п»ї ミャンマーのクーデターとスーチーの「死角」 『記者Mの外交ななめ読み』第15回 | ニュース屋台村

ミャンマーのクーデターとスーチーの「死角」
『記者Mの外交ななめ読み』第15回

2月 09日 2021年 国際

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記者M(きしゃ・エム)

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間150冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は、夜明け前の10キロウォーキングと韓流ドラマ鑑賞。

ミャンマーで2月1日に起きた軍事クーデターは、起こるべくして起こったと思う。現代という世の中にあって、死語になりつつあると思えた「クーデター」が日本と関係の深いASEAN(東南アジア諸国連合)域内で起こるのは何とも哀しいことで、ミャンマーの政治的進化はこれでまた、20年ほど時計の針を逆戻りしてしまった。

ミャンマーのこれからを占う見本として、隣国タイの現在の政情がある。もちろん、タイの場合は、王室批判の波という、もう一つの重大な要素があるが、タイもミャンマーも、政治の成熟過程で俯瞰(ふかん)すると依然、民政移管後の混乱期にあるようだ。

◆ロヒンギャ問題への対応の温度差

民政を武力で転覆させる軍事クーデターは、断じて正当化できるものではない。今回のクーデターで、タンシュエ時代のただでさえネガティブなイメージが染みついているミャンマー国軍はまた、自らの手で「負のレッテル」を貼ってしまった。自ら選んだ非合法の手法だが、国軍内の急進派が、民政移管後の国のトップだったアウンサンスーチーとの段階的和解を模索してきた穏健派を放逐してしまった結果である。

ただ、このタイミングでクーデターがぼっ発し、その企てがこれまでのところ国軍側のもくろみ通りに進んでいるのを見たとき、スーチーらは何の警戒もしていなかったのか、国軍側の危険な仕掛けのにおいを感じ取っていなかったのかといぶかしく思う。あえて換言すれば、スーチーのワンマン、慢心があったのではないか、という疑問である。

一部メディアは、ミャンマー西部ラカイン州のイスラム系少数民族ロヒンギャの問題をめぐる国軍とスーチーの対立の構図などを今回のクーデターの引き金の一つだとしている。遠因の一つに数えられるとしても、僕は直接の原因ではないと思う。

「ロヒンギャ」で僕が個人的に思い出すのは、1990年に社会部から外信部に異動になり、机の後ろの棚の上に置かれた外電のチッカーから絶え間なく流れてくるAFPやロイターなど外国通信社のニュースの紙の山と格闘するなかで、「グルジア」と並んで「ロヒンギャ」という英字表記の日本語の読み方ができなかったことで、当時のデスク連中から冷笑された。ロヒンギャ問題は、スーチーが自宅軟禁されていた90年代にすでに顕在化していた。民政移管されてスーチーが事実上の国政のトップに座ってからも問題は解消されず、構図は変わっていない。

むしろ、国際世論を敵に回したようなスーチーの姿勢は、民主派の闘士や人権尊重のイメージが刷り込まれているスーチーの立場を悪くさせてきた。2017年には、1991年に授与されたノーベル平和賞のはく奪を求める誓願運動が起こったほか、国際アムネスティは18年11月、スーチーに09年(当時は自宅軟禁中)に授与していた「良心の大使賞」の取り下げを発表。国際アムネスティのクミ・ナイドゥ事務総長はスーチーにあてた書簡の中で、国軍による虐殺や表現の自由の制限に対して無関心を装い、ミャンマーの人権・正義・平等の擁護にその政治的、道徳的権威を行使しなかったことに遺憾の意を表明した。さらに、EU(欧州連合)の欧州議会の議長会議は20年9月、スーチーについて、人権活動に貢献した人や団体に贈る「サハロフ賞」の受賞者グループでの活動資格を停止すると発表した。

