巨星墜つ―バンコック銀行チャトリ会長の死(下)
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第127回

9月 07日 2018年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住20年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

1997年7月1日、タイに激震が走った。アジア通貨危機の発生である。ジョージ・ソロスのクォンタム・ファンドなどヘッジファンドの一斉のバーツ投げ売りにより、脆弱(ぜいじゃく)なタイ経済の体質が露呈。バーツは対ドル値で、わずか半年の間に25バーツから57バーツまで半値以下に下落した。

急激な為替変動により外貨借入企業は軒並み債務超過に転落。さらにIMF(国際通貨基金)主導の緊縮財政政策により、タイ国内は大不況に陥った。こうした環境下、ほとんどの金融機関も倒産の危機に陥る。現に108あったファイナンスカンパニーのうち56社は2カ月以内に閉鎖に追い込まれた。バンコック銀行も例外ではなく、他の金融機関同様に倒産の危機に見舞われた。

◆部下を前に謝罪の言葉

バンコック銀行はこの時、第3者割当増資により資本増強を図った。東海銀行も小額ながらこの第3者割当増資に応じたが、このときにこの増資対応の担当者としてバンコック銀行のチャシリ頭取以下と交渉をしたのが私である。

90年代終わりから2000年初頭にかけて日本の銀行も不良債権処理に苦しんでいた。銀行淘汰(とうた)により、まさに現在の3メガ銀行が登場した時期である。こんな時にわずかな額だが東海銀行が増資に応じたことに、チャトリ会長やチャシリ頭取は深く感謝され、結果的に現在の私の境遇がある。またチャトリ会長自身も「アジア最大の金持ち」といわれた資財を投げ打ってこの増資に応じ、バンコック銀行は破綻(はたん)を免れたのである。

98年4月、私は「東海銀行バンコク支店長」兼「バンコクファースト東海社長」としてバンコクに赴任した。米国や銀行本体で「再建屋」として腕を振るったことが評価されたのであろう。私の重要なミッションは二つ。東海銀行が主要取引銀行として名を連ねていたトヨタ、ホンダ、スズキなど自動車業界を中心とした顧客基盤を守ること。もう一つは、バンコック銀行との取引親密化である。

幸いなことにバンコック銀行経営陣は、私がバンコクに赴任した当初から大変良くして下さった。バンコック銀行増資時の担当者として認知されていることによるものである。既に東海銀行からバンコック銀行へ出向・転職されていた私の大先輩である新井寿シニアバイスプレジデント(当時)の絶大な支援により、私はまるでバンコック銀行行員のように銀行に出入りした。

チャシリ頭取とは月1回、日本食レストランで「バンコック銀行の再建策」を話し合った。私は東海銀行国際部時代、バブル崩壊以降の国際関係、資金関係のリストラ策の策定に関与してきた。こうした経験や東海銀行の各種施策を東海銀行の承認のもとにバンコック銀行に対して開示したのである。また、チャトリ会長とは3カ月に1回程度のゴルフなどで関係を強化した。
チャトリ会長に関して私は忘れられない光景がある。資本政策に一段落がつきバンコック銀行の存続が確実視されるようになった1999年の新年パーティーに私は招待された。バンコック銀行役職者・幹部総勢200名のパーティーで、外部者で参加したのは、私とサタポーン・ウォンジャローエン・タイ投資委員会(BOI)長官の2人だけである。

私とサタポーン長官の席は、チャトリ会長の横に設けられてあった。和やかな雰囲気でパーティーが進んだが、最後にチャトリ会長のあいさつがあった。当然タイ語である。タイ赴任からまだ1年もたたない私はチャトリ会長のスピーチ内容がわからない。しかしその雰囲気から、その内容がただごとではないことはわかった。するとチャシリ頭取が英語のわかるスタッフをそっと私の横につけてくれ、私は英語で内容を理解した。

「今回のバンコック銀行の経営危機に全員で立ち向かってくれてありがとう。銀行がこのような経営危機に陥ったのは私の責任である。よって私はバンコック銀行の経営の前線から身を引く。今後はチャシリ頭取を立てて皆で頑張って下さい」。チャトリ会長は全役職者・幹部を前に頭を下げて謝罪された。

私はチャトリ会長の潔さ、態度に心を打たれた。人は地位が高くなればなるほど、他人に頭を下げることは難しくなる。しかしチャトリ会長は自分の部下を前に謝罪の言葉を述べ、頭を下げたのである。これこそ本当の「大人物」だと尊敬の念を抱いた。

