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「MMTを考える」その6(完)
『視点を磨き、視野を広げる』第51回

4月 26日 2021年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

新型コロナ禍で、失業や収入減少に苦しむ人々が増えている。その一方で、金融緩和による株の上昇で富裕層はいっそう豊かになっている。格差は新型コロナ禍前からあったが、より深刻化していると思われる。格差拡大は世界的な問題であるが、その傾向が止まらず、許容しがたい水準に達すれば社会が不安定化する。そうした懸念を反映して、現在の状況を、格差が拡大して戦争に向かった1930年代に酷似するといった見方がある。米中の対立激化がもたらす緊張の高まりは、そうした懸念に拍車をかける。

前稿(拙稿第50回)では、中野剛志の『富国と強兵』を読みながら、格差拡大の原因を行き過ぎたグローバリゼーション(グローバル化)に求めた。そのグローバル化を推進したのは、新自由主義である。新自由主義とは、自由な市場、自由貿易が、経済の合理化、効率化をもたらし、経済成長を通じて幸福を実現するというイデオロギーである。それを全世界に展開して、世界を一つの市場としようとするグローバリズムもまた、中野が言うように歴史の必然などではなく一つのイデオロギーとすれば、抑制は可能である。

欧州のポピュリズム政党伸張や米国のトランプ現象の背景には、グローバル化の影響で失業したり、収入が減少したりして生活に苦しむ人々がいる。彼らは、格差の拡大に怒り、エリートに反感を抱く。既成政党が顧みなかった彼らを、政治的に拾いあげたのがポピュリズム政党であり、トランプであったということだ。その分断を拡大したのが、今回のコロナ危機である。慌てた各国政府は財政緊縮を棚上げして、危機対応の財政拡張に走っており、ケインズ経済学が復権を果たしたといわれる。そうした情勢を背景にMMT(現代貨幣理論)が注目を集めているのである。

ただ、日本の状況は少し異なる。理由は、本来弱者の側に立つべきリベラルに、「強い国家」に対するアレルギーがあるからである。さらに言えば、戦後日本が誇りとしてきた「物語」を打ち壊す中野の論説は、保守派からもリベラル派からも疎まれるからである。中野が地政学や国家のあり方を論じなければMMTを語れないのは、そうした日本の特殊性を背景としているのである。MMTの貨幣論を実践しているように見える日本で、MMTのイデオロギーが受け入れられないために議論が深まらないとしたら、残念なことである。

今回は最終回として、MMTの要点をまとめるとともに、三つの論点――①MMTをどう理解すべきか②MMTの政策は持続可能か③日本でのMMT受容の可能性――について考えてみたい。参考とするのは中野剛志の『富国と強兵』、『TPP亡国論』、『グローバリズムが世界を滅ぼす』(共著)、『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』(共著)である。

MMTの要点を整理する

MMTの貨幣理論を整理すると、下記のようになる。

●貨幣の起源を、財・サービスの移転と決済の時間差による売り手(「信用」を供与)と買い手(「負債」を負う)の「債権債務関係」に求める(売買とは本質的に「信用取引」)⇒ 貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である(イングランド銀行の定義=「信用貨幣論」)

●貨幣は現金貨幣と預金貨幣からなり、大部分を占める預金貨幣は銀行の貸し出しによって創り出される(預金を元手に貸し出しを行うのではない)⇒ 銀行による預金貨幣の創造

●政府が赤字国債を発行して財政支出を行う場合、銀行が国債を購入する原資は民間預金ではない。政府が財政支出を行うと新たな民間預金が生まれる ⇒ 財政赤字や政府債務の膨張によるクラウディングアウト(民間資金供給の圧迫)やインフレは起きない

●貨幣の供給は資金需要によって決まる(「内生的資金供給理論」)⇒ いくら金融緩和をしても、資金需要がなければ貸し出しは増やせず経済成長もしない(民間需要がないなら政府が財政支出で需要を創出すべき)

●貨幣の価値の源泉は国家権力(表券主義)⇒ 税金は国家が国民に強制的に課す負債(貨幣とは負債であるという「信用貨幣論」と「表券主義」との結合=「国定信用貨幣論」)

●政府は経済全体の総需要を、財政支出と課税によって適正な水準に維持する⇒財政政策主導(ケインズ主義)