ロヒンギャは民主主義や人権を共通語とする国際世論になじみやすいテーマだが、ミャンマー国内ではロヒンギャが社会的弱者であることから、大きな問題にはなっていない。

◆麻薬と国営企業に巣食う国軍の利権

スーチーがクーデターという強硬手段で失脚に追い込まれた直接の原因について、僕は国軍と麻薬マネー、あるいは国軍と国営企業の利権にメスを入れようとしたためだと考えている。これは、タイでの軍と王室の、不可分の関係と似ている。タイ国軍にとって王室は「錦の御旗」で背骨であるように、ミャンマー国軍にとって麻薬マネーと国営企業の利権は、ネウィン、タンシュエ時代からこれまで温存されてきた譲れない一線、集金マシーンである。

知人のミャンマー研究者の一人は「半世紀に及ぶ長い軍政下の歴史の中で、社会メカニズムのありとあらゆるところまで、人間の体で言えば毛細血管に至るまで、軍の影響が及んでいる」と指摘する。半世紀をかけてその影響力を社会の隅々まで浸透させてきた軍と、民政移管されて10年にしかならない国の舵取り役を自らに集中させてきたスーチー。国軍内のクーデターの動きを察知できなかったリーダーは、「裸の王様」になりかけていたと言ったら、言い過ぎだろうか。

クーデターの引き金になったもう一つの理由は、先述のスーチーのワンマンと慢心が挙げられよう。スーチーは自身を大統領より格上の「国家顧問」と位置づけ、文字通り、民政移管後のミャンマーのトップに君臨してきた。ただ、僕が聞いていたのは、スーチーが1988年に結成されたNLD(国民民主連盟)の書記長時代に秘書や運転手をしていた人たちの「スーチーは後継者を育てようとしない。後継の可能性がある若い芽は摘んできた」という、意外な声だった。

スーチーは国際社会で不動の名声を得て、国内ではいまだに「建国の父」と慕われているアウンサン将軍の娘という絶対的な名家のレッテルがあって、いまもミャンマー民主化のシンボルである。だが、すでに75歳。僕がバンコクを拠点にミャンマーに出張するなどして直接取材をしていたのは2007年までだが、当時のNLDの中央執行委員会のメンバーでスーチーは最年少で、あとは生前のアウンサン将軍にも通じた長老ばかり。中執メンバーの平均年齢は75歳超で、若手は皆無だった。長老からはスーチー批判は一切聞こえてこなかったが、スーチーの書記長時代にNLDで活動を共にした人の中には、先述のようなスーチーのワンマン化を指摘する声があった。

僕がバンコクに駐在していた当時のミャンマーの取材助手は、父親がアウンサン将軍の秘書官で、かつて「ビルマ」と呼ばれた時代の学生時代に全国統一試験で1位となり、ミャンマー作家ジャーナリスト協会の会長を務めていた。取材助手の同世代は、大学時代前後にスーチーの民主化運動に共鳴して政治運動に飛び込んだ人が多く、軍政の弾圧を逃れて多くは海外に逃亡したが、一部は国内にとどまり、政治活動をしていた過去をしまい込んで、市井の人として生活をしている。ヤンゴンに出向くたびに、そんな人たちとミャンマーの政情について議論してきた。

◆民衆パワーとポスト・スーチー

ミャンマーの将来の鍵は、①民主化勢力の中でのポスト・スーチーの出現(ただし、いまだに頭角を表している人物が不在)②国軍内のパワーバランスの変化③国内世論と国際世論の盛り上がり――だと思う。

この中で、最も期待するのは、民衆のパワーである。当局が規制しても、民衆はさまざまな形でSNSなどを駆使すれば、国内世論が大きな力になり得る。民政移管後の自由にものが言える世の中で育ってきた若者はその源泉である。そこに半世紀に及ぶ軍政下の弾圧と圧政をじっと堪え忍び、民政移管をようやく勝ち取った成功体験がある一般民衆が集まり、さらにそこに、ポスト・スーチーとなる新たなリーダーが出現すれば、ミャンマーに再び民主化への新たな道筋が開けてくるのではないか。

ただし、楽観は禁物である。隣国タイのたび重なるクーデターを「他山の石」とし、性急に民主化を実現しようとすれば、クーデターはまた再来する。(文中敬称略)

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