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わが同朋の死を悼んで
バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第46回

5月 22日 2015年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住17年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

東海銀行時代の部下で友人であったG君が亡くなった。享年59歳の若すぎる死である。1994年、私は米ロサンゼルスから帰国し、国際企画部統括グループの次長となった。この時、この統括グループ主計係のヘッドとして圧倒的な存在感を持って仕事をしていたのがG君であった。

◆徹夜も辞さず仕事に邁進

当時の日本の都市銀行はバブル崩壊による不動産価格下落から、不動産融資やゴルフ場融資などが回収不能となり、どこも火の車の状態であった。東海銀行もご多分に漏れず多額の不良債権に苦しめられたが、西垣覚頭取(当時)のリーダーシップのもと、リース会社や住宅専門会社のリストラにいち早く手を付けた。

一方で、「国際部門は重要部門ではない」との国内部門からの圧力で国際部門は縮小を迫られていた。そもそも銀行の屋台骨を壊すほどの不良債権をつくったのは国内部門である。にもかかわらず、「リストラはまずは国際部門から」という理屈に対して、国際部門に身を置く人間はみな反発を覚えた。しかしながら海外顧客、特に現地企業との強固な取引関係を構築できていなかったのは事実であり、我々はやむなく国際部門の業務の見直しに手を付けた。

「国際業務戦略の再構築」「現地企業(非日系企業)取引からの撤退」「海外支店業務の効率化と人員削減」「海外拠点網の再編成」「海外出資戦略の見直し」「ドルなど主要通貨の調達源の確保」「資金放出先の見直し」。こうした難しい課題の方針を矢継ぎ早に策定するとともに、これを実施に移していかなければならない。国際企画部の部員だけではなく、国際部門や資金証券部門に携わる者の多くは毎晩深夜1時、2時まで仕事をした。

こうした中で海外支店や国際部門全体の予算、決算の取りまとめの重責を担っていたG君は、徹夜も辞さず仕事に邁進(まいしん)してくれた。海外主計業務の知識と経験では彼の右に出るものは誰もいない。その知識に乏しい私は全面的に部下であるG君を頼りにしていた。

◆真剣に語り合った仲間たちとEXTOKAI

国際企画部の部員たちはこうして毎日午前様になるまで仕事をしていたが、深夜を過ぎるころになると息抜きのために数人が車座になって議論を行うことがたびたびあった。「なぜ銀行はこんな悲惨な状況になってしまったのか?」「本来日本の銀行は国際業務として何を行うべきなのか?」「現地企業取引を行うことの意味は何か?」「最も効率的に国際部門を運営するためには何が必要か?」。銀行の国際部門の再生に向け、みな真剣に議論をした。

G君もたびたびこの議論に参加した。G君はいつも腕組をしながら、人の話をしっかり聞いていた。間違えた事実認識があると必ず訂正をした。自分の意見を述べる時には断定することはなく、必ず「私はこう考えます」という言葉を使った。真実を追求する姿勢は常に妥協がなかったが、一方で自分の意見の非蓋然(がいぜん)性についても良く認識していたと思われる。

G君を含めた国際企画部部員による真夜中の非公式な議論は、その後の東海銀行国際部門の方向性を形作る面で大きな影響を与えた。1998年以降、都市銀行各行が海外で貸し渋りを行った際、唯一東海銀行が日系企業からの貸し出し要請に応えられたのも、皆が真剣に銀行のあるべき姿を考えたからだと思っている。

97年になるとG君は米国での国際業務の再編の最前線に立つべく「米州室長」としてニューヨークへ転出。私はアジア通貨危機の対応を行うため98年にバンコクに赴任した。その後G君とは地理的にも業務面でも離れ、しばらくの間お互いに連絡を取り合うことはなかった。

2002年1月、東海銀行は三和銀行と合併しUF銀行となった。UFJ銀行の業務方針に賛同できなかった私は、自らの意志で職を辞し、03年4月にバンコック銀行に転職した。東海銀行の国際部門や資金証券部門では、私のようにUFJ銀行の業務方針に賛同できず退職していく人が後を絶たなかった。

しかしながら、自分から「日本の都市銀行員」という安定した地位を捨てていくわけである。不安でないはずがない。一方で銀行再建のため夜遅くまで働き、ある時は銀行のあるべき姿を真剣に語り合った仲間である。

「道半ばにして夢を諦める」悔しさでいっぱいであった。04年、こうした「自ら銀行を退職した仲間」が集まってEXTOKAIという会が発足した。銀行員を辞めたがゆえに現在味わっている厳しさ、苦しさ、そして悔しさを皆で共有しながら互いに励まし合っていくという趣旨のこの会は、現在も年2回開催されている。

会の最年長者の一人である私は、同僚や後輩に何も手助けもできなかった責任を感じ、EXTOKAIのあいさつでメンバーの前で頭を下げてわびたこともあった。そんなEXTOKAIの面々も、今ではすっかり各分野で活躍しており、頼もしい限りである。EXTOKAIは現在では会員数200名を超える大きな会となった。発足以来ずっと会の面倒を見ていただいているI君、A君、S君など幹事の皆様には本当に感謝している。

◆自分の命の終わりを告げたG君

前置きが長くなったが、G君も当然のことながら自らUFJ銀行を退職していた。優秀なG君は米国の大手会計事務所に職を見つけ、数年でパートナーに上り詰めていた。G君は毎回このEXTOKAIに欠かさず参加。しかもいつも遅れてくる。遅れて会場に飛び込んできたG君は私の顔を見つけると近づいてきて「小澤さん、お元気ですか?お身体大丈夫ですか?」と必ず声をかけてきてくれた。

饒舌ではないが、心を許した人間には人懐っこい笑顔を向けてくる。私はこのEXTOKAIでG君と話をするのをいつも楽しみにしていた。銀行を辞職し、自らやるべきことを見いだしてきたG君。別々の世界に生きることとなったが、人生を真摯(しんし)に生きていくG君を私は同志として感じていた。

スケジュールの都合で、私は昨年秋に行われたEXTOKAIに参加できなかった。このEXTOKAIでG君に会えなかったため、私は今年1月の日本出張時に顧客訪問の合間を縫って、アポイントメントなしで彼の勤務する会計事務所を訪ねた。寒く冷たい雨の降る真冬の午後であった。

突然の訪問にもかかわらず、G君は嫌な顔をせず応接室に現れた。「ごめん。突然アポなしで申し訳ない。ちょっとでも良いからG君の顔が見たくて来たんだ。去年のEXTOKAIに参加できなかったのでね。元気にしているかい?」。慈愛あふれた笑顔(少なくとも私にはそう見えた)で私の言葉を聞いていたG君は一呼吸おいてから、「小澤さんもお元気そうで何よりです。……………………。小澤さんにはお話ししてなかったかもしれませんが、実は昨年、私はがんの治療をしていました。秋には完治したと医者から言われたのですが、年末の検査でほかの場所に転移していることがわかりました。医者からは残り3か月から1年の命だといわれています」。

彼は静かな笑顔を崩さず淡々と私に自分の命の終わりを告げた。一方、私は突然の重大告知の前にうろたえながら彼に言葉を返した。「ご家族はもちろん知っているのだよね」

「家族にはもうすでに話しました。会社にも報告をして閑職に移動させてもらいました。今は後輩に対してなるべく多くのことを引き継ごうと教えているところです。友達に連絡するかどうか悩んでいたのですが、小澤さんの顔を見たら“水臭い”と言われそうな気がしたのでお話ししました。皆にはこれから連絡します」

すでに自分の死に対して正面から向き合っている彼の厳然たる態度に頭が下がる思いであった。その日は「家族に対する愛情」「部下に対してできること」「仕事と人生」などについて1時間にわたり彼と差しで話をした。私は次の訪問予定があったため彼の勤める会計事務所を後にしたが、外は相変わらず寒く冷たい雨が降っていた。しかし私は傘をさす気になれず、雨に濡れながらしばらく歩いた。

◆「皆の中にも生きている」

5月10日、G君はこの世を去った。たまたま日本出張中であった私はお客様の訪問スケジュールをキャンセルさせていただいて、G君のお葬式に参列した。荘厳なお葬式であった。同僚や後輩の方々が読まれた弔辞は、彼の生き様がよくわかる心のこもった弔辞であった。

私の知っているG君は「皆の中にも生きている」ことがわかりうれしかった。一方で花輪などを見て、彼が開成高校、東京大学の出身であったことを再確認した。銀行時代、彼の上司であった私は、当然のことながら彼の経歴書を見ていたはずである。しかし私にとって彼の学歴など意味がなかったに違いない。仕事面では彼に助けてもらうことはあっても、私から彼を助けたことなど記憶にない。彼の過去の経歴など知らなくても彼と私は「一期一会の付き合い」をしたのだと信じたい。少なくとも2人で話をするときはお互い偽りない議論をしてきた。

お葬式の最後に、喪主である夫人が参列者に対して以下のように語られた。「主人は5月9日まで普段通りの生活をしておりました。5月10日に床につきそのまま帰らぬ人となりました。仕事一筋にまじめに働き、家族を守り支えてくれる夫でした。転勤の多い仕事でしたが、その土地その土地の文化や人の温かさに触れ、かけがえのない日々を過ごすことができました。何事にも努力を惜しまず目的を持って取り組む夫の背中は、家族に大切なことを教えてくれました。これからも在りし日のようにやさしく見守ってくれると信じ、感謝の心で見送りたいと思います」

夫人は一粒の涙を見せることもなく、気丈に語られた。死に対するG君の覚悟が夫人にも乗り移ったように思われた。

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