音楽と私(上)~歌との出会い~
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第88回

2月 23日 2017年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住19年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

私の人生は音楽と出会って間違いなく豊かなものとなった。銀行員生活を40年続けている私にとって音楽は「趣味」と呼ばれるものなのであろうが、私自身は「趣味」という認識はない。60歳を越えた今でも週末や休日は朝8時から夕方6時までスタジオにこもって練習をする。

◆コンクール

例に出すこと自体はばかられるが、プロのアルトサックス奏者である渡辺貞夫さんとお話しした時、渡辺さんが「私は下手ですから一日8時間は練習しています」と私に語って下さった。同じく私が本当に仲良くさせて頂いているプロのドラム奏者である三戸部純一さんも、79歳の今でも一日6時間はドラムの練習をされる。最初は渡辺貞夫さんや三戸部純一さんに刺激されて練習を始めた私であるが、今では練習の時間があっという間に経ってしまう。とにかく時間が足りない。何故なら私は自分の下手さ加減を知っているし、まだまだ上達したいからである。

私がそもそも音楽と本格的に付き合うようになったのは、小学校2年生から始めたクラシック音楽であった。それ以前私は母からピアノを習っていたが、親子間の甘えからピアノは全く上達しなかった。そもそも私は“飽きっぽい”のである。地道な練習を強要されるピアノなど私の性にあっていない。そのため、私の母はピアノをあきらめ、私に声楽の先生をつけた。昔から声楽家はおおらかな人が多いといわれる。藤原歌劇団に所属していたこの女性の先生もおおらかな人で、私が練習してこなくても全く怒らなかった。当時ボーイソプラノであった私は、大きい声と5オクターブ近くの音域を持っていた。もともと男の子が歌を習うことが珍しい。この先生におだてられて歌うことが私の小さな自信になっていった。

中学生で声変わりした私が再び本格的に歌に向き合うようになったのは大学に入ってからである。私は経済学部に入学したが、何となく歌が忘れられなかった。私は友人達のすすめもあり、当時新進気鋭でドイツ帰りの持田篤先生と原昌子先生の2人に師事してイタリアオペラを中心に勉強をした。音楽大学の入試勉強を経験していない私は、五線譜も満足に読めないなど基本的な音楽的教養が欠如していた(これは今も変わらない)。持って生まれた音質と声の大きさと音域の広さなどの天性だけで勝負をしていた。そして私は、持田先生の門下生と知り合いクラシックコンサートやオペラを見に行くようになった。またこれら仲間の練習風景を通じて多くの歌曲になじんでいった。

大学4年になると持田先生は私に「日伊コンクール」と「読売コンクール」を受けることをすすめてくれた。音楽大学の卒業試験の代わりだと言う。あとからわかったことであるが、このニつのコンクールともプロの登竜門である。音楽大学を卒業し海外に留学した人達が箔(はく)をつけるために受けるプロの人達のためのコンクールである。

能天気な私はそんなことも知らずにコンクールに応募した。それでもこのコンクール受験のためにほぼ毎日のように2人の先生のどちらかのレッスンを受け続けた。この頃の練習を通して歌い手の基本である発音法など最低限のものが身体になじんだのであろう。音楽家として当然持つべき曲の解釈やそれを表すための細やかな技法の習得など全く考えも及んでいなかった。私は淡い期待をもってコンクールに臨んだが、両コンクールとも見事予選敗退である。コンクールを見に来てくれた友人達は「良く通る声で、声の大きさでは一番だった」などとなぐさめてくれた。

◆プッチネーリ先生

銀行員になってからは次第に仕事に追われるようになり、歌を歌う余裕がなくなった。再び私が音楽と向かうようになったのは、2回目のロサンゼルス勤務で3年経過した頃である。当時私は38歳であった。米国の金融子会社の再建や不良債権の回収などに苦しんでいた時に“ふっと自分を取り戻す何か”を見つけたいと思った。早速子供が習っているピアノの先生に心当たりの紹介をお願いした。

