ランダムなひとびと
『住まいのデータを回す』第13回

6月 21日 2018年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

万能計算機と共に生きてゆく「ランダムなひとびと」は愛の物語であり、「弱い宗教肯定論」となる。「弱い宗教肯定論」は社会システムとしての宗教を、国家や経済を肯定する程度には肯定する立場だ。神の存在や個人の信仰の問題には出来るだけ寛容な立場をとる。神は存在しないと強弁する無神論とは一線を隔てている。

「ランダムなひとびと」の登場人物は20世紀なかごろのニューヨークで活躍した画家デ・クーニングが描いた「ウーマンⅠ」から「ウーマンⅥ」であり、「風景としてのウーマン」と後期の風景抽象画が舞台背景となる(※参考1、WHAT^第6回)。デ・クーニング自身も「ランダムなひとびと」の仲間なので、貧乏な生活を女と酒とともに楽しんだ。しかし彼の絵は現在、ピカソやポロックよりも高額で売買されている。

万能計算機と共に生きてゆく「ランダムなひとびと」の本当の時代背景は21世紀なかごろのはずだ。デ・クーニングは少なくとも100年後でもありうるイメージを描いた。大雑把に言って、経済学者ケインズもデ・クーニングと同時代だ。しかし、ケインズには「ランダムなひとびと」は見えていなかった。アダム・スミスのように完全に合理的なひとびとには疑問を持ったけれども、ランダムな生き方は想像できなかったのだろう。

筆者の「弱い宗教肯定論」では、完全にランダムな現象を生成できるのは「神」でしかない。万能計算機と「ランダムなひとびと」は疑似的にランダムであるにすぎない。それでも「合理的」な判断が「ランダムネス」を本質とするデータの統計的解釈によって支えられることを信じている。とても有名な動画なのでご存知の方も多いとは思うけれども、電子の量子力学的な振る舞いを動画とした外村彰(物理学者、1942~2012年)の実験をぜひ見ていただきたい(※参考2)。電子の波動性はランダムな振る舞いの統計的な結果としてしか観察されない。しかし、観察以前の量子力学理論としては、むしろ波動性のほうが本質的な役割を果たしている。少なくとも、場の量子論を信じる限りにおいては。

ケインズも数量的には計算できない確率の存在を想定していた(※参考3)。しかしケインズは外村彰の動画以前の時代であったため、確率の論理解釈にこだわり、ラムジーの主観確率の議論に反論できなかった。数量的には計算できない確率の代表例はチャイティンのΩ(※参考4、プログラムの停止確率)だろう。数学的に計算できないことが証明されている。しかしΩは実数であり、Nビットの万能計算機を指定すれば、近似的には計算できる。そもそもコルモゴロフの測度論的確率論は実数の世界で構成されているのに、Ωのような実数としての確率の存在は無視されている。Ωが円周率πのように何らかの幾何学的な意味を持っていたら理解しやすいのだけれども、ランダムな変換で不動な存在は神しか想像できない。しかも、人間の主観を超えていることだけは確かだ。

「ランダムなひとびと」はデタラメなひとびとだ。しかし、デ・クーニングのようにきれい好きでもある。デ・クーニングはポロックの屋根裏部屋の天窓が汚れていたことを気にしていたそうだ。光が差し込む天窓はきれいにしておきたい。特に深夜の月光は美しい。自分たちが寝る床はどうなるのだろう。デ・クーニングのアトリエの写真では、絵具が散らかっていることは確かなようだけれども、ゴミやチリは掃除しているに違いない。「ランダムなひとびと」であれば、AI(人工知能)自動掃除機と共生する。

デ・クーニングは晩年、認知症を患いながら抽象絵画を描き続けた。このデ・クーニングの”NON STOP”について、いまだ評論できる研究者はいないようだ(※参考5)。「ランダムなひとびと」はデ・クーニングの晩年の作品を理解できるのだろうか。いまだランダムではない筆者にとって、これらの作品は強い違和感でしかなかった。喪失感を忘却する意思、デ・クーニング最後の冒険を見届けたい。