●税金は政府支出の財源ではない⇒税金は物価調整のための手段であり、また社会を政府が望ましいと考える方向に導く手段(格差是正のための累進税率強化、炭素税など)

MMTの信用貨幣論の特徴は、金融実務から導かれたものという点にある。銀行の貸し出しの原資は預金ではないことは、銀行業務の経験者ならば自明のことだ。また、民間銀行による国債の購入についても同様に、預金が制約要因とはならないことは、金融実務から導かれている。

日本銀行は現在、金融緩和政策(異次元緩和)を採っており、銀行が保有する国債を買い上げて、銀行が日銀に持つ当座預金に資金を供給する。銀行の日銀当座預金には法定準備金を超える資金(超過準備)がたまっており、(融資先がない)銀行は超過準備を使って新たに発行された国債を購入している。これは、日銀が政府から直接国債を購入して当座預金を供給する「財政ファイナンス」と実質的に同じである(日銀は財政ファイナンスではないとしている)。「財政ファイナンス」は法律で禁止されているが、理由は財政節度維持のためとされる。しかし、日本ではこの状態が長期間続いているが、主流派経済学が主張するクラウディングアウトやインフレは兆候さえ見えない。MMTは、その理由を説明可能である。

◆論点1:MMTをどう理解すべきか

●ケインズ経済学の復権―供給から需要へ

経済学の歴史をみると、主流派経済学の地位は、新古典派経済学→ケインズ経済学→新古典派経済学と移って現在に至っている。ケインズ経済学はかつては主流派経済学であり、第2次世界大戦後の福祉国家建設の理論的支柱とされた。しかし、1970年代に「大きな政府」がインフレ亢進(こうしん)の原因と批判されて、影響力が低下する。反対に勢力を増したのが「小さな政府」を掲げる新自由主義であり、その理論的支柱となった新古典派経済学は、現在まで主流派経済学の地位にある。

東西冷戦の終結は、自由資本主義の勝利とみなされ、イデオロギーの対立がなくなったため、来るべき世界は「一つの世界」「一つの市場」に収斂(しゅうれん)していくと思われた。自由な市場、自由貿易を掲げる新自由主義思想は世界中に広がり、グローバル化の推進を正当化した。しかし、その帰結が、格差の拡大であり、リーマン・ショックに代表される金融危機の発生による経済の不安定化であった。資本主義の危機であり、それを克服するためには、再びケインズ経済学が必要だという主張が支持を広げつつあり、「復権」は時代の要請と言えるだろう。

主流派経済学である新古典派経済学は、供給と需要は市場の価格調整機能を通じて常に一致すると考えるので、供給力(資本、労働、生産性)を重視する。一方、ケインズ経済学では需要の不足を問題にする。有効需要が不足しているので、失業や不況が起きると考える。したがって、民間の需要が不足しているなら、政府の財政支出で需要を創り出せばよいということになる。ケインズ経済学の復権は、従来の供給重視(新古典派)から需要重視(ケインズ派)への回帰を示していると見てもよいだろう。

●主流派経済学の何が問題か

前述のように、新古典派経済学においては、「市場においては需要と供給は自動的に均衡する」と考える。したがって、市場における「問題」とは、「不完全競争(市場が最適に機能しない状態)」「市場の失敗(市場を経由しては供給されない財・サービスの存在)」であって、これらを補正するのが経済政策だとする。この前提には、市場がうまく機能すれば、皆が幸せになれるという考え方がある。この考え方を新自由主義的に言えば、規制や慣行があるから市場の機能が十分に働かないのであり、規制緩和や構造改革、民営化によって市場に任せれば効率化が図られ、経済成長に寄与するということになる。

中野を始めとしてケインズ経済学の立場は、自由放任ではなく政府による市場の制限が必要だと考えるので、こうした市場原理主義に対しては批判的である。なかでも、経済学者の松原隆一郎が唱える「共有資本」(*注1)は、最も説得力があると思われるのでここで取りあげたい。