「イタリア人のバリトンでちょっと性格がいい加減な人がいます。ここはアメリカなので、もし真面目に教えてくれなかったら違う先生に変わるのでも良いと思います。せっかくなので同じバリトンの男性に会われてみたらどうですか?」。これが私とプッチネーリ先生との出会いである。電話でアポイントメントを取り、プッチネーリ先生のところに訪問したが、1時間以上雑談しただけで音楽の話は出ない。あげくの果てに「私は教えることが嫌いで弟子は取らない主義だ」とおっしゃる。これではらちがあかないと思い、早々にお暇(いとま)を申し出たところ「最後に一声出してみろ」と言われた。伴奏もないため、発声練習である音階を歌ったところ「いいだろう。気に入った。来週から来なさい」と言う。キツネにつままれた気がしたが、とにかく歌のレッスンが始まった。

ところが、翌週からレッスンが始まってびっくりした。当時73歳であったプッチネーリ先生の声が大きく隆々と美しいのである。さすが若い頃ニューヨークのメトロポリタン劇場で歌っていただけのことはある。更に、発声練習に移ると日本で習ってきた発声方法と違うことが沢山ある。それもきわめて論理的である。おなかから息を押し出して声を出すのであるが「きれいに喉から口まで声を出すには抵抗物を少なくし、1本の筒のようにして息を通すようにしろ」と言う。

具体的には「口蓋垂(こうがいすい、通称のどちんこ)を引き上げるとともに、舌を下あごになるべくつけて母音を発音する」訓練が1年以上続いた。プッチネーリ先生はイタリアの著名なオペラ歌手であるエリンコ・カルーソーの発音術の正統な継承者であった。「私が教えることはオペラの歌手にとって秘伝の技である。私はこうした技を先生から盗んできた。先生が他の生徒に教えている時間、カーテンの陰に隠れて、ノートに書きつけてきた」

今でこそ楽器店に行けば発音技法に関する本が沢山出ているが、当時はそうしたものがない時代である。私にとっては「目からうろこ」なことが沢山あった。1年もたつとイタリア歌曲やイタリアオペラの曲目に手をつけるようになった。ここでも本物のイタリア人からイタリア語の発音を習うともに、本場の表現方法を教えて頂いた。時に先生自身が歌ってくださる。これでわからない道理はない。特にプッチネーリ先生は単語一語一語の発音と意味を大切にしていた。さらに譜面を厳格に読むことから、言葉を譜面の流れを合せるという音楽表現のやり方を教えて下さった。

◆個人リサイタル

習い始めて2年も過ぎる頃から、プッチネーリ先生は「人間は中声から高声に移行する所にブリッジと呼ばれる声帯の弱い部分がある。プロの歌手はこれを鍛えるのに大変な練習をするし、これを乗り越えられる人間は少ない。ところが君は生まれつきこのブリッジがない。中声から高声まで一気に声が出せる。今までこうした人間を見たことがない。メトロポリタン劇場に推薦状を書いてあげる。今すぐ銀行をやめてニューヨークへ行きなさい」と言う。

大変うれしいお話であったが、当時10歳に満たない子供が3人もいる私にとって、銀行員をやめ歌手になるなどというのはとても乗れない話である。プッチネーリ先生は半年ぐらい私に歌手になることをすすめてくれたが最終的にあきらめた。代わりに年1回はリサイタルを開けと言う。こうして1994年5月27日、ロサンゼルス郊外パサデナ市民ホールで私は個人リサイタルを開いた。無料とはいえ職場の先輩、同僚、取引先、友人の弁護士達など300人弱の人達に集まって頂き、2時間弱のリサイタルを無事に開催することが出来た。私にとっては本当に大きな大きな財産であり、勲章である。

残念ながら94年暮れには2回目のリサイタルを待たずして日本に帰国することとなった。帰国後すぐに持田篤先生の弟子達の発表会で歌うことになったが、原昌子先生からは「すっかりイタリア人の歌になってしまったわね。もう私達に教えるものはないわ」と初めて褒めて頂いた。アメリカで4年にわたり真剣に歌と付き合ってきたことが私にとっての自信になった。