◆序章

セザンヌの構図はどっしりとした三角形で、背景はあえて描かれない欠損としての空間を部分的に含んでいる。デ・クーニングのフレームは四角形で、描かれる女たちはデフォルメされても、フレームはランダムなひとびとに見えない枠をはめている。抽象的な風景を描くときは、キャンバスがフレームとなり、やはり四角のフレームからはみでることはない。初期の女たちは女であることを自己主張し、鑑賞者はそのエネルギーに圧倒される。後期の女たちは波面に映りゆらぐ女となり、時には男でもあり、ペンキのようなピンク色が肌色の記号となり、表面しかない身体が描かれる。

デ・クーニングの四角いフレームは、ごくまれに90度回転する。時計回りなのか反時計回りなのか重要な区別となる。セザンヌの構図に囚(とら)われた社会システムは、トップダウンかボトムアップしか選択肢が無く、独裁者と革命の歴史となった。四角の社会的フレームは、ごくまれに90度回転して、左右にミドルアウトする。実際は振り子でしかない運動であっても、回転運動の本質は変わらない。回転運動は波動であり、複素数によって記述される世界である。ごくまれに90度回転するとき、実数軸と虚数軸が入れ替わり、ランダムなひとびとの運動の本質に、良い意味でも悪い意味でも波動性があることを想像させる。

◆第1章-人類の戦争責任

ザ・ホロコーストと広島・長崎は「合理的」な人類の極北、超えてはならない一線を越えてしまった歴史的な事実だ。福島県白河市にあるアウシュヴィッツ平和博物館からのレポートが「ランダムなひとびと」の始まりの物語となる。終わりの物語にならないように、物語は「NON STOP」な物語となる。アウシュヴィッツと核兵器の「合理性」を合理的に説得できない限り、古典派経済学に戻ることはできない。おそらくケインズのような合理的な政府による修正では、戦争も含めた社会システム全体の合理性を救済できないだろう。ランダムなひとびとが作り出す膨大な数の独立な社会プロセスが、進化論的な安定性と不安定性の結果として、統計的な意味での「合理的」な社会システムの基盤となる。

知識としての生命の進化から学ぶことは多いけれども、人類の進化は、知識による修正はあまり役に立たず、ランダムな変動の結果でしかないように思われる。人類は地球を埋め尽くし、大型動物を絶滅へと追いやっている。人類が最大の動物となったとき、恐竜化した人類も絶滅するはずだ。人類にどの程度の時間が残されているのか分からないが、人類が進化できるとすれば、指数関数的な増殖ではなく、複素数の指数関数として円環を作り、複素数の対数関数のような折り畳みの世界で生きることになるだろう。人類の脳はすでに折り畳みの世界を実装している。偉大なセザンヌの世界ではなく、アルツハイマー病に至るデ・クーニングの世界を探索しよう。デ・クーニングの絵画に複素数を見出し、進化論を複素数化する試み、もしくはデ・クーニングの絵画にランダム行列を見出し、進化論をランダム行列化する試み、どのような試みであっても、決して古典的ではない試み、そんな試みの一つでも成功すれば、人類が新しい文明へと進化するチャンスもゼロではなくなる。

◆第2章-回るおもちゃ

巡ることと回すこと、ランダムなひとびとの隠された波動性はスピンのような自立するコマの運動に起因している、という仮説について考えてきた。数学の自由は哲学の自由よりも強力なので、物語のスタートにはふさわしいだろう。デカルトがデカルト座標を数学に導入し、中世からの決別を決定づけた直後、スピノザが哲学の自由を求めて近代への扉を押し開き、ライプニッツがフライングスタートで近代の向こうに行ってしまって、死ぬときにやっと近代の始まりに戻ってきて、スピノザ主義者として死んでいったように、「ランダムなひとびと」もたくさんの登場人物が活躍するだろう。活躍するのは、近代の始まりのように固有名詞としての登場人物ではなく、大量生産される商品かもしれないけれども。

