п»ї 「オープンダイアローグ」の可能性 人と社会と精神疾患をつなぐ場(下) 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第58回 | ニュース屋台村

「オープンダイアローグ」の可能性
人と社会と精神疾患をつなぐ場(下)
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第58回

10月 02日 2015年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャローム所沢施設長。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆モノローグから出発

統合失調症をはじめとする精神疾患者を、薬に頼らず「対話」で治癒する「オープンダイアローグ」について、前回の概要に続いて、今回はポイントを絞って、その可能性を探っていきたい。

私はこのメソッドを知り、自分が責任を持ってカリキュラムを運営する精神疾患者向けの就労移行支援事業所シャローム所沢(埼玉県所沢市)での展開を念頭に、その関係者の方々との交流や語り合いの中で得られた知見をもとに、その運用について思案中である。そして、仲間も必要だから、「入り口に立ちながら」、仲間を待っている。今回のポイントは私の現段階における理解から得たものであり、これから進化していく出発点。

それは、「モノローグ」「ダイアローグ」「レフレクション」である。

モノローグとは独白、ということであり、自分の思いを打ち明け、語ることを意味する。それは決して相互性のあるものではない。統合失調症の患者は、苦悩や被害妄想、空想世界などを一方的に話すケースがあり、それが相互性のない、あるいは拒否するモノローグとなる。

社会心理学者であるオスロ大のスタイン・ブラーテン教授曰く「モノローグとは、他者を受動的な存在としてみなすことだ」であり、フィンランド・ユバスキャラ大学のセイックラ教授の論文「愛を体現するものとしての対話」では「対人関係に着目すれば、モノローグは他者から『釈明』という手段を奪うことによって、その人を沈黙させてしまう。他方、精神内界に着目しても、モノローグは他者のイメージを、自分の内なる声をおうむ返ししたり、承認したりするだけの位置に押しとどめるものである」と指摘する。つまり、社会性とは正反対に位置する極めて個人的で一方通行の言葉の発信であり、他者への尊重が置き去りにされている状態といえよう。

◆相互性のダイアローグ

この状態は一般的に社会で「負」とされている。「正」は何かというと相互性のある「ダイアローグ」である。独白ではなくお互いのコミュニケーションが行き来し、それが1対1でも1対2でも、4人以上の円卓でも、自分の意見を表明し人の意見を聴き、それに反応しながら、協調的に話を進めていくことである。人の気質のそれぞれで、じっと聞き入るタイプもいれば、誰よりも声高に意見を押し通すタイプもおり、病名がついていなくても、ダイアローグで厄介な人たちがこの世に多く存在しているのも事実。

ただ、その方々は制御があれば、調整が可能で、議事進行役の指示に従うことを知っている。この指示に従うことは、その場に協調していくことを意味するから、正常なダイアローグは、この場の約束事を守りながら、話し、聴くことになる。モノローグからダイアローグに変革することが、オープンダイアローグの目的だから、当事者がモノローグしたものを、受け止めた側は直接返さず、横に話をふりながら、広げていき、その広がったダイアローグに当事者を加えて話を進めていくイメージだ。

ここで大事になってくるのが、「レフレクション」である。当事者が言った言葉について第三者同士が意見を述べ合い、話し合う姿を見ることで、自分の言ったことを客観視できるようになり、そこに自分が意見を言うことで、自然とダイアローグの構造ができあがるのを誘引する手法である。自分が言った言葉を他人同士が話しているのを見て、思わず「そうじゃない」「実はこうなんです」と口を差し挟むことができれば成功、である。

そこからダイアローグの道が切り開ける。当事者のコミュニケーションがダイアローグ化しやすいように、そのレフレクションも「差し挟み」を誘導するテクニックと意見表明を受け入れるその場の寛容な空気が醸成されていなければならないのは前提であるが、それはさほど難しいことではない。

◆障壁となるもの

ダイアローグをすることで病気が治る、という単純なことではないだろうが、フィンランドの報告では、入院日数の短縮や薬の量が減った効果があるとしているし、一般の人、悩んでいる人にあてはめれば、ダイアローグをすることで治癒となることは、私たちのコミュニケーションの経験や歴史が教えてくれている。しかも、医者がいなくても、進められる取組だから、予備軍も含めてもととてつもない数になるだろう精神疾患に関する人たちを市民の手でケア、もしくはキュアできる可能性がある。

そんな期待感に胸躍らされている私だが、精神科医の斉藤環さんは、オープンダイアローグの日本導入は「きわめて大きな抵抗が起こる」とし、その最大抵抗勢力は「精神医学界になるでしょう」という。それは「自分たちの存在意義を失わせるような治療」だからと解説する。さらにこう言い放つ。「日本の医療制度は、どれほどエビデンスを突きつけられても、新しい精神療法をすんなり受け入れるほど柔軟ではありません」

どれだけのエビデンスが必要なのだろうか。そして医学界以外の取り組みを、世間はどう考えるのか。入り口から見える風景は未知数のものばかりである。

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