松原は、共有資本とは、自然、労働力、文化(知識や価値観)であると定義する。これらは市場で売買されるが、本来売買を目的として生み出されたものではない点が、一般の商品とは違う。なかでも労働力を生み出す「人間関係資本」は、家族やコミュニティーでの人間関係という慣習(非合理性)の中で生きており、合理性を追求する市場での労働力の商品化と対立する要素を本来的に持っているという。すなわち、人間の労働を市場の一般の「商品」と同じように扱うと、賃金の低下や労働時間の増大といった労働環境の悪化をもたらし、人間の生活を破壊してしまうのである。この考え方をグローバルに拡大すると、先進国の労働者は新興国の労働者と賃金競争を強いられる。日本の雇用形態では正社員を解雇できないので、企業は正規雇用を抑制し、非正規雇用で代替して労働コストを低下させることで対応する。それが日本の「失われた20年」に起こった現実である。

松原は、「共有資本」に対しては、経済合理性のルールだけではなく、「社会的規制」が必要なのだという。そしてこうした社会的規制は国や地方やコミュニティーごとの慣習法に基づくべきであり、その基盤の上に自由な市場経済が営まれると考えるのである。したがって、松原も、(行き過ぎた)グローバル化に批判的な立場である。グローバル化の下では、「一つのルール」をグローバルスタンダードと称して、国や地域に関わりなく適用することを求める。その結果、地域や国に特有の慣行やルールが破壊されるからである。

●行き過ぎたグローバル化の抑制は可能か

本書では、グローバル化は歴史の必然ではなく一種のイデオロギーなので、現在のグローバル化(「近代の第2次グローバル化」)も歴史の一局面と見るべきだという。そして、グローバル化の基本条件である「自由貿易」に問題の根本を見いだす。

すなわち、自由貿易は、国家による輸出入制限や関税を排除して、国際間で自由に貿易を行うことで、輸出国も輸入国も最大の利益を享受することができるという古典派以来の基本理論である。しかし自由貿易が進むと両国企業間の競争が激化し、企業は賃金コストの削減に動く。その結果、企業の利潤が増えても経営者や富裕層に行くだけで労働者には回らないので(「トリクルダウンの虚構」)経済格差が拡大する。さらにすべての国の企業が賃金コスト抑制の論理で動くと、「底辺への競争」が始まるとする。確かに、現在のグローバル化の最大の被害者は、新興国の労働者にのみ込まれた先進国の労働者である。彼らの存在が、米国のトランプ現象や欧州のポピュリズム政党伸張の土壌となっているのである。

また、覇権国米国は、自ら推進したグローバル化の成功によって国内の分断と経済の不安定化を招き、弱体化が懸念されている。そこにグローバル化を最大限利用して台頭した中国が米国に挑戦を始め、覇権を巡る米中対立が起きている。

本書では、恐慌と戦争で終わった1930年代の失敗の轍(てつ)を踏まないためには、自由貿易の抑制によってグローバル化の行き過ぎを止め、新たな国際協調の枠組みを構築することが大きな課題だという。日本は貿易立国だというのは誤解であり、先進国の中で貿易依存度は低いので貿易の抑制は可能だというのである。調べてみると(*注2)、日本の輸出依存度は14.4%(2017年度)で、ドイツ(39.2%)、フランス(20.7%)、英国(16.6%)、韓国(35.3%)、中国(18.9%)より低く、主要国で日本より低いのは米国(7.9%)くらいである。輸入依存度も同様の傾向を示しているし、また日本はGDP(国内総生産)世界第3位の巨大な国内市場を抱えている。国内産業を保護して、MMTの発動で内需拡大を行えば、自由貿易抑制の影響は最小限にとどめることは可能かもしれない。

ただし、輸出型産業への影響は大きいこと、また既に日本が加盟しているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を始めとする経済連携は、外交的な協調戦略と関連していることを考慮すれば、グローバル化の抑制は、一国では実現不可能である。国際的な理解を得ていくためには、なぜそうするのかという論理の構築を行い、共通の基盤で理解し合える国を増やすしかないだろう。

●「国家」と「市場」、あるいは「個人」

新自由主義は、自由経済を基本として、政府の介入を嫌い市場の自由を重視する。これに対してケインズ主義は、市場の自由に任せずに、政府が制限を加えることで、自由による弊害を抑制し、資本主義経済の持続性を図ろうとする考え方である。「国家」と「市場」の関係において、前者が市場を主体に考えるのに対し、ケインズ主義では国家が主体となって市場をコントロールしようというのである。

