なぜインフレ指向の経済政策運営に陥りかねないのか
財政目標「債務残高比率」のワナ
『山本謙三の金融経済イニシアティブ』第100回

9月 09日 2026年 経済

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山本謙三(やまもと・けんぞう)

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オフィス金融経済イニシアティブ代表。元NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。著書に『異次元緩和の罪と罰』(講談社現代新書2753、2024年9月)。

高市早苗政権は、「経済財政運営と改革の基本方針2026(骨太方針2026)」の中で、「国・地方の総債務残高対GDP比率(以下、債務残高比率)の安定的低下」を新たな中核指標に位置付けるとした。
 従来のPB(プライマリーバランス、基礎的財政収支)黒字化目標に代わるもので、呼称も「財政健全化目標」から「財政運営の目標」に改めた。
 しかし、債務残高比率は、インフレが進むだけ比較的長く低下する指標だ。逆に、インフレの収束局面ではただちに反転・上昇する。このため、比率の低下を維持しつつ柔軟な財政運営を行おうとすれば、インフレ指向の強い経済政策運営に向かいかねない。

 ◆債務残高比率はなぜ重視されてきたのか

財政目標として「債務残高比率」がしばしば取り上げられるのには、2つの理由がある。第1は、国際比較を行う上で便利な指標だからだ。各国それぞれの通貨で表示される債務残高(借入残高)を評価するには、各国のフローの経済規模を示す名目GDP(国内総生産)と比べるのが分かりやすい。
 ちなみに、IMF(国際通貨基金)の世界経済見通し(2026年4月)によると、日本の債務残高比率は207%(2025年見込み)と、世界190か国・地域中ベネズエラに次ぐ第2位の高さにある。
 第2は、経済学の分野で、財政の持続可能性の判定基準としてしばしば用いられてきた指標であることだ(参考1)。国の借金残高が増加したとしても、経済規模の拡大に応じた伸びであれば、経済の負担にならないとの考えに基づく。

(参考1)ドーマーの定理に基づく債務残高比率の計算式

(出所)各種資料に基づき筆者作成

 この式に従えば、PBがゼロのときに、名目成長率gが名目実効金利rを上回れば、債務残高比率は低下し、財政の持続可能性が高まると判断される。
 そうした理解のもと、経済学の分野では、名目成長率が名目実効金利を上回るかどうか(ドーマー条件:g >r )を巡り、論争が繰り広げられてきた。

◆債務残高比率は高インフレ下で低下する

ここで注意を要するのは、参考1の分子にある「平均実効金利r」は、足元の市場金利でなく、今期の利払い費を前期の債務残高で割った値であることだ。すなわち、債務残高にかかる実効的な利回りをいう。
 仮にすべての債務(国債)が1年以内に償還を迎え、新たな金利に置き換わるのであれば、rは市場金利(国債)と一致する。しかし、現実は全く異なる。国債の満期は多様であり、満期が到来するまでの間は、利払いには発行時点の金利が適用される(固定金利債の場合)。
 実際、日本の国債の満期は最長40年、残存平均期間は9年半程度である。試算すると、債務残高の9割が新しい金利に置き換わるには、約16年がかかる。
 したがって、物価上昇局面でも、分子の平均実効金利rはゆっくりとしか上昇しないため、債務残高比率は低下する。低下のスピードは、当初の数年間に大きく低下し、その後低下幅を逓減(ていげん)させながら、物価の上昇が続く限り比較的長く低下を続ける理屈となる。

◆名実ともに財政は悪い

このような物価反映のタイミングのズレを踏まえると、現実の政策運営に債務残高比率を適用する場合には、名目GDPをベースとした通常の同比率だけでなく、物価変動を調整した「実質GDPベースの債務残高比率(=債務残高対実質GDP)」もみておく必要があるだろう。
 長いトレンドをみたいときは通常の債務残高比率でよいが、短期的な政策運営の指標に用いるのであれば、実質GDPベースの比率を重視する必要がある。
 参考2が、両指標をプロットしたグラフである。両者を比較すると、①物価(GDPデフレータ―)が低下傾向にあった1998年から2013年までの間は、通常の債務残高比率は過大評価され、②物価が上昇傾向となった14年から25年までの間は過小評価される傾向があった。

(参考2)債務残高比率の推移(名目および実質GDPベース)

(注)実質GDPベースの債務残高比率は、1998年および2013年を基準に、名目GDPからGDPデフレータ―の変動分を調整して作成
(出所)IMF「世界経済見通し(2026年4月)」、内閣府「国民経済計算」をもとに筆者作成

ちなみに、1998年から2013年までの過大評価の幅は累計約40%、その後現在に至るまでの過小評価も累計約40%であり、全体としてみればほぼチャラにある。
 したがって、現在の債務残高比率の水準は実勢に近いものと考えてよく、名実ともに世界トップクラスの悪さにあることは間違いない。
 とくに注意を要するのは、足元の動きである。2022年から25年にかけての4年間は、債務残高比率が約20%もの低下を示したが、実質GDPベースでは全く低下していない。すなわち、過去4年間の債務残高比率の大幅低下はもっぱら物価の上昇を反映したもので、財政の健全化を意味しない。

◆ドーマー条件は日本の財政を語らない

経済学の分野では、日本の経済がドーマー条件を満たすかどうか(gとrの大小関係)への関心が強い。しかし、日本の財政を語る上では、あまり意味をなさないだろう(注)
 参考2で述べたように、日本の債務残高比率は、名実ともにコンスタントな上昇を続けてきた。これは、名目成長率と市場金利の大小関係とは無関係に、過去約30年にわたりPB赤字が続いた結果である。財源不十分なまま、社会保障給付費の増大に加えて、新型コロナなどの社会経済ショックにその都度財政支出を拡大させてきたということである。
 ドーマー条件が語るのは、前期の債務残高比率が適正な水準にあれば、今期の債務残高比率も適正な水準にとどまるというに過ぎない。一方、日本の財政状態はすでに悪い。
 そうである以上、まずは①PBの黒字化を実現し、その上で②財政収支の赤字ゼロ化を図り(債務残高の横ばい)、さらに③財政収支の黒字化(債務残高の圧縮)とともに、④いずれは新規国債の発行ゼロ方向に向けて黒字を積み上げていく必要があるだろう。
(注)ちなみに、日本の債務残高比率の高さを踏まえれば、市場金利(国債金利)は大きなリスクプレミアムを負わざるをえないため、長い目でみると、ドーマー条件(名目実効金利(≒市場金利)<名目成長率)は成立しないと考えるのが自然である。

◆なぜインフレ指向の政策運営に陥りかねないのか

もう1点注意を要するのは、インフレが収束する局面に入れば、債務残高比率はただちに上昇に向かうことだ(参考3)。インフレ局面で最初の数年間の低下幅が大きいのと、同様である。

(参考3)物価の変動が債務残高比率に及ぼす影響(イメージ図)

(出所)筆者作成

 したがって、積極財政を重視する立場にしてみれば、債務残高比率の安定的な低下を維持するため、インフレを続ける誘惑に駆られやすい。骨太方針2026の公表以降、金融市場が円安、金利高で反応したのも、そうした懸念をもったからだろう。
 物価(GDPデフレータ―)は2022年から25年の4年間で、すでに年率2.9%の上昇を続けてきた。政府、日本銀行が今後どのような政策運営を行っていくのか。金融市場は固唾(かたず)を呑(の)んで見守っている。

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