歴史から紐解くタイの政治の現状
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第138回

2月 22日 2019年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住21年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

タイ王室のウボンラット王女をタクシン派の国家維持党が首相候補として擁立したが、わずか2日で「取り下げ」の形で決着をした。きわめて唐突かつ衝撃的な「事件」であったが、今回の出来事に対する日本の方々からの反応を、私がなぜ奇異に感じたかをつづってみたい。

◆王女の首相候補の取り下げまでの動き

まずは事の顛末(てんまつ)について少し遡(さかのぼ)って振り返ってみたい。今から5年前の2014年、民主党副党首(当時)であったステープ・トッアクスパン氏が「反汚職」を旗印に反政府デモを組織し、タクシン元首相の妹であるインラック首相(当時)に対して政治行動を起こした。

この政治的混乱が1年近く続く中で、その収拾を図るため2015年5月に入って陸軍がクーデターを起こし、タイ国土の全権を掌握した。プラユット・チャンオチャ陸軍総司令官が8月25日にはラーマ9世(プミポン国王)の任命を受け、第37代首相に正式に就任した。
プラユット首相は就任以来、それまでの政治的な混乱の収拾に努め、政治的な安定を取り戻した。また2016年10月に崩御されたラーマ9世の葬儀をとり仕切るとともに、ラーマ10世(ワチラロンコン国王)への王位継承を円満に決行した。

しかし、クーデターで成立した軍事政権への批判は国内外で強まっていく。こうした状況で、軍事政権は憲法改正、選挙法改正など民政移管に向けた布石をゆっくりしたペースで進めてきた。そして遂に今年3月24日に下院選挙が行われることが決定し、選挙人登録と各政党が推薦する首相候補登録が行われていた。

こうした中で2月8日タクシン派の政党である国家維持党がワチラロンコン国王の姉であるウボンラット王女を首相候補として選挙管理委員会に届け出た。ところが当日深夜、ワチラロンコン国王が「王室が政治に関与するのはタイの慣習と伝統と文化に反する」との声明を発表し、王室メンバーの政治的中立を唱えた。翌9日午後には国家維持党がウボンラット王女の首相候補の取り下げを表明したのである。当初の段階でこの一連の動きに関して私のところに聞こえてきた日本の方々の受け止めは、以下のようなものであった。

「国民に人気のあるタイ王室がタクシン派を支持した。これによりタイで民主的政治の樹立が確実になった。民主勢力と王室が手を組んだ歴史的な一日だ」

こうしたコメントの底流には、「民主勢力対反民主勢力」という2極に単純化し勧善懲悪的な判断をしているような気がする。

◆タイの華僑と国王の存在

しかし、私が考えるタイの社会・政治・文化はもっと複雑であり、入り組んでいる。

そもそも現在のタイ人の祖先は中国・揚子江の中流域に住んでいたようである。漢民族から「東夷南蛮」と呼ばれていた異民族の中で、「西南夷」といわれる人たちである。タイ族は漢民族の圧力で7世紀ごろから中国・雲南省に移動してきた。11世紀に入ると、さらに彼らはモンゴル族の圧力によってメコン川やチャオプラヤ川沿いに南下を進める。

もともとクメール族やモーン族の居住地であった現在のタイの地は、急速に南下してきたタイ族に侵食され、それぞれの川の流域にラーンサーン王国(ラオス・ルアンパバン中心)、スコータイ王国(タイ・スコータイ中心)、ランナータイ王国(タイ・チェンマイ中心)、アユタヤ王国(タイ・アユタヤ中心)などが成立していった。13世紀から14世紀にかけて成立したこれらのタイ部族の国家は互いに戦争をしながらも、部族国家としてアユタヤに統合されたスコータイ王国を除き長く存続した。アユタヤ王朝の最盛期やバンコク王朝になった当時のタイはかなり広大な領土を有したが、地方に割拠する部族を束ねる緩やかな支配関係を構築していた。

19世紀に入り西洋列強のアジア植民地支配が強化される中、フランスの圧力によりタイも領土が徐々に割譲されていく。タイはこのフランスに対抗するため、ドイツの力を借りてタイ全土に鉄道の敷設を図った。この鉄道の敷設により初めて現在のタイの経済圏が成立した。

