コシット元タイ副首相をしのんで
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第71回

6月 17日 2016年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住18年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

タイ政府で工業相、財務相、副首相などを歴任し、バンコック銀行の取締役会議長を務められていたコシット・パンピアムラット氏が6月1日、肝臓がんのため死去した。73歳だった。

私がコシット氏と直接お付き合いするようになったのは2003年、私がバンコック銀行に転職したあとである。その時にはコシット氏は既にバンコック銀行の取締役会議長の職にあった。大きな身体で悠然と振る舞われるコシット氏はまさに大人(たいじん)の趣。まさにタイ社会における尊敬される人間像を備えた人柄であり、大変惜しい方を亡くした思いである。今回はこのコシット氏の生き様と私の関わりについて述べてみたい。

◆主要閣僚を歴任したエコノミスト

コシット氏の経歴を簡単に紹介する。1943年バンコク生まれ。チュラロンコン大学卒業後、米国のメリーランド大学で修士号を取り、タイのNESDB(国家経済開発省)に入省。72年から世界銀行本部でエコノミストとして活躍し、タイに帰国後バンハーン政権で工業大臣、チャワリット政権で財務大臣を歴任し、99年にバンコック銀行の取締役会議長に就任した。2006年9月タクシン首相(当時)追い落としのための軍事クーデターが発生すると、スラユット軍事政権下で副首相兼工業相を務めた。08年3月にはバンコック銀行の取締役会議長に復帰。現職のまま逝去された。

私が最初にコシット氏と言葉を交わしたのは、東海銀行(当時)のバンコク支店長時代である。1994年米国赴任から帰国した私は東海銀行の国際企画部に帰任し、バブル後遺症に苦しんでいた東海銀行の再建に取り組んだ。

国際企画部、資金証券部、国内企画部の次長を兼務しながら、主に東海銀行国際部門のリストラ、業務効率化に関する仕事に従事した。東海銀行の屋台骨が危なかった時期である。やむなく国際部門も業務の効率化を迫られる羽目となった(ニュース屋台村2015年5月22日号 拙著「わが同朋の死を悼んで」をご参照ください)。

国際部門として矢継ぎ早に施策を企画し、それを経営会議に諮問する。一介の次長職でありながら経営会議に陪席者として出席することにより、東海銀行全体の再建策の細部まで知りえる立場となった。

東海銀行のリストラ策の策定が一巡した1997年、アジア通貨危機が勃発(ぼっぱつ)した。若い頃から「再建屋」として最前線で仕事をさせられてきた私は、この時もアジア通貨危機が最初に起こったタイに送りこまれた。当時、中進国の一歩手前であったタイは当然のことながら国の中に潤沢な資金蓄積がされておらず、流入する外貨に頼った経済運営を行っていた。この弱点をジョージ・ソロスなどのヘッジファンドに狙われたのである。

国に資金蓄積がないということは企業も同様な状態にある。90年代半ばの円高環境を逃れるため、タイに進出した自動車産業を中心とした多くの日系企業も、設備投資の大半を「円建て親子借入」もしくは「バーツより低利なドル建て借入」に頼っていた。しかし急激なバーツの切り下げにより、外貨建て借入のバーツ評価額は倍増。多くの日系企業が一気に債務超過状態になってしまった。

こんな危機的状態の中で私はタイに赴任した。当時、大半の日系金融機関が日本国内のみならず、タイを含む全ての海外でいわゆる「貸しはがし」を行っていた。しかしながら東海銀行は幸いにも海外事業のリストラ策がほぼ完了していたため、こうした債務超過企業に対しても積極的に貸付を行ったのである。

私の東海銀行バンコク支店長としての使命は、こうした日系企業支援とともに当時東海銀行と提携関係にあったバンコック銀行への支援である。日本で東海銀行本体の再建策に関与した私は、その知識と経験をタイ政府およびバンコック銀行に移植しようと考えた。タイの財務省や中央銀行の局長、課長クラスを訪問し、当時日本の銀行再建策として脚光を浴びていた「ブリッジ・ローン」方式や「格付け制度」の説明を行った。同様にバンコック銀行に対しても、チャシリ頭取や側近の副頭取達とほぼ毎月夕食会を行い、東海銀行の再建策を伝授した。

