п»ї ふるさとの景色の先に広がる大きな世界 So far so good(5) 『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第14回 | ニュース屋台村

ふるさとの景色の先に広がる大きな世界
So far so good(5)
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第14回

3月 20日 2024年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番過ごしやすい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも沿道の草花を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

◆南米駐在

警視庁詰めを外れた後、遊軍を経て、1991年から96年まで、ブラジルのサンパウロを拠点にした南米特派員を務めた。南米には12の国とフランス領ギアナがあるが、私は5年間の駐在期間中、ガイアナ、スリナム、仏領ギアナ以外はすべて取材で訪れた。

サンパウロは南米最大の都市で世界最大の日系人社会があり、日本食も比較的簡単に手に入る。ただ、リオデジャネイロと並んで治安が悪く、私たち家族は鉄格子に囲まれ、ガードマンが24時間張り付いている集合住宅に住んでいた。

私が赴任した翌年、当時の通産省からジェトロサンパウロ事務所の所長として赴任したキャリア官僚が、赴任翌日に銀行強盗の流れ弾に当たり、大腿部貫通の重傷を負う事件があった。サンパウロの日本総領事館も在留邦人に対して、夜間、車を運転する時は交差点では赤信号でも止まらず左右を確認して徐行しながら進むよう助言するなど、治安対策にはとても気を遣った。

◆会見相手にもらったサイン

南米駐在時代の話として、3人の人物について触れたい。

1人目は、「サッカーの王様」と呼ばれたペレである。2022年12月に82歳で亡くなった。私は南米特派員に決まった時、最初にインタビューしたいと思ったのがペレだった。私が単なるミーハーで、日本人なら誰でもペレのことは知っているだろうと思ったからである。

ペレは19926月にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国際会議(地球サミット)」の親善大使を務めていた。当時のペレはすでに現役を引退していたが、サッカーブラジル代表のエースとして3度のワールドカップ優勝に導いた国民的英雄で、引退後も国際サッカー連盟(FIFA)やユニセフ(国連児童基金)の親善大使などとして世界中を飛び回っていた。事前にインタビューの約束を取り付けるのは困難で、この地球サミットの期間中に、リオデジャネイロからサンパウロに移動する飛行機の中で彼を捕まえて、機内でインタビューした。

記者がインタビューの相手にサインを求めるのは禁じ手、というか御法度という不文律があるが、私はどうしてもペレのサインがほしくてお願いした色紙を持っていなかったので、とっさの判断で持っていた原稿用紙の裏に私のボールペンで書いてもらった。「友に幸運あれ」と書いてくれた。インタビューの相手にサインをもらったのはあとにも先にもこの1枚だけで、わが家の家宝としてリビングの棚に飾っている。

◆ボツになった会見写真

2人目は、ペルーのフジモリ元大統領だ。両親が熊本出身の日系2世で、1990年から2000年までペルーの大統領を務めた。最後は汚職や公金横領の罪などで訴追され、国を追われる形で辞任し、しばらく国外を転々としていた。私の南米駐在期間はまるごとフジモリ氏の大統領在任期間に重なっており、特に在任期間の前半は日系人初の大統領ということで日本のメディアに大きく取り上げられることがあり、ブラジル国外での出張はペルーが最も多く、頻繁に出張した。

1992年3月にフジモリ氏が国賓として訪日する前に、首都リマの大統領府でフジモリ氏が日本のメディアと会見した。会見の写真はフランスのAFP通信などが配信し、東京の本社にも送られてきたが、大統領の顔より、その左に座った私の顔の方が大きく写っており、デスクから「どっちが大統領かわからん」と言われ、掲載はボツになった。

私は会見の時、フジモリ氏からいつも自分の左に座るよう席を指定されていた。93年の軍事クーデターの直後にペルーに出張した時も、フジモリ氏自ら私だけ大統領の執務室に案内してくれた。また、99年に公式実務訪問で来日した際、当時私は本社外信部のデスクだったが、帝国ホテルで単独インタビューに応じてくれた。

フジモリ氏はペルー経済を立て直し、麻薬組織や左翼ゲリラを背景としたペルー国内の混乱に歯止めをかけた実績が評価されている。しかし、93年の軍事クーデター以後、独裁色を強め、結果的に自ら墓穴を掘った形である。

現在85歳のフジモリ氏の近況だが、ペルーに帰国後の2010年に禁固25年の判決が確定し、収監。2017年に高齢や病気を理由に人道的恩赦で釈放された。しかし、最高裁が翌18年に恩赦を取り消し、再び収監された。23年10月に本人がオンラインで出廷し、無罪と健康状態悪化による恩赦を求めていたが、同年12月、憲法裁判所はフジモリ氏の即時釈放を命じ、収監先の施設から釈放され、約5年ぶりに自由の身となった。

◆「等身大の目線」の指針

3人目は、ノンフィクション作家の柳原和子さんだ。柳原さんとは、私が学生時代にタイのカンボジア難民キャンプで知り合い、その後もずっとお付き合いいただいた。

柳原さんは私がサンパウロに駐在していた時、世界中に散らばるさまざまな分野で活躍する日本人をインタビューして回っていて、サンパウロのわが家を拠点に南米各地を回り、最終的に40か国65都市の108人から話を聴き取り、帰国後『「在外」日本人』(晶文社、1994年、のち講談社文庫)というノンフィクションの大作をまとめた。

柳原さんは私が記者になってからも「等身大の目線が大事だよ」と会うたびに繰り返し言っていた。仕事熱心で、そばにいるだけでそのエネルギーが伝わってくるような刺激と活気に満ちた、心から尊敬できる人だった。

柳原さんはその後、卵管がんになり、治療の傍ら、がんに関する医療について精力的に取材し、『がん患者学―長期生存をとげた患者に学ぶ』(晶文社、2000年、 のち中公文庫)や『がん生還者たち―病から生まれ出づるもの』(中央公論新社、2002年)、『百万回の永訣 がん再発日記』(中央公論新社、2005年、のち文庫)などを発表した。がんはいったん消えたが再発し、2008年に57歳で亡くなった。柳原さんがずっと言い続けていた「等身大の目線」という姿勢は、私の記者としての指針になっている。

◆「速報」と「誤報」いつも隣り合わせ

 サンパウロから日本に戻り、本社の外信部に3年ほど在籍したが、サンパウロに赴任する前も含め、外信部では顔から火が出てしまいそうなミスを何度もやらかした。

1998年9月、私がデスク勤務の時にカナダ・ノバスコシア州沿岸の大西洋上にスイス航空機が墜落する事故があった。この一報を外国通信社が英語で速報したので、それを翻訳して短く手書きして契約しているマスコミ各社に一斉にファクスしたが、私は「カナダの大西洋上にスイス航空機が堕落」と書いてしまった。たまたま、上司が気づいて、「だれだ! 墜落(ついらく)を堕落(だらく)と書いたのは!」と怒鳴られてミスに気づき、すんでところで事なきを得た。そばにいた後輩が小さな声で「墜落も堕落も、落ちることには変わらないですよね」と変なフォローをしてくれたが、もう少しのところで大恥をかくところだった。

サンパウロに赴任する前もこんなことがあった。外信部では外国通信社が速報する英文のニュースを読んで即座に重要か重要でないかを判断し、重要な場合は短く「一報」と称して翻訳記事を出し、その後にカバーエリアの管轄する海外支局に連絡して続報を書くように指示するのだが、ある時、英文の中に「West Bank」という単語が出てきた。私は社会部から外信部に異動した直後で何のことかさっぱりわからず、どうしてこの文脈で「西銀行」が出てくるのか、疑問が解けずにいた。

中東地域のことに関心がある人ならすぐにわかるはずだが、これは「ヨルダン川西岸」と訳す。ヨルダンとイスラエルの間に存在し、パレスチナ自治区の一部を形成するヨルダン川より西部の地域のことを指す。パレスチナ自治区は、イスラム組織ハマスとイスラエル軍が大規模な戦闘を続けるガザ地区と、ヨルダン川西岸地区とで構成されており、23年10月のハマスによるイスラエル襲撃以来、イスラエル軍の徹底的な攻撃を受けるガザ地区と並び、ヨルダン川西岸地区はイスラエルが一方的に進めている入植地として、パレスチナ問題の鍵を握る地域である。

ほかにも、このほど断髪式を行った大相撲の元大関、栃ノ心の出身地である「Georgia」(ジョージア)を外信部に異動した当初(1991年)は、「グルジア」と読めなかった。

今でこそ、「ジョージア」の名前で通っているが、日本では2015年4月まで「グルジア」が正式な国名だった。旧ソビエト連邦を形成していた国の一つであるグルジアでは2008年のグルジア紛争以降、反ロシア感情が高まり、ロシア語の「グルージヤ」に近い国名表記でなく、「ジョージア」とするように各国に要望していた経緯があり、日本政府は米国のジョージア州と混同する可能性もあるとして変更には慎重だった。しかし、国連加盟国のうち約120か国が「ジョージア」を使用するようになり、「グルジア」を使うのは日本のほか、旧ソ連と東欧など少数派となったので、2015年4月になってようやく日本政府も「ジョージア」に国名表記を変更したのである。

無知や知識不足による失敗を挙げ始めたらきりがない。恥の上塗りになるので、このあたりでやめよう。知らないことはもちろんだが、知っていてもうっかりミスを犯してしまうような「地雷原」が数え切れないほど埋まっていて、「速報」と「誤報」がいつも隣り合わせの、胃が痛くなるような日々だった。

定年退職した後、最近とくに感じるのは、新聞各社、テレビ各局ともミスをまるで重箱の隅をつつくような感じで、互いに批判・非難し合う傾向があるように思う。他社から非難される前に訂正を出す風潮が一般的で、新聞を見ていると、ほぼ毎日「おわびと訂正」が出ている。「おわびと訂正」は新聞にとっては、紙面を汚(けが)すことを意味し、誤字脱字といった小さなミスから、ニュースそのもののねつ造(でっち上げ)まで、社長のクビが飛んだり、部数が激減して経営にかかわる深刻な事態に発展したりしかねない。

まことにやっかいなことだが、今はそのストレスから完全に解放され、実に爽快(そうかい)な日々を送っている。(次回に続く)

※『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』過去の関連記事は以下の通り

第10回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(1)」(2024年2月 21日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-12/#more-14559

第11回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(2)」(2024年2月 28日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-13/#more-14630

第12回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(3)」(2024年3月 6日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-14/#more-14639

第13回「ふるさとの景色の先に広がる大きな世界―So far so good(4)」(2024年3月13日付)

https://www.newsyataimura.com/kisham-15/#more-14648

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