鉄道ができるまでは人や物の運搬の主力は水運にある。ヨーロッパの大都市はすべて海や川に面している。「イサーン」と呼ばれる東北部は、メコン川流域のラーンサーン王国の領土であったし、チェンマイを首都とした北部のランナータイ王国はビルマ(現ミャンマー)の後背地であった。これが鉄道の建設によって現在のタイの姿となる。21世紀初頭の話である。こう考えてくると、バンコクを中心とした現在のタイができてからまだ150年強しかたっていない。

このため、もともとアユタヤ王国の強い影響下にあった現在のタイ中部・南部とチェンマイなどのタイ北部、さらにはイサーンと呼ばれるタイ東北部は経済的にも文化的にも異なる要素を持っているのである。タイ北部や東北部の人は、時としてタイ中部の人に対抗するのである。

更にタイの政治を考える上で忘れてはならないのは、華僑の存在にある。14世紀の明の時代から本格的に始まった中国人の海外移住であるが、海のシルクロードの中継基地として栄えたアユタヤ王国において中国人はその商才を買われ、ピークには約3千人の中国人が住みついていたといわれている。1767年にアユタヤ王朝がビルマのコンバウン朝に滅ぼされると、タクシン将軍が現在のバンコクの対岸にあるトンブリーに新たな王朝を建て、ビルマ軍を撃破した。このタクシン将軍の父親は、中国・広東省潮州出身の華僑であった。タクシン将軍はその後奇行が目立ち、人心が離れたことにより、チャオプラヤ・チャックリー(ラーマ1世)によって取って代わられ、現在のチャックリー王朝となる。しかしタクシン将軍が潮州系華僑の血を引いていたことから、タイではその後、潮州系華僑は「ロイヤルチャイニーズ」と呼ばれるようになり、多くの潮州人がその後タイに移住してくる。

更に19世紀から本格化する西欧列強によるアジアの植民地化政策の中で、タイは叡智(えいち)を尽くし、独立を保つ。西欧列強はアジアの植民地において華僑を自分たちと現地住民の繋(つな)ぎ役として利用。西欧列強の手先となった華僑は東南アジア各国で現地人の憎しみの対象となったが、タイは独立を保ったためタイ人と華僑の民族的融合が進んだ。

1840年から起こった2回のアヘン戦争で中国が英国に敗れると、貧しさに耐えかねた中国沿海部の住民(広東省人・福建省人・客家など)が大量に東南アジアに染み出してくる。まだこの頃の中国人移民は出稼ぎ感覚で中国大陸に家族を残し、一定の金が貯まると本国に戻っていった。

ところが1949年に共産党による中華人民共和国が成立すると、中国共産党は海外にいる中国人の本土への帰国を禁止する。海外にいた中国人は否応なく東南アジアに住みつかなければならない事態となった。この前後にタイに住みついた人が、タイにおける「華僑」と呼ばれる人たちである。

当時タイに住みついた華僑は、バンコク中華街で「強力」(ごうりき)と呼ばれる荷受人になったり、タイ南部のゴム園の労働者として働いたりした。しかし、これらの華僑の一部は必死になって働き、財を成すようになる。「CPグループ」「サイアムモーターグループ」「サハグループ」「セントラルグループ」に代表される人たちである。商売により力を付けてきた華僑は自分たちの意見を政治に反映させるため、民主党をその拠り所にした。

タイは、チュラロンコン大王(ラーマ5世)の前後の治世で近代化を成し遂げたが、ラーマ7世下の1932年に立憲革命が起こり、国王は国外に逃亡する。この後しばらくは「タイ国王の権威」は失墜し、国王は半分国外亡命状態にあった。この事態を変えたのが、1959年から第14代首相に就いたサリット・タナラット将軍である。彼は徹底した恐怖政治により、当時荒廃していたタイの政情・治安の健全化に尽くした。彼の強権姿勢については後世批判も多いが、一方で1960年から開始した「国家経済開発計画」により海外からの投資を呼び込むとともに金融制度の整備を図るなど、現在の多くの経済的繁栄の礎を築いた。

更にスイスから戻った当時のプミポン国王(ラーマ9世)と二人三脚でタイ全土を回り、タイ国王への国民からの敬愛を取り戻すとともに挙国一致体制確立に尽力した。前述のとおり、タイに鉄道が敷設されてようやく現在のタイ経済圏が確立され始めた時期であり、プミポン国王の全国行脚はタイの統一に極めて重要なことであった。こうして1990年代のタイは国王への敬愛と軍部ならびに官僚組織をおさえたタイ人と民主党をベースにした華僑による利益争いの様相を見せる。