さらに、これらの再建策をバンコック銀行内で施行するにあたっては、バンコック銀行内の幹部クラスを対象にしたレクチャーも行われ、私はこの講師として何度か話をした。この時に積極的に私の考えを支持してくれたのが、コシット議長であった。

◆前任者から助言された「お土産作戦」奏功

不良債権に苦しむ当時のバンコック銀行にあって、アジア通貨危機後の1999年に取締役会議長に就任したコシット氏は積極的に社内変革を進めようとしていた。「審査体制の充実」「格付制度の導入」など当時の東海銀行の提案はまさにコシット氏の本意であり、積極的に私の考えを支持して頂いた。

2003年私はUFJ銀行(当時)を辞職しバンコック銀行に転職した。私がバンコック銀行に再就職した時には私の前任者として東海銀行から出向、転籍された新井寿さんがおられ、親身になって私のことを心配して下さった。

「僕は東海銀行からひも付きで来たので帰る場所があるけど、小澤君、君は退路を断ってきたので本当に大変だよ。ここで生きのびるしかないからね」「小澤君はアメリカ経験者の欧米派だけど、タイ人と一緒に働くためにはタイ流のやり方を踏襲しなければうまくいかないよ」「僕は日本では上司につけ届けなどしたことがなかったが、ここでは日本に帰った時には会長、副会長、副頭取の3人にはお土産を持って帰ってきている。また半年に1回は自分の部下を昼食会に連れていっている。バンコック銀行には会議費も交際接待費も無いので全部自腹だけど、この二つは絶対やったほうが良い」

新井さんは従業員2万5千人のバンコック銀行に単身で送り込まれ、10年にわたって実績を上げられた日本人である。タイ社会を肌身で経験した数少ない日本人である。新井さんの助言は私にとって本当に貴重であった。新井さんとは今でも年に2、3回お会いし助言を頂いている。タイ人と働くことの本当の難しさをわかって頂ける人であり、私の愚痴を聞いて頂けるのである。

新井さんの助言に従い早速、上司に対する「お土産作戦」を実行に移した。幸い私は年に3、4回日本へ出張する。この出張時に日本のおせんべいや、はやりのクッキーを買ってきて偉い方々に届けるのである。その量は毎回段ボール2箱分にもなる。当然このお土産をお渡しする人の中にコシット議長は含まれている。

こうしたことで日本出張から帰ると必ず偉い人の部屋にお土産を届けるのであるが、どの人も必ず私を部屋に招き入れてくれて会話をする。日本の状況を聞かれることもあれば、現在の私の仕事の状況について聞かれることもある。ほとんどの偉い方達と3カ月に1回は1時間以上個別に話をする機会が出来たのである。これは私にとって大変貴重なアピールの場となった。

特にコシット議長は政府から天下ってきた人である。日本の政治・経済状況について私の生の意見を根掘り葉掘り聞かれるのである。それを現在のタイの状況に照らし合わせて自分の意見も積極的に話して頂ける。大臣職は離れたとはいえ、政府部門のことには精通しておられる。タイの政治経済の裏事情について色々と教えて頂くようになった。

2006年9月19日タイで軍事クーデターが発生した。2001年よりタイ愛国党を率いて政権の座についていたタクシン・シナワット首相(当時)は国連総会に出席するためニューヨーク訪問中であったが、その間隙(かんげき)を縫ってソンティ・ブーンヤラッカリン陸軍司令官によって無血クーデターが実行された。10月1日にはスラユット・チューラノン枢密院議員(元陸軍大将)を首班とする政権が発足。コシット氏はそのクリーンな政治姿勢から王室や軍部に請われて副首相兼工業相として内閣入りした。