何でもかんでも回してしまう、女や進化論も回してしまうような、でたらめな想像力が必要だ。デ・クーニングは粘土を柔らかいブロック細工のように積み上げる身体の彫刻を作った時期がある。こういったアート作品を作るブロックおもちゃを開発してみたい。レゴを教材とするコンサルテーション・プログラムがあるので、「回るブロック」で何でも回してしまう、想像力開発も可能だろう。数学や哲学よりも、ランダムなひとびとには「おもちゃ」のほうが似合う。三角ではなく、四角のフレームワークを作って、右や左に回して楽しもう。

◆第3章-経済の円環

経済学は工業製品の大量生産が可能な時代になったとき、生産者の経済学として始まった。生産手段の一部としての労働者とその家族が消費者だった。知的労働も含めて、労働者の役割をロボットと万能計算機が代替することが可能な時代になると、少数の資本家と大多数の消費者の時代となる。消費者の時代では、経済活動にとって貨幣よりも大切な「データ」を生産するのは消費者となる。消費者がデータの生産者として経済の円環を作ることになる。データの生産者としての消費者を生活者と呼ぶことにしよう。

少数の資本家とその仲間である組織労働者は金銭により生活手段を購入する。生活手段としての生活サービスは生活者のデータを使って開発された生活ロボットが提供する。大多数の非組織労働者は生活者でもあり、生活データを生産するけれどもデータを販売しない。データは生活者のものであり、自分のデータを削除する権利も生活者が保有している。生活データを販売しないのは、血液を販売しないことよりも自明なことで、自分の遺伝子情報を生活のために販売する時代があってはならない。生活データを生産し、生活データを使って生活モデルを構築すること、それが生活者の役割となる。生活力のない富裕層に生活モデルを作成する能力はない。生活モデルは健康の維持や病気の治療に関する知識も含まれるので、非常に重要な、最高に価値のある消費財(実際は複製と修正が行われ、消費されることはない)となる。

少数の資本家とその仲間である組織労働者は生活サービスを安定的に購入できるように、生活者と共に生きる社会を安定化させる努力を怠らない。ロボットや万能計算機を生産し保守管理することもロボットや万能計算機の役割なのだけれども、生活モデルだけは生活者にしか作れない。生活モデルにはボランティア活動などの様々な社会プロセスのモデルも含まれている。生活者は社会プロセスの実践者であり、実践的プログラマーなのだ。

大きなリスクもある。完全雇用が実現して大多数の労働者が生活サービスに依存することで、生活データが生活サービスと円環を作り、でたらめだけれども生活力のある生活者がいなくなるリスクだ。経済学においてひとびとの望みがかない、アーティストが絶滅する。そして貨幣の化身となった生活データが空回りして、人類は絶滅する。

◆第4章-衣食住の文明論

生活力とはそもそもどのような力なのだろうか。食品を生産する力は、農業として治水の技術と共に古代から中世に至る文明を作り出した。衣料品を繊維から機械的に生産する技術は中世から近代へと、機械文明を作り出して現在に至っている。住居に関連する技術や力は農業以前に人類に「火」を与えた神話世界のものなのだろうか。量子機械として、火よりも光が活躍する時代の向こう側に、再度、住居に関連する技術や力が大きな社会変革をもたらすのではないかと思う。

教会や寺院は明らかに住居ではない建築物だけれども、住まいを失ったひとびとにとっては住居にもなりうる。EU(欧州連合)の難民問題は他岸の問題ではなく、私たちは突然多数のひとびとが住まいを失うリスクと共に生活している。宗教的な建造物は美しく立派なのに、仮設住宅はあばら家だ。全ての生活機能を備えた、すなわち衣食住の保守管理の機能を有する未来志向の美しい仮設住宅を造ることはできないのだろうか。生活支援機能を備えた高齢者住宅はIT技術の実験場でもある。生活支援機能ではなく、生活そのもののデータ化、すなわち衣食住の保守管理の全てをデータ化する住宅ができれば、そのような住宅が1万戸以上あれば、多くの健康問題が解決するだろう。