◆ジャズクラブ

ところが、帰国後はバブルで積み増した不良債権の処理から日本の銀行はいずれも倒産の危機に瀕していた。私の勤めていた東海銀行も同様である。国際企画部に配属となった私は東海銀行国際部門の再建策を講じるため、朝8時から夜中の2時近くまで毎日働いた。膨大な仕事量に圧迫死するのではないかと思われる毎日であった。

こうした私を救ってくれたのが、東中野にあるジャズクラブ「ドラム」である。ドラマーである三戸部純一さんと歌手で奥様であるともえさん御夫妻で経営するジャズクラブは94年に開店しており、開店後まもなく私は友人に連れられてこの店を訪れた。プロのジャズミュージシャンがトリオ(ベース、ドラム、ピアノ)やカルテット(サックスやトランペットが加わる)で演奏する。これを間近で聞けるのは私にとってほぼ初めての経験であった。

仕事に疲れた私は2週間に1回ぐらい、夜9時ごろに仕事場を引き上げ“持ち帰り仕事”をこの店でジャズ演奏を聞きながらやった。現在は書類を会社外に持ち出すことは職務規定違反になので、こうしたことはできない。当時の私はジャズクラブのコーナー席に陣取り、演奏休憩中には黙々と仕事をする。私の姿は他の客から見るとかなり奇異に映ったようである。

そうこうするうちに私がクラシック歌曲を歌うことを三戸部純一さんが知ることになり、私はプロの演奏家をバックに歌うこととなった。幸いにもアメリカのリサイタルで「ラマンチャの男」など数曲のミュージカル曲を歌っていたので最初はこうした曲を歌った。もちろんクラシックの歌い方である。ただ隆々とテンポ通り曲を歌い上げるだけであった。それにしてもプロの演奏家をバックに歌うのは本当に楽しい。歌っていて気持ちが良い。

ところがしばらくすると、少しずつジャズの流儀に気づいてきた。演奏者が変わるとバックの伴奏もかなり違うのである。オーナーである三戸部さんが連れてくるピアニストやベーシストは日本でも有名な一流なミュージシャンばかりである。こういう人たちは自分達の演奏を楽しむため、本気で演奏してくる。クラシック歌曲ではあまり使われない「テンション」と呼ばれる不協和音や「シンコペーション」と呼ばれる特殊なリズムを多用する。演奏途中でもリズムやテンポを変えたり、音階(調)まで変えたりする。

歌手といえども“のほほん”と歌っているだけでは許されない。真剣に演奏を聞いていないと曲をぶち壊してしまう。演奏家全員が協調と自己主張を繰り返しながら曲をつくっていく。この面白さがわかるとやみつきになってしまう。すっかりとジャズの面白さに引かれるようになってしまった。こうなるとジャズの歌も我流で練習するようになる。いつの間にか200曲ほどの私用の譜面がドラムに置かれるようになった。ボトルキープならぬ譜面キープである。ベースだけで歌う曲やドラムだけで歌う曲など他の人がやらないアレンジなども何曲か試してみた。

バンコクへの転勤が決まると、転勤前の98年4月18日に「ドラム」でジャズの個人リサイタルを開いた。友人、知人、60人ほどが集まって下さった。今から考えると恥ずかしい歌のレベルであった。しかし友人とはありがたいものである。下手な歌ではあったが、店内満席となった。クラシック歌曲以外の音楽を知った私は、音楽の面白さを十分にわかった気でいた。しかし実はまだ山頂の半分にもいたっていなかった。(次回に続く)

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第46回 わが同朋の死を悼んで(2015年5月22日)
http://www.newsyataimura.com/?p=4428#more-4428

第12回 楽に寄す(2014年1月10日)
http://www.newsyataimura.com/?p=1190#more-1190

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