п»ї BI (Biomimetic Intelligence)『週末農夫の剰余所与論』第12回 | ニュース屋台村

BI (Biomimetic Intelligence)
『週末農夫の剰余所与論』第12回

4月 16日 2021年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

o 株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

農園に春が近づいている。農閑期も終わりだ。正確な語源は調べてはいないけれども、アグリカルチャー(農耕)はカルチャー(文化)の始まり、食の安定が文化活動の条件だったという話を読んだ。こういう解釈は無数に考えられるし、正解はないと思う。しかし、植物が哲学、もしくは人びとの思考に与えうる影響は、過小評価されてはいないだろうか。人間と動物の違いや、神や唯物論の議論はあっても、植物が中心となる哲学はほとんどない。その例外を紹介しよう。

エマヌエーレ・コッチャ(1976年イタリア生まれの哲学者)の『植物の生の哲学-混合の形而上学』(勁草書房、2019年)は書評が多く、かなり話題になった書物のようだ。文章のレトリックは現代フランス哲学だけれども、京都の稲荷神社でのインスピレーションから醸成された内容は、脱西洋的で、日本人には親しみやすい。コッチャは哲学者として、人間中心の近視眼的哲学が不十分であり、装置の眼による老眼(遠視)的物理学も不十分であって、植物を媒介とする世界観及び生命観が、哲学と物理学、もしくは形而上学的な世界の理解を刷新すると確信している。筆者は最大の賛意を表明したいけれども、数学はどこに行ったのかと疑問に思った。

おそらく「混合の形而上学」という副題が重要で、コッチャは、植物には西欧の二分法的論理にはおさまらない、生命のダイナミズムがあると見抜いている。筆者の数理主義的理解では、「混合」とは「アダプティブ」の意味で、「A or B」ではない、「α・A + β・B」の生存戦略(または表現)を意味していると考えたい。植物は優れて数理的なのだ。少なくとも、進化論的には植物は動物よりも新しい、最も進化した生命であることが、最近の研究で確実になっている。葉の理論-世界の大気、根の理論-天体の生命、花の理論-理性のかたち、が本書の中心になっている。その全体をまとめる哲学は、筆者の人生ゲームにおける「ふりだし」でもある、スピノザの「神すなわち自然」だ。コッチャの神は稲荷神社の神々だったので、鎮守の森に「植物すなわち自然」を見出した。

哲学の無い技術は容易に模倣(もほう)される。AI(人工知能)技術は、おおいに哲学的に議論されてきた。特許という意味では、中国は米国のAI技術を模倣して追従しているけれども、技術の内容はGoogle、Microsoft、IBMなど、米国企業が独走している。米国の哲学だから、知能とはいっても車や機械が媒介となっている。そこで、哲学そのものを変革して、新しいAI技術が作れないだろうか。最近、AI・人工知能EXPOという展示会に行ってみた。初回から今回の第5回まで、紆余(うよ)曲折はあるけれども、それなりに毎回楽しんでいる。新型コロナウイルスの影響で、米国や中国の企業が参加していないため、国内企業の内向きな姿勢が目立っていた。良い意味で内向きなのは、「教育」に力を入れていることで、将来性はある。しかし、実務としては目前のビジネス課題しか取り上げていない。大企業のビジネスを補完するだけで、全く破壊的ではない。

バイオミメティックス(生物の構造や機能、生産プロセスを観察、分析し、そこから着想を得て新しい技術の開発やものづくりに生かす科学技術)をAIに応用するBI(Biomimetic Intelligence)を考えると、コッチャの「植物の生の哲学」に学ぶところはたくさんある。日本でしか着想できないAI技術があるはずだ。AI技術を社会システムや社会サービスに実装する場合、車や機械の知能とは別次元の哲学的議論が必要になるだろう。哲学を刷新すれば、日本のAI企業にもチャンスはある。今回は、「ニュース屋台村」の別シリーズ『みんなで機械学習』の番外編となってしまった。農園の春は、冬を越したタマネギとニンニクが元気に肥大化し、春植えの苗がにぎわう、年間で最も忙しい季節となる。今年の作付け計画は、「英国野菜をおいしく食べる」というテーマで取り組んでみよう。

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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。

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