「国家」と聞くと、人によって様々なイメージをもつので、ここでは、中野が考える国家とは何かということを整理しておきたい。中野が言う国家とは、国民国家であり、その本質は戦争のための資源の動員だとする総力戦論の観点に立つ。戦後の福祉国家は、総力戦の平和利用なのであり、国家の本質は変わっていないとする。中野は社会的慣習としての制度(究極の形が「国家」)を重視する制度経済学の立場に立ち、人間は、主権国家によって権利を付与されて、かつその権利を保障されることによって「個人」という権利主体として存立しうると理解する。したがって近代的個人を「領域国家のインフラストラクチャー的権力に依存する存在」と位置づける。

一方、主流派経済学が分析の対象とする「個人」(「経済人」と呼ぶ)は――自己の物欲を満たすという利己的な目的を達成するために、利害損得を合理的に計算して自律的に行動する「個人」――だとする。したがって、その分析手法は――経済現象をこの「経済人」の合理的な選択行動に還元して説明しようとする「方法論的個人主義」――となる。制度経済学の人間観が、社会との関係を重視する「社会的存在」であるのに対し、主流派経済学では「個人」が単位となる。この点において、新古典派経済学は、「近代主義(合理主義、効率主義、進歩主義、個人主義)」から生まれたと言えるだろう。

日本は、明治維新と敗戦後の二度、欧米から「近代」を導入した。一度目が戦争に行き着いたという点で失敗したのは、「近代」の導入が不十分だった――戦前は非合理主義に固まり、非効率的で、個人主義が確立されていなかったから戦争に負けた――と考えた。そして敗戦によって迎えた二度目の導入は、「近代」を純粋に受容することを目指した。したがって戦後は、右派であれ左派であれ、個人主義に価値を見いだしており、合理主義、効率主義が平和と繁栄をもたらすという一種の信仰をもっていると言っていいだろう。中野が言うように、リベラルも保守も、新自由主義と親和性を持つのはそのためである。

また、戦前の反省からリベラルは、国家権力の行き過ぎによる私権の制限への過度の警戒心があり、それが「緩い」国家で良しとする方向に流れがちな点は否めない。そうした「緩さ」が今回の新型コロナ対策で露呈した日本の危機対応への脆弱(ぜいじゃく)さの大きな要因と言えないだろうか。中野の主張は、「国家」と「個人」の関係を再考すべきだという問題提起として受け取るべきだと思われる。

ただし、「社会」という視点を加えることを忘れてはならない。前述の松原の「共有資産」の概念を取り入れ、慣習法に基づく「社会的規制」によって市場主義を制御していく道を模索していくべきだと考えるからである。「国家」と「市場」あるいは「個人」の対置ではなく、「社会」という要素を含めることで対立は緩和され均衡点をみつけられる可能性が広がる。そしてそれは、「規制は悪だ」という新自由主義のプロパガンダに対抗していく、有力な手がかりを与えてくれるのではないだろうか。

◆論点2:MMTの政策は持続可能か

●主流派経済学からの批判とMMTの課題

主流派経済学と財務省が主張する財政健全化論は、財政赤字が続き、政府債務残高が膨張すると金利が上昇し、インフレが制御できなくなるので、財政規律を厳格にして財政支出を管理すべきだと言う。そうした主流派の観点からは、MMT派が高インフレにならないように増税や歳出削減によって財政支出を管理していくというのは、「財政の民主的統制の難しさ」を理解していないと批判する。

MMT派は、政治的にハードルが高い増税や歳出削減に頼らなくても、インフレ抑制メカニズム(就業支援プログラムなど)があれば制御可能だと反論しているが、こうした政策の効果については実証例がなく、よく分からないと言わざるを得ない。そもそも経済学は、社会科学であり、論理的に優れているといっても、あくまで仮説である。現実の政策に取り入れる場合は、財政政策主体でマクロ経済の安定的運営の持続が可能なのか、あるいは金利上昇局面では、経験値の蓄積がある金融政策とのいっそうの連携強化が必要とならないか、その場合、柔軟な政策修正が可能なのか、といった様々な角度からの検討が必要である。

また、MMTによって、政府は財源不要の財政支出という、ほぼ万能の力を手にすることになる。一方で、放漫財政になる懸念があるので、主流派経済学は、日本の過去の経験を踏まえて「財政の民主的統制の難しさ」を言うのである。中野は、日本が置かれた地政学リスクを国民が認識することで危機感を共有できれば、その国民によって支持された政府は、規律と緊張感を持った政策運営を行うことが可能だと考えているように読める。民主主義と国民を信頼せよということかもしれないが、仮に予算編成を厳しくしても、予算総額はすぐに現在の2倍程度になるのではないか。それをコントロールして、皆が納得する秩序を保つ仕組みをどう作るのかの説明が、必要だと思われる。

●財政政策か金融政策かの議論

主流派に属する新ケインズ派(左派)は、MMT派と貨幣論や財政論において基本的な理解に大きな違いはないとする(*注3)。両派は、財政支出にあたって国債発行や税収といった財源は必要ないと考えており、デフレ克服にあたっては、財政赤字を気にせずに積極的に財政支出を行うことで需要を創出すべきであるという政策で一致するという。また、新自由主義的政策によって格差が拡大し、社会的公正が失われているので是正すべきだという問題意識も共有する。にもかかわらず、協力して財政緊縮論の主流派に対抗しないのは、金融政策を巡って理論的対立点が存在するためである。

中野の論理は――将来に対する不確実性が高いゼロ金利の状態では、金融政策はその効果を失う。景気回復策として有効なのは財政政策である――というものだ。金利を低下させても借り入れ需要は増えないので、中央銀行による金利操作の効果に懐疑的である。これに対して、新ケインズ派は、MMT派は中央銀行の機能を受動的に見ていると批判する。現在の中央銀行の役割は、金利調節にとどまらず金融安定に拡大しており、より能動的に捉えるべきだというのである(*注4)。

両派の見解は必ずしもかみ合っていると言えないが、少なくともゼロ金利下においては、その政策に大きな違いがないのも事実だ。そして、新型コロナ危機対応で、各国政府が財政赤字での巨額の財政支出を行っているという現実が、主流派の考え方を変えつつある。例えば最近の報道(*注5)では、新自由主義の牙城と言われたIMF(国際通貨基金)が、財政規律重視から、財政赤字を気にすることなく効果的な分野に財政資金を投入すべきであると180度の政策転換をしていると言う。両派には、対立を横において、低金利、低インフレ、低成長の構造化を分析して、ポストコロナの政策にどう結びつけていくのかに関し、建設的な議論を期待したい。

◆論点3:日本でのMMT受容の可能性

●地政学リスクの存在

MMTは、「富国と強兵」の国を前提とする。したがって、日本においてMMTを導入するためには、「強兵」すなわち安全保障をどうするのかという課題が残る。日米安保があるので大丈夫という意見に対しては、中野は、米国の覇権による安定の時代が終焉(しゅうえん)を迎えており、地政学的にみて国家間の「領土と軍事力を巡る衝突」の時代の到来を予測する。米中対立に関しては、中国は、東アジアの地域覇権を要求しているだけで、それ以外の地域での米国の覇権には手を出す気はないと見ている。米国の選択肢は、中国との妥協で実利を取るか、対立を継続するかである。後者(対立)は、米国に多大の軍事的、経済的負担を強いる。前者(妥協)の場合は、日本が不安定要因(要するに邪魔)となると見るのである。

しかし、現在の状況は、米国が前者のシナリオを選択する可能性の低下を示している。米中対立の激化によって、米国が日本を始めとする同盟国との関係強化に動き出しているからだ。日本としては、米国陣営の一員として協力することが外交・安全保障上の第一選択肢になることはやむを得ないだろう。ただし、中国は日本の貿易相手国として輸出(22.9%)、輸入(27.0%)ともに第1位の国であり、経済的な関係は非常に深い(*注6)。特に製造業は、既に中国に巨額の投資を行って製造拠点を有しており、これらはグローバルなサプライチェーンに組み込まれている。中国との関係悪化が経済面に及ぶことを避けたい日本としては、外交面ではあまり表に出たくないというのが本音だが、先日の日米首脳会談のように、米国がそれを許さないことは明らかだ。また、軍事面だけではなく経済を含めた安全保障という考え方が、前面に出てきており、経済面への影響は不可避だと考えられる。

そうした環境下で日本がとるべき政策は、米国に迫られて仕方なく追随することではないはずである。日本が目指すべきは、①東アジア情勢の安定のための勢力均衡化に努力する②中国のプレゼンスを認めつつ日米中が共存できる新しい枠組みの模索への貢献――である。その役割を担う意志を明確に示して米中に発信していくこと、そして能動的に動くことが重要である。こうした政策をブレなく続けることで日本の存在感を増しておくことが、将来米国の方針が再び転換したときへの対応力をもつことになる。さらにそのような実績の積み重ねが、米国との同盟関係の再構築の可能性を高めることにつながると考える。米国の歴史学者ジョン・ダワーが言う平和憲法と日米安保という「檻(おり)」に閉じ込められている日本が、「檻」から出ていくには、周到な準備と地ならしが必要なのである。

MMTの日本における受容の可能性

MMTは日本においては政治的支持層が限定されるのではないかと考える。それは戦後日本が理想とした価値観と相いれないからである。「理想」とは、民主主義と経済成長による平和で豊かな日本の実現だ。それを支える「価値観」は、進歩主義、合理主義、個人主義、平和主義である。これに対し中野は、戦後日本は、米国の覇権体制の枠組みの下で「強兵なき富国」を実現できたのであり、平和憲法や価値観のおかげではなく、冷戦構造が有利に働いた結果に過ぎないとする。そして平和の代償としての対米従属を「主権の喪失」として批判し、地政学的変化に対応して国家主権の回復と従属からの脱却を主張する。このような理解は、日本の戦後が引きずってきた問題の本質を突いている。

中野は、こうした戦後イデオロギーから脱却して「脱戦後」体制を志向していくべきだと言っているのである。しかし、総力戦論がそうであったように、この考え方は日本においては保守派からもリベラル派からも疎まれるであろう。なぜなら、保守派にとっては、親米路線とナショナリズムの微妙なバランスが崩れる危険性があるからだ。一方、リベラル派にとっては、進歩主義、個人主義といった近代的価値観と、信条としてきた平和主義や憲法9条の否定と映るからだ。したがって、日本においてMMTは欧米で見られるようにリベラル派から支持されることはないし、新自由主義的傾向を強めている自民党主流派を動かすこともできないだろう。

しかし目を外に転じると、地政学的に動きだした世界が眼前に広がっている。また、ICT(情報通信技術)革命やDX(デジタルトランスフォーメーション)によって世界の経済は急速に変化し、社会を変えつつあるが、それが国家と個人との関係にどう影響するかまだ十分に見えてこない。確かなのは、1930年代と同じように、国家の役割は増すばかりだということである。

◆おわりに

現在ではあまり見かけなくなったが「政治経済学」という言葉がある。経済現象を解明するために、社会構造や政治制度と経済の関係を考える学問を指す。これに対して、社会や政治を所与のものとして、純粋に経済現象だけを研究対象とする学問を「純粋経済学」と呼ぶ。主流派の新古典派経済学は純粋経済学であり、経済現象を数学を駆使して深掘りすることに熱心であるが、政治には立ち入らない。

現在問題となっている格差は、経済学だけでは解決できるものではなく、政治や社会構造の分析を伴わなければならない。そこで政治経済学の出番となる。かつては政治経済学と言えば、マルクス経済学が代表していたが、今ではほとんど影響力を持たなくなったので、ケインズ経済学(左派)と制度経済学、地政学などの幅広い学識を駆使して、中野が論陣を張っているのである。したがって、本書をMMTの本だと思って読み進めると、どんどん間口が広がっていってついていくのに苦労する。といっても、それで中野の『富国と強兵』がもつ魅力が減じるわけではない。

『富国と強兵』の魅力は、常識や既成概念を覆す点にある。常識を思い込みだとし、既成概念を信仰にすぎないと言う。切り口は鋭い。政治経済学なので対象は経済や金融だけではなく、政治や社会構造を対象とする。そして、現在の世界を近代の第2次グローバル化の終焉期であり、歴史の変わり目と捉える。20世紀初めの第1次グローバル化の終わりには、覇権国と新興国の対立激化により、戦争に至ったことを歴史の教訓とすべきだと警鐘を鳴らす。しかし、日本は戦後、「強兵なき富国」を実現したと信じて、平和憲法と日米安保の「檻」から出ようとしない。米国の覇権の弱体化と中国の台頭に危機を見る中野は、日本にそうした戦後体制からの脱却を迫るのである。そして、それを財政面において可能とする武器がMMTなのである。