量子力学の多世界解釈のような住居を想像してみよう。全ての生活関連の工業製品がシェアされる世界、本人が東京からニューヨークに移動すると、部屋の中身も全て移動している、実は同じものが近くの倉庫から配送され、同じ場所に配置される。究極のホテル生活のような、個人の好みでカスタマイズされた仮設住宅だ。個人の好みはあるけれども、物を所有するという概念はない。国内の移動であれば、冷蔵庫の中身を同じように配置することも不可能ではない。自分の好みのビールが決まった本数冷えている。住居は公共機能の一部となり、定住する必要が無くなる。難民が観光客となり世界旅行をする。とても気持ち悪い世界なので、救いを宗教に求めよう。個人の好みで宗教を選び、教会が大きな家族の居間のように機能する。私なら飲酒が許される宗教を選び、居酒屋が教会となる。公共的な居間としては、学校や病院よりは教会のほうが居心地よさそうだ。教会はプライベートだけれども公共に開かれた住空間として機能することになる。教会の裏庭には大きな果樹園と菜園がある。教会は工業化されないプライベートな世界の保護区なのだ。

◆第5章-揺らぐ波面としての言語

万能計算機と「ランダムなひとびと」が共生・共進化する時代にふさわしい政治体制として、トップダウンでもボトムアップでもない、左右のミドルアウトを構想している。現在の民主主義は、ボトムアップな手続きによってブレーキをかけたトップダウンな政治体制だ。政治権力がごく一部の政治家に集中し、選挙や暴動によってボトムアップに支えられている。品質管理技術を学習すれば、トップダウンやボトムアップの品質管理システムでは不十分で、ミドルアウトのプロセスの重要性がよく理解できる。リスク管理ではミドルアウトのプロセスは不可欠になる。システムに依存していたら、想定外の事態において対応が遅くなり、リスク管理はできない。迅速なリスクコミュニケーションはツイッターの得意分野で、ミドルアウトなプロセスのお手本となる。

トップダウン、ボトムアップそして左右のミドルアウトの全てに共通しているのは言語であって、トップダウンの指示、ボトムアップの報告そして左右のミドルアウトの提案、全て言語の特殊な機能を使っている。言語は実際に観測され記録される粒子性とともに、「人間関係の場」において発語される以前から備わっている波動性を持っている。左右のミドルアウトの提案は、言語の波動性に注目することで、時計回りや反時計回りの言語の位相を区別できる。左右のミドルアウトのプロセスを、左右のミドルアウトの提案と読み替えている。提案のプロセスを想像すれば、無理な読替でないことを理解してもらえるだろう。政治的な提案であれば、左右の提案は革新派と保守派の立場の違いと読み替えられる。現在の問題において過去を否定するか肯定するかの立場の違いで、ともに未来を肯定するのだから、提案内容は位相の差異としか理解できない。数学の伝統に従って、問題の発見と問題の解決、別個に提案しよう。政治プロセスとしての意思決定よりも、政治的提案権のほうが重要で、良い提案が無ければ、良い決定ができるはずがない。

◆第6章-希望の波動性

詩においては言語が最高度に粒子化し、宗教では波動性が顕著になる。ランダムなひとびとが言語の場となり、ランダムなひとびとの不確定性によって、言語の粒子性と波動性の両面が同時に実在することになる。一神教の神は命令形で語ることが多く、一方的で粒子的に見えるけれども、命令の内容は「隣人を愛せ」といった、言語の潜在的な意味での波動性でしか理解できない。

言語の潜在的な意味での波動性は、量子力学のような複数のスリット(切れ目)を通過した後の言語的な干渉模様によって観察できる。右と左のスリットでは微妙に意味の位相が異なり、干渉縞(かんしょうじま)を作り出す。どちらかひとつのスリットだけでは干渉縞は現れない。キリスト教であれば、聖書がふたつのスリットを通過した後のカトリックとプロテスタントの干渉縞となる。キリスト教とイスラム教の干渉縞は危険なほど顕著なので、位相のずらし方を工夫してもらいたい。詩や音楽の役割だ。干渉縞といっても、あくまでランダムな現象が統計的な意味で作り出すパターンという不思議な現象だ。

