п»ї 荷風の時間『教授Hの乾坤一冊』第13回 | ニュース屋台村

荷風の時間
『教授Hの乾坤一冊』第13回

2月 07日 2014年 文化

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教授H

大学教授。専門は環境経済学および理論経済学。政府の審議会の委員なども務める。「知性は、セクシーだ」が口癖。趣味は鉄道(車両形式オタク)。

先日、ふとある新聞のコラムに目が止まった。有名な女性バイオリニストが書いているコラムで、「待てない」という見出しだった。待つことが苦手な彼女は、レストランで料理が来るまでの時間が長いのが耐えられない。ヘアサロンでシャンプーやカットが遅いのが耐えられない。彼女にとって物事は速やかに進まなければならない。現代流のバイオリニストだ。

そんな人に薦めたい本がある。それは、高橋英夫著の『文人荷風抄』(岩波書店、2013年)である。文豪永井荷風の大著『断腸亭日乗』から3つの要素を抜き出し、荷風を描き出している。忙しい現代人の心を癒やすのにもってこいの本だ。この本を読むと荷風がいかに時間を豊かに使ったかがわかるからだ。そして読者もその「おこぼれ」に預かることができる。

著者が取り上げる荷風の要素の1つ目は曝書(ばくしょ)である。もっとも、曝書と言われてわかる人は少ないだろう。本の虫干しのことである。荷風のみならず昔の本の蒐集家(しゅうしゅうか)は本の虫干しをした。だが、とりわけ荷風は好んでよく曝書をしたようだ。虫干しなどというと、呑気(のんき)なように聞こえるかもしれないがそんなことはない。本を取り替え引き替え、夏の日に曝(さら)す作業は昔の人にとっても辛抱を要する作業だった。

実を言うと、私も1回だけ曝書を試みたことがある。しかしあまりにも時間のかかる大変な仕事なのですぐにあきらめた。作業はお天道様の顔色次第で変わり、いつ終わるとも知れない。ところが、荷風にとって曝書はさほどの苦痛ではなかったようだ。昔の本との思わぬ再会、思い出の再発見、認識の深化、より実践的な面では蔵書の整理・購入・売却などなど、これを荷風は楽しんでやっていたフシがある。著者は荷風を評して、曝書家と呼ぶほどである。

稼ぐ必要のなかった荷風は、やはり暇だったのかなどと思ってはいけない。『断腸亭』を読めばすぐわかるように、荷風は始終出歩いていて結構忙しい。にもかかわらず季節になると何日もかけて曝書をする。忙しい外出の合間をみて曝書する荷風の姿を想像するだけで何か心がほっとする。

◆浮世ばなれのした大人の交わり

2つめの要素はある女性との関係である。こう書くと、にやっとする読者もいるかもしれない。なんと言っても女性関係の派手さで有名な荷風のこと、『断腸亭』にも女性の登場は頻繁である。言わずと知れたことだが、荷風は実に多くの女性と関係を持った。だから「女性との関係」と書くと艶(つや)っぽいことを想像する向きもあるだろう。

しかし、阿部雪子なる女性との関係はそういう男と女の関係とは違う。フランス語を教える一方で、大掃除の手伝いをさせたりする。しかし台所仕事は一切させない。阿部雪子との間に艶のある叙述は『断腸亭』のなかには見当たらない。実に不思議な関係なのだ。

しかし、阿部雪子に関する多くの叙述が出てくることから、彼女は荷風にとって大切な存在であったに違いない。ツーショットの写真さえある。著者の高橋は、阿部雪子のことを荷風が「精神的に愛した女性」と表現している。プラトニック・ラブというわけだ。荷風にしてプラトニック・ラブとはなんと心洗われることか。晩年の荷風にとって彼女は一服の清涼剤のような存在だったのかもしれない。

3つ目の点は弟子である。荷風を良く知っている人は、「荷風には弟子はいない」と言うだろう。そうかも知れない。しかし本書の著者高橋は、阿部雪子と相磯凌霜(あいそ・りょうそう)を荷風の「内なる弟子」と呼ぶ。弟子というと、師匠の後を忠実に追って業績を上げ、履歴を重ねていく人のことを呼ぶようだが、荷風はそのような意味での弟子を好まない。むしろ、荷風と微妙な距離を保ちながら影で荷風を支える人間を好んだ。それが「秘められたタイプの弟子」である雪子と凌霜というわけだ。

雪子のことは書いたから、簡単に凌霜に触れておきたい。荷風と、鉄工所経営者にして文人愛好者、古書蒐集家である相磯凌霜との出会いはごく自然だ。荷風の好んで通った小料理屋「金兵衛」に凌霜が居合わせた。そしてさりげなく荷風と知り合いになる。荷風のご機嫌を取って懇意になろうなどという魂胆は微塵(みじん)も見せない。だが、なぜか荷風はいっぺんに凌霜と仲良くなる。「浮世ばなれのした大人の交わりが成立した」のである。

荷風は凌霜に無駄な本を読めと盛んに勧める。「本を読むとは無用のわざである、この無用のわざこそが皮肉にも読書の神髄なのだ」というのだから、実に悠長な話だ。内面を深めるものはすぐ目の前にあるわけではなく、無駄であってもゆっくり待つことが必要なのだ。もしかしたら、待っていても見つからないