山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
経済財政運営と改革の基本方針。俗称「骨太の方針」は原案が示されただけで、市場に衝撃が走った。高市政権が発足した頃、長期金利(10年国債の市場利回り)は1.6%台だった。高市政権の半年で2%台半ばまで上がっていたが、ついに2.9%台へと急上昇、為替は1ドル=163円台まで円安が進んだ。「骨太ショック」である。
◆高市首相に距離を置く植田日銀総裁
「まだ閣議決定もしていない政府のただ一つの文書の原案が、ショックの原因だとは思っていません」
高市首相は口先では強気を装うが、市場の反応にうろたえたのだろう。経済の素人である首相に代わって、片山さつき財務相が、あたふたと原案の修正に走った。
「日本銀行法第3条に基づき、金融政策 の具体的な手法については日本銀行に委ねられる」という文章が「骨太の方針」に書き加えられた。
日銀法3条とは「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない」。つまり政府は「日銀の自主性を尊重します」と一言加えたのである。市場の動揺を抑えるための修正である。
高市首相は、「強い日本・強い経済」の旗を振り、惜しみなくカネをバラまきたい。ところが、物価の安定を重視する日銀の植田総裁は、いささか距離を置いている。一昨年から政策金利を徐々に引き上げ、マネー供給を絞り始めた。イケイケで財政出動を煽(あお)る首相と、金融の蛇口を絞めたい日銀総裁。総選挙で大勝した首相は強い。日銀総裁を抑え込むのでは、と市場は警戒している。
そんな中で「骨太原案」にこう書かれた。
「『強い経済』の実現に向けては、適切な金融政策運営が行われることも非常に重要」
「適切な金融政策運営」とは、政府の方針である「強い経済」に沿うもの、という首相の意向が込められている。この表現で日銀の利上げを縛るつもりだ、と市場は反応した。
国会で野党から「日銀の金融政策への介入ではないのか」と質問されても、首相は「そのようなことはありません」と答えれば済む。だが、市場の動揺はなんとしても避けたい。長期金利が上ったり、円安がさらに進んだりすれば、政府がこれからやろうとする経済運営の妨げになる。
◆「骨太方針」は夢物語に近い「楽観シナリオ」
「骨太の方針」とは「経済財政運営と改革の基本方針」の名が示すように、内閣がどのように国政を運営するか、国会や国民に示すものだ。
7月21日の閣議で決まった「骨太」は高市内閣が何を重視しているのか指し示すもで、副題は「責任ある積極財政元年・日本の挑戦を起動する!」と書かれている。A4版で38ページ、重点項目が列挙されている。
ここに書き込まれた基本方針は、毎年6〜7月に閣議決定され、各省庁はこの方針に沿って事業予算を概算要求にまとめ提出する。財務省による予算査定を経て、翌1月の国会に、政府予算案として提出される。
今回の「骨太方針」は、高市政権が何を目指しているか示すものだ。旗印は「強い経済」と「積極財政」。日本経済が成長力に乏しく、パッとしないのは投資が足らなかったから、という反省から「圧倒的に不足してきた国内投資を徹底的にてこ入れすることが急務である」と骨太に書き込んだ。
重点17分野(人工知能・半導体、情報通信、量子、宇宙、海洋・港湾、防衛産業、重要鉱物、エネルギー、脱炭素、バイオ、モビリティ、医療・健康・介護、食料・農林水産業、物流、インフラ・防災・国土強靱〈きょうじん〉化、素材、観光 )を軸に、2040年までに官民合わせ370兆円超の投資を行う。
投資を誘導するため、予算要求に上限がない「無限要求枠」も創設する。こうすることで2040年には民間投資を年250兆円規模に拡大する。25年の125兆円だった実績に比べ倍増だ。
投資を促進することで、成長力を高め、実質成長率1%を安定的に超えるようにする。物価上昇はおおむね2%が目標だ。つまり名目成長率は3%超を確保する金融財政政策を推進する。
3%超の成長が続けば、法人税・消費税・所得税の自然増収はさらに拡大し、国債が増発されてもGDP(国内総生産)に占める国債の割合(対GDP債務比率)は改善され、成長と財政負担削減の両立が図れる、という算段だ。
積極財政が、投資を刺激し、生産性が向上、賃金や物価を押し上げ、経済規模が拡大、成長の好循環が始まる、というシナリオだ。
だが、これは夢物語に近い「楽観シナリオ」だ。
政府が重点投資するのは、政権が決断すればできる。だが、民間投資は企業の判断で行う。習近平の中国のように、政権が民間を差配できれば話は別だが、日本は政府が民間に投資を指示できない。企業の投資判断は、ソロバン勘定で決まり、収益が期待できにない事業には投資は向かわない。
財務省の調べでは、資本金10億円以上の大企業で内部留保は2024年度末時点で 637兆5316億円に達し、13年連続で過去最高を更新している。この1割以上が「預金・現金」。事業の儲(もう)けを投資に振り向けず懐に抱え込んでいるのが日本の特徴だ。災害や経済混乱など有事への備え、ということもあろうが、国内市場が儲からない、ということが最大の要因だ。
人口の減少、実質賃金減少に伴う消費の低迷が大きな要因。儲からない国内市場にカネは向かわず、投資は海外で、という傾向が強い。そんな中で、どうやって国内投資を倍増させ、370兆円といる夢のような投資を実現するのか。「骨太」にその道筋は描かれていない。
◆官民連携、結局は血税の浪費という現実
一方、政府は米国に80兆円の民間投資を約束している。実行しなければ「制裁」もありうるという政治案件だ。米国で事業を続けるならトランプ政権の要請を無視できない。米国はドル箱の米国市場をエサに日本からの投資を約束させた。
高市政権には、そうした強制力はない。政府が大企業を指導する時代ではない。できることは、基金を設けて財政資金を注入して産業の後押しする程度だが、こうした政府主導の事業はほとんどがうまくいかない。
分かりやすい例が、液晶技術の生き残りをかけたジャパンディスプレイ(JDI)だ。経済産業省所管の官民ファンドの支援で2012年に電機大手3社の液晶事業を統合して発足。「日の丸液晶」として期待を集め、14年に上場したが、韓国や中国勢との競争に敗れ、12年連続の赤字で存亡の危機に喘(あえ)ぐ。
「日本が世界に誇るべき産業」としてマンガやアニメなどを「クールジャパン」と囃(はや)し立て、官民ファンドで世界に売り込もうとしたが、運営母体のクールジャパン機構は累積赤字540億円となって、解散は時間の問題となっている。
官民連携というと華々しいが、主導的地位にある役所は失敗しても誰も責任を問われない。民間はお付き合い程度で本気なっていない。結局は血税の浪費となっている現実から、政府は何を学んでいるのか。
重点産業に挙げた17分野は、あまりにも間口が広い。必要とされる資金も、人工知能(AI)や半導体、宇宙産業などは、数十兆規模の投資が世界標準になっている。必要なのはカネだけではない。起業家のアニマルスピリットが欠かせず、役所アタマの政府が補助金を使って口出しすることは事業にとって障害になりかねない。これまでの例を見れば、「政府主導の官民370兆円」は張りぼてのような計画で、リアリティー欠ける。
◆「財政健全化」の旗を降ろした高市政権
政府の補助金は、損失を埋める「救済」には有効だが、産業を成長させる「前向きな力」になるか、極めて怪しい。
骨太方針に「投資額370兆円」と書き込んだり、「実質成長1%超」と予想したりするのは簡単だ。だが、実現できるかは誰もわからない。高市政権がそう期待しているだけで、見通しも保証もない。それどころか「積極財政」の大盤振る舞いで、歳出が膨張し、「破局サイクル」に落ち込む危うさを秘めている。
安倍晋三首相のころ、「金融の異次元緩和」が実施された。市場に出回るマネーが潤沢になればデフレは解消する、と当時の黒田東彦日銀総裁は語ったが、通貨をばら撒(ま)いてもデフレは止まらなかった。バラマキが足らないならもっとばら撒くという政策がとられ、行き着いた先は、通貨価値を下落させる円安だった。
同じことが、財政で行われるのではないか。積極財政でカネをばら撒いても成長に結びつかない。ならば、もっと財政を膨らまそう、ということになりかねない。
カネがかかるのは370兆円の成長投資だけではない。物価対策のガソリンや電気、ガスへの補助金は財政の負担になっている。選挙公約に掲げた食料品の消費税の引き下げには5兆円の財源が必要だ。アメリカからは防衛予算の増額が迫られている。5年以内にGDPの3.5%に引き上げたい。GDP2%を達成したばかりなのに、3.5%にするには更に6兆円が必要だ。
消費減税と防衛費増だけで10兆円を超える財源が必要だ。インフレによる税の自然増だけではとても足らない。だが、増税は政治的に無理。結局、頼るのは国債の増発である。
それが分かっているから市場で国債が売られ、長期金利が上がる。日本売りは円安を加速する。「骨太の方針」を読めば、この国は、財政を悪化させて危ない橋を渡ろうとしていることがわかる。
「財政健全化」の文字が「骨太方針」から削られた。2001年から始まった骨太は、赤字国債を減らすことを念頭に置いた「財政健全化」という言葉を旗印にしていた。高市政権は、この旗を降ろした。
◆不都合な成り行きが潜む「積極財政」
「財政健全化」は「緊縮財政」を意味する陰気な語感が伴う。もっと前向きで明るい言葉、それが「積極財政」だ。
景気いいキャッチフレーズが並ぶ。
「積極財政で成長投資を倍増」「370兆円で成長の好循環」「強い経済で強いニッポン」――
その裏には、より現実味があり、不都合な成り行きが潜んでいる。「成長につながらない財政膨張」「国債依存のインフレ財政」「円安・金利高の日本売り」である。
高市首相が囃(はや)す「成長の好循環」の対極にある「破綻(はたん)シナリオ」は、おおむね次のようなものだ。
積極財政の掛け声とともに財政のバラマキは産業分野に広がる。補助金で企業の尻を叩いても、官民事業は空回り。イノベーションは起こらない。血税は垂れ流されるばかり。選挙対策の減税、防衛費増額で財源不足は深刻になる。財政赤字を埋めるのは国債。長期金利は上昇する。国債の利払い費が膨張し、財政は行き詰まる。国債発行で埋めようにも、引き受け手はいない。金利は急上昇、国債価格は急落、日本から資金が逃げ出し、円安が一気に加速する。市場の「日本売り」を受け、株式市場は動揺。緩和マネーでバブル化していた株価の底が抜ける……。
株安、円安、国債安の「トリプル安」で政権は瓦解(がかい)する。数年前、英国でトラス政権(2022年9月6日~10月25日)を崩壊させた市場の反乱が、日本でも起きかねない。「骨太ショック」は、その予告編だったのかも。SFみたいに思われていた「破局シナリオ」は、だんだん現実味を帯びてきた。(文中一部敬称略)











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