方面(丸の内署記者クラブ詰め)を担当した私の同僚の1人だったが、「女だから」という意識はなかった。ハラスメント面で当時の彼女にどんな苦労があったか知るよしもないが、男と同じように夜討ち・朝駆けの取材に走り、泊まり番も無難にこなした。

サツ回りの傍ら、上野動物園のパンダ番記者の大役も担うなど、マチダネ取材も精力的だった。私が特に記憶に残っているのは、当時はまだ少なかった女性のすし職人を丹念に取材していたことだ。Aさんは私に「女性は手の温度が高く、すしを握るとネタの鮮度が落ちると言われているが、根拠がない。おかしいと思いませんか」と憤っていた。その女性のすし職人の店に連れていってもらう約束をしていたが、結局行かずじまいになってしまった。

Aさんはその後、退職して96年に渡米。米国人と結婚し、マサチューセッツ州内でウェブサイトデザイナーなどとして働いていたが2004年、通勤途中に交通事故に遭い、死去。39歳だった。

もし彼女が生きていたら、今年59歳。現在のセクハラやジェンダーに絡むハラスメントの状況についてどう考えるか、彼女自身の体験を通した率直な思いをぜひ聞いてみたかった。

◆昭和天皇の崩御

警視庁詰めの時に「昭和天皇の崩御」という歴史的な出来事に遭遇した。

昭和天皇が亡くなったのは1989年1月7日だが、当時私は皇族がたの身辺警護をする警衛課を担当していた。皇居の回りには正門、坂下門、桔梗(ききょう)門、平川門、乾門、桜田門など計11か所の門がある。皇室の取材は「菊のカーテン」といわれるように厚いベールに包まれていて、当時も今もその実態がよくわからない。

昭和天皇の下血が伝えられ、いよいよ命の危険が迫った前年の88年12月初めごろからマスコミ各社は地方から若い記者を東京に集めて、それぞれの門に24時間3交代で張り付かせていた。

車のナンバーがわかれば、皇族がたなのか、侍医長なのか、宮内庁の幹部なのかがわかり、その車の出入りによって天皇の病状を推し量っていたのである。私は、地方支局から応援に来ていた門番の若い記者のサポート役だった。毎日、朝昼晩の弁当を調達して配ったり、門番の記者の取材メモを取りまとめデスクに報告したりしていた。カネのある民放の中には、調理したばかりの熱々の料理が届けられていた社もあった。

当時はまだ携帯電話がなくポケットベルを持たされていたが、「重体」「危篤」「崩御」について「7777」とか「8888」といったように暗号の4ケタの番号を決めていて、ポケベルに表示された数字で天皇の病状がわかるようになっていた。何度か誤作動でまちがって表示されヒヤヒヤすることがあったが、89年1月7日の明け方いよいよ危篤ということになり、当時私は着替えを取りに自宅に帰っていたが、亡くなったという知らせを受けて、涙が出てきた。

これは悲しい涙というのではなく、「ようやくこれでこの仕事から解放される」という安堵の涙だった。門番として地方から集められていた若い記者は、会社は違っても同じ門番として寝ずの番をしている間に連帯感のようなものが生まれ、中には違う会社の門番の記者同士が結婚したケースもあった。(以下、次回に続く)

※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り

第10回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(1)」(2024年2月 21日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-12/#more-14559

第11回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(2)」(2024年2月 28日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-13/#more-14630

第12回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(3)」(2024年3月 6日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-14/#more-14639

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