◆勝負に負けることは大嫌い

チャトリ会長は東海銀行時代の私のゴルフの誘いにも快く応じてくださった。20歳も年上の東南アジアの「大立て者」とのゴルフは、私にとってかなりのプレッシャーであった。緊張しながらのゴルフであったが、勉強させてもらうことも沢山あった。まず何と言っても「勝負強い」のである。ラウンド途中で私が勝っていても、最終ホールのパットは絶対外さない。遠い所からバーディーパットを入れられることもたびたび。「偉くなる人はさすがに勝負強い」と思わされたものである。

また、勝負に負けることも大嫌いである。私はタイ赴任後、かなり練習し数年後にはそこそこ上達した。するとチャトリ会長は、2対2のペア対抗ゴルフを提唱。それからは必ずゴルフのうまいパートナーを連れてきた。20歳も年下の小僧っ子の私などには絶対負けたくないのである。

ゴルフが終わり会食となると、チャトリ会長は自分のペースで食事と酒を注文する。私たちに「何を食べたいか?」などと聞くことはない。しかしチャトリ会長がダイエットされていた時の会食には閉口した。ほとんど料理を注文しないのである。「沢山料理を注文するとついつい食べ過ぎてしまうからな。君たちも食べ過ぎはよくない」などとあくまでも自己中心。また会食時に隣席に座ると、チャトリ会長は私の手や太ももに手を置いてくる。肩に手を回してくることも頻繁にある。「スキンシップが重要なコミュニケーション手段である」ということを改めて私に気付かせてくれた人物でもある。

一方で、私はチャトリ会長を見ていて「金持ちはひょっとしたら不幸ではないか?」と思ったこともあった。チャトリ会長と一緒に日本に旅行しゴルフショップに寄った時の話である。新商品のクラブの説明を「ふんふん」と聞いていたチャトリ会長は、唐突に店員の説明をさえぎり「それではここからここまでのクラブセットを全部くれ」と言って何セットものクラブを購入した。チャトリ会長の突然の言動に私はびっくりしたが、「うらやましい」という感情とともに「寂しい」という思いが沸いてきた。

もし私なら1本10万円近くするドライバーを買うのに何カ月も悩むこともあろう。「どうやって金を工面するか?」「どうやって家内を説得するか?」。障害は多い。しかし障害が多く悩むからこそ、そのドライバーを手にした時の喜びは格別なものである。チャトリ会長の大人買いを見た時、私は「大金を持っていなくて幸せだ」と感じたのである。

◆葬儀はキリスト教のミサで

チャトリ会長の葬儀は6月24日(日)から7月2日(月)まで9日間にわたって行われた。チャトリ会長はカトリック教徒で、葬儀はキリスト教のミサで執り行われた。司教3人と司祭10人ほどが祭壇に並ぶ異例のミサ光景で、チャトリ会長がいかにタイのカトリック教会に貢献したのかがわかる盛大なミサである。連日千人以上の弔問客がこの葬儀ミサに参列。王室からはスラユット枢密院顧問官(元首相)が、民主党からはチュワン元首相やアピシット元首相、さらに私が懇意にさせて頂いているタノン・ビタヤ元副首相も弔問に来られた。

チュロン・ポカパングループ、サハ・パタナグループ、モールグループ、サイアム・モーターグループなどタイを代表する財閥が葬儀のスポンサーをされた。日系企業からも三井物産、日本生命、あいおい保険、三菱UFJリース、いすゞ自動車、双日などの多くの企業からスポンサーの申し出をいただいた。この他、多くの日系企業から弔問があり、花輪を頂戴した。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

ほんの短い期間であるがチャトリ会長と知り合い可愛がっていただいたことは、私にとって貴重な経験であり、思い出である。ここには書き切れなかった沢山の思い出がある。葬儀の間はその慌しさの中でゆっくり思い出すこともなかったが、本稿を書く中でチャトリ会長との思い出が走馬灯のように蘇ってくる。改めてチャトリ会長のご冥福をお祈りしたい。

(注)チャトリ会長の生前の正式な役職は「役員会議長」だが、本稿では日本人一般になじみの深い「会長」とした。

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り。
第126回 巨星墜つ―バンコック銀行チャトリ会長の死(上)
http://www.newsyataimura.com/?p=7630#more-7630

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