ランダムなひとびとの希望はどのような干渉縞を作るのだろうか。そのスリットはどこにあるのだろうか。健康であることの干渉縞は理解しやすい。個人の健康であっても、家族や社会の一員としての個人の健康は、他者のスリットによって干渉縞を作る。若者、成人、老人が男女のスリットにより干渉縞を作る。社会や経済の健康も、その社会システムの成熟の度合いと、左右のスリットによって干渉縞を作る。資本主義経済は前期高齢者の段階に至り、いつまでも隠居できないのだけれども、ロボットや万能計算機と共に生きてゆくしかない。高齢者の経済なのだから、太極拳でもたしなみ、趣味の気晴らしをしながら、認知症にだけはならないように社会貢献活動を行い、それでも確実に認知機能は衰えてゆく。ランダムなひとびとの希望は、まだらな認知機能の干渉縞だとしたら、それは本当に希望なのだろうか。若者の希望をどこかに探しにゆきたい。それは資本主義経済システムの中で、すでにマイナーなプロセスとして始まっているに違いない。

ひとがヒトを所有する奴隷制度の時代があった。ひとがモノを所有する資本主義の時代があった。ランダムなひとびとはモノを所有しない。自分のアイデアや身体ですら所有しない。モデル(設計図)を複製して共有する。モデルは複製することによって進化するように仕組まれている。言語を所有することが無意味であることに気が付けば、所有できないことのほうが意味や価値があることが明らかになる。生活は所有できない。健康も所有できない。希望も所有できないのだ。奴隷制度の時代には奴隷解放という希望があった。資本主義の時代にも、かつては搾取からの解放という希望があった。しかし搾取しているのは人類としての自分自身であったため、その夢はすぐに覚めてしまった。ランダムなひとびとはロボットや万能計算機と共に生きてゆく希望を見失わないようにしよう。

リスクはたくさんある。国家資格が増殖し、外交官、医師、弁護士、建築士、運転士、全てのひとびとが国家資格を持つ時代になるかもしれない。国家資格は全て、ロボットや万能計算機に与えるようにしたい。ランダムなひとびとに国家資格は似合わない。

◆第7章-計算できない確率としてのランダムネス

ケインズの確率論(※参考3)は当時の確率の哲学理論をまとめた功績は大きいけれども、量子力学以降の確率概念の代数化の時代からみると、ケインズの確率論はパスカルの仲間で大昔の哲学になってしまった。確率は賭博の理論として始まり、数学的にも解析学として精密なものになったが、ランダムネスの概念そのものに関する探究は、例えばカオスの発見やアルゴリズム的ランダムネス(※参考6)など、最近始まったばかりだ。時代背景を考えると、ケインズが計算できない確率と計算できる確率を区別したのは天才的なひらめきだった。経済現象には計算できない確率が深くかかわっている。

数学的な意味では計算できる確率であっても、ごく低頻度でしか起こらない確率現象の場合、例えば100万回に1回が1で、あとは全てゼロのようなコイン投げを想像してみよう。100万回コインを投げて合計してみると、どのような分布になるだろうか。数学的には2項分布であることに変わりはないけれども、とても正規分布で近似できそうもない。正規分布する確率変数の場合でも、非常にまれにしか起こらない例外的な値になる確率を考えて、その外れ値の分布は正規分布とは大きく異なる。品質管理などで極値統計といわれる特殊な統計学で、期待値は計算できても、分散が計算できない場合が多い。100歳以上の長寿者の平均余命、原発が爆発するリスクや国家の経済が破綻(はたん)する確率など、ある程度の期待値は推測できるけれども、分散は推測すらできないといった確率現象は身近なものだ。ランダムネスから確率を再考すると、計算できない確率がたくさんあることに驚かされる。