◆タクシン氏の登場とその盛衰

これに新たな政治の風を吹き込んだのがタクシン・チナワット氏である。彼はそれまでのタイの主流の華僑であった潮州系ではなく「客家」出身である。タクシンは従来の潮州系華僑と際立って異なる面があった。

彼は陸軍学校から警察官僚の道を歩むが、商売で財を成してきた潮州系華僑とは全く異なるキャリアである。彼はこの間に軍部・警察に多くの知人・友人を得る。内務省管轄の警察官僚になると、タクシン氏は官僚組織に属する利権に目をつける。いち早く携帯通信の将来性に気付き、携帯電話事業会社AIS(アドバンスド・インフォ・サービス=タクシン氏が創業したシン・コーポレーションの子会社)の権利を安く譲り受け莫大(ばくだい)な財産を手にする。ほかにも金融・運輸など、従来タイ人官僚が有していた利権を手に入れていく。

タクシン氏が潮州系華僑と大きく異なるもう一つの点は、チェンマイなどタイ北部を地盤としたことである。これまで見てきたように、現在のタイの主流を構成するのは、アユタヤ王朝から続くタイ中部と南部である。タイ北部はランナータイ王国として長い間独立を続け、いまだにタイ中部への対抗心が強い。現にタイ北部ではプミポン前国王の代わりにタクシン元首相の肖像画が掛けられている家も多いと聞く。こうした風土を利用して、タクシン一族はタイ北部において盤石の選挙基盤を作り上げている。

2001年、タクシン氏が第31代タイ首相に就任すると、タイの政治はタイ人・潮州系華僑・タクシン派の三つの勢力による利権争いとなる。タクシン派と呼ばれる人は、私の見立てでは「元共産党員の左翼勢力」と「タイの新興華僑」、更にあとから合流した「タイ東北部を中心とした地方ボス」の混成軍である。

1997年のアジア通貨危機以降の経済不況にあえぐタイにおいて、元共産党参謀が提唱した「農民救済策」導入により、タクシン氏率いるタイ愛国党(当時)は選挙で大勝する。この政策によってタクシン氏は「大衆の味方」なるイメージができ上がり、民主的選挙で過半数を獲得した初めての政権となった。

しかし政権を握ったあとのタクシン内閣は、彼のもう一方の代名詞でもある「金権政治」を行っていく。2006年以降の政治的混乱の中で、軍部クーデターで国外亡命を余儀なくされたタクシン氏は、軍部に対抗する「民主化の旗手」のイメージを持つことになる。こうして「大衆の味方」「民主化の旗手」のイメージが人々に強く残ることとなった。

しかし、タクシン氏が亡命によってタイを追われてから既に10年の月日がたつ。若い人たちは実際のタクシン氏の姿を見ていない。なぜタクシン派は選挙で第一党を取り続けるほど強いのであろうか? 「大衆の味方」や「民主化の旗手」のイメージだけで勝ち続けられるのだろうか? このことをタイ人有識者の方に聞いてみた。すると答えは、タクシン氏が2001年からの愛国党政権当時に行った「農民救済策」にあった。30バーツ医療制度と農村百万バーツ基金の創設である。

30バーツ医療制度により、人々は病気やけがなどの恐怖から救われた。農村百万バーツ基金は借金に追われた人たちの救済資金となった。この基金の元手は無利息であったため、現在では各農村においてのこの基金が7百万~8百万バーツまで膨れ上がり、いまだに農民の救済資金として活用されている。農民が今でもタクシン氏の政策の恩恵を受けているのであれば、タクシン派が選挙に強いのもうなずける。

◆3月24日投票へ激しさ増す選挙運動

こうした歴史的背景の中で、3月24日の投票に向けた選挙運動が行われている。タイ人を中心とした親軍政党、潮州系華僑による民主党、タクシン派、更にタクシン派から一歩距離を置いた東北部の地方ボスたちによる政党などが権謀術数を繰り広げる中で、今回のウボンラット王女担ぎ出しが起こった。これから先、まだ何が飛び出すかわからないタイの政治である。

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