本人は既にバンコック銀行に再就職した後であり、いまさらリスクの高い軍事政権での要職を就くことは割に合わない行為であり、一度は断ったとの本人の弁を聞いた。しかし汚職批判で追放されたタクシン元首相の後は清貧な政治家が求められており、王室や軍部の強い要請によりコシット氏は元中銀総裁で王族でもあるプリディヤトーン・テワクン氏とともに副首相職を引き受けられた。

◆エコカー政策を推進

コシット氏が副首相を務めていたのは06年10月から08年1月までの1年3カ月ほどであったが、この間持ち前の強い信念でタイの経済立て直しを図られた。コシット氏が執念を持たれた政策は①エコカー政策の推進②高炉製鉄所の建設③中小企業振興策――の三つである。タイの自動車市場はそれまで1トンピックアップトラックに代表される商用車に対して税金優遇があり、商用車製造に重点が置かれていた。これに対してコシット副首相は小型車を主とするエコカー生産に税制恩典を与えることにより、一層の自動車産業興隆を狙った。一部の自動車会社からの反対もあったが、コシット氏は強烈なリーダーシップでこれを押し切り、タイの自動車産業の基盤を一層強固なものにした。

高炉製鉄所誘致もタイにとっては悲願である。建設用地の確保、積み出し港の整備、地元の反対など多くの問題があったが、軍事政権の強権を利用しコシット氏はこれらの問題解決にほぼめどをつけていた。事業主体としての出資者も幅広く募られ、日本の自動車メーカーから出資応諾を得ながら、最終的には日本の鉄鋼メーカーが本案件を断ってきたとコシット氏から聞いている。今でも高炉製鉄所を持たないことがタイの製造業にとって最大の弱みであることを考えると、千載一遇のチャンスを逃した損失は計り知れない。

中小企業振興策については、日本の商工中央金庫や日本政策金融公庫をモデルとしたSME銀行の再編・強化を狙っていたが、残念ながら時間切れとなってしまった。しかしコシット氏はバンコック銀行復帰後もこの問題は自分のライフワークと位置づけて銀行内で常に率先し、音頭をとってSMEフェアなどを開催されていた。

08年3月コシット氏はバンコック銀行取締役会議長として復帰された。その後、私は前述の通り3カ月に1回はコシット議長のもとを訪れては、日・タイの様々な事柄について情報交換をさせて頂いた。最後にコシット議長とお会いしたのは15年11月のことである。普段どおりに大きな身体で机から立ち上がり、私を部屋に招き入れ親しくお話をした。軍事政権下でタイ経済が停滞している現状を大変心配されていた。

昨年の年末、私は個人的に親しくお付き合いさせて頂いているプリディヤトーン元副首相と夕食を共にした。同氏は06年のスラユット軍事政権下でコシット氏とともに副首相をされた。また最近ではプラユット軍事政権下で副首相をされていたが、15年10月に辞職。大役を務められた後の慰労会として開いた夕食会であった。

この時プリディヤトーン氏からコシット氏が重度の肝臓がんを患っていると初めてお聞きした。それは私にとって大きなショックであった。それ以降、バンコック銀行内で秘書やエレベーター係などに聞いてみても、コシット氏の姿は銀行内で見かけないと言う。

6月1日夕方5時前、私の秘書が「本日の午後3時ごろコシット議長がなくなったようだ」と一報をくれた。優秀な私の秘書は色々なネットワークから情報が取ってくる。私は早速ブリディヤトーン氏など私の知人に連絡をした。

それにしてもタイにとって、バンコック銀行にとって、また私自身にとって大切な人を亡くした思いでいっぱいである。オフィスだけでなく、バンコク市内のエンポリアムショッピングセンターや日本食レストランでもバッタリお会いすると右手を挙げて、「Khun Ozawa(小澤さん)」と声をかけて頂いた。あの人懐っこい顔が二度と見られないかと思うとさびしい気持ちでいっぱいになる。

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在りし日のコシット・パンピアムラット氏

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