ランダムなひとびとにとっての合理性は、このような計算できない確率も含めて考えている。ケインズが正しく指摘しているように、計算できなくても定性的な評価はできるはずだ。より厳密に、代数学的な性質を評価することも不可能ではない。進化の確率も、このような計算できない確率の仲間かもしれない。パスカルは神が存在する確率を、功利主義的に100%と推定した。神が功利主義者である確率はゼロだろう。神が存在する確率は計算できないけれども、確率を生成するのが神の役割だという意味で、確実に存在する確率なのだと思う。ランダムなひとびとと万能計算機は疑似乱数で満足しながら、神の確率を信じている。

◆第8章-私は私の期待値である

西洋文明の神髄は言語の中の不動点ともいえる論理を発見したことだ。そして論理はトートロジー、自同律でしかないことを2000年後にウィトゲンシュタインが看破する。自分が自分自身でしかないこと、「自同律の不快」をめぐって長々と議論が続く埴谷雄高の小説『死霊』の登場人物は男たちであり「ウーマン」ではない。「ランダムなひとびと」の登場人物である「ウーマン」であれば、私は私の期待値であると自同律を再定義するだろう。デ・クーニングが描くマリリンモンローはマリリンモンローの期待値なのだ。

期待値は多くの場合、計算できる。分裂症的な意味での私の分散は計算できない。期待値にもとづく合理性は、もし分散が計算できないとすれば、非古典的な確率としての意味であり、その意味を人類は理解できていない。「ランダムなひとびと」の文体は、埴谷雄高のような重厚な古典的な文体ではなく、それでもデ・クーニングがピカソを乗り越えていったような、試行錯誤の文体となるだろう。埴谷雄高は文明論と政治論を交錯させ、問題を発見し謎かけをした。筆者は高校生の時に『死霊』の謎かけにはまり、「ランダムなひとびと」として脱出を試みている。

ケインズのように確率を論理で理解するのではなく、論理を確率として、ランダムネスの深淵から再定義したい。その最初の段階として、論理を回して、複素数の世界で解釈してみよう。真理値が複素数となる論理を形式的に作ることはできるだろう。そして真理値がランダム行列となるような論理へと物語は展開する。もしそのような論理を理解することができるようになれば、計算できない確率の一部が計算できるようになるかもしれない。万能計算機と共に生きてゆくということは、計算できないことを計算できるようにするプロセスでもある。神ではないランダムなひとびとと万能計算機は疑似乱数を使って計算する。その多くは積分計算であり、神が量子力学の経路積分を計算するように。

◆第9章-虚体論からの認知症理解

「ランダムなひとびと」は「NON STOP」な物語だと書いた。しかし、この物語は埴谷雄高の未完小説『死霊』の続編ではない。「ランダムなひとびと」としてのデ・クーニングが描いた認知症の世界を理解するという明確な目標がある。しかし埴谷雄高の凝視力は文明を変革する力がある、と筆者には感じられた。『死霊』の中で十分に語られることのなかった虚体論について考えること、デ・クーニングの「ウーマン」が抽象的な風景でしかない虚体となること、虚体の論理は虚数の論理であること、それは『死霊』の続編ではなく、おそらく小説にすらならないけれども、「ランダムなひとびと」の描かれたことのない地図を作成する作業となるはずだ。
すでに本稿は「ニュース屋台村」の許容範囲を超えて、「NON STOP」な物語となっている。次稿では最初の構想に戻って、『住まいのデータを回す』データ論の準備を始めたい。

参考1;風景としてのランダムなひとびと、WHAT^第6回
http://www.newsyataimura.com/?p=7464

参考2;外村彰、電子の量子力学的な振る舞い(波動性と粒子性)
http://www.hitachi.co.jp/rd/portal/highlight/quantum/doubleslit/index.html

参考3;ケインズの確率論、原著よりも『ケインズの哲学』(伊藤邦武、岩波書店、1999年)のほうがはるかに理解しやすい。

参考4;チャイティンのΩ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%AE%9A%E6%95%B0

参考5;『Willem de Kooning – Nonstop』(Rosalind E. Krauss, The University of Chicago Press, 2015)

参考6;アルゴリズム的ランダムネスへの解析学的アプ ローチ、宮部賢志、数理解析研究所講究録、第 1832 巻 2013 年 114-126
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1832-11.pdf

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