中野が提示するのは一種のイデオロギーである。中野が批判してやまない新自由主義もイデオロギーである。イデオロギーというものは、良い面と悪い面の両面をもっている。そこで、本書を基に二つのイデオロギー(中野本人の言に従い民主社会主義とした)の特徴を整理してみた。

●新自由主義(イデオロギー1):合理主義、効率主義、進歩主義、利己的な個人、個人主義、市場原理主義、自由貿易、グローバリズム、世界市民(世界は一つに収斂)、国際主義(国際協調)

●民主社会主義?(イデオロギー2):非合理性や非効率性の許容(特に人間労働)、個人が依存する制度としての国家、慣習や慣行の集積としての社会、保護主義、社会的規制、国民国家、国民主義(ナショナリズム)

これとは違う視点からの新自由主義批判もある。ケインズ派の松原隆一郎は、新自由主義の理論的支柱である新古典派経済学を「効率・公正」モデルと呼ぶ(イデオロギー1)。そして、「効率」は経済における市場の自由、「公正」は政治における民主主義によって実現するので、民主自由主義と馴染みやすいと指摘する。それに対して松原は、「不確実性・社会的規制」モデルを提唱する。新古典派の市場化、効率化が資源最適化をもたらすという命題を批判して、自然や人間労働を共有資本という概念でくくり、社会的規制で保護するべきだと言う主張である。上記のイデオロギー2に近い考え方だ。

二つのイデオロギーを比べてみると、戦後日本が目指してきたのは、保守であれリベラルであれイデオロギー1であることが分かる。日本は、戦前の軍部の非合理性が悲惨な戦争の主原因だと考えて、公正で効率的な社会、すなわち近代主義の実現を目指してきたのである。その結果、経済的繁栄と平和を手に入れ、自由と民主主義を実現して先進国の仲間入りを果たした。これが、日本人が今も心の支えとしている戦後の「物語」である。

それと対置されるイデオロギー2は、近代主義に批判的であり、その方向をさらに進んでいくと保守主義に至る。佐伯啓思(*注7)が主張する「脱成長」論の世界に近づいていくのである。しかし中野は、保守主義には行かない。自身を民主社会主義だと言い、近代主義の批判者としての保守主義に入っていかない。中野はその理由を説明しないが、国家論や成長に対する考え方の違いがあるものと思われる。中野は、国民国家という制度によって資本主義が発展したと考えているのであるから、問題解決は国家に託すしかないということになる。また、MMTによる経済活性化を唱えているように経済成長も否定していない。

本書における中野の主張の核心は「国民国家からの日本の再出発」である。MMTを考えるのであれば、この言葉の含意を理解しなければならない。ナショナリズム(国民主義)は、MMTに進むための踏み絵なのである。

<参考書籍>

『富国と強兵――地政経済学序説』中野剛志著、東洋経済新報社(2016年12月初版)

『TPP亡国論』中野剛志著、集英社新書(2011年3月初版)

『グローバリズムが世界を滅ぼす』中野剛志著、(2014年)

『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』中野剛志、柴山桂太著、集英社新書(2017年6月初版)

(*注1)拙稿第6回『「共有資産と社会的規制」―資本主義の問題点への対応 』

(*注2)「輸出依存度:各国別2018」総務省統計局

(*注3)松尾匡立命館大学教授(1964年〜)の『反緊縮三派の議論の整理』(2019年11月景気循環学会68号)

(*注4)野口旭専修大学教授(1958年〜)の『MMTの批判的検討』(ニューズウィーク2019年7月23日〜8月20日全6回掲載)

(*注5)日本経済新聞(2021年4月16日付)『「財政赤字は悪」今は昔』参照。なお、同記事は英国のフィナンシャルタイムスのコメンテーターのマーティンサンブーの記事を翻訳したもの

(*注6)2020年度の速報数字。なお、香港を含めると、輸出27.9%、輸入27.1%。資料は財務省貿易統計速報(2021年4月19日)

(*注7)佐伯啓思(1949年〜)京都大学名誉教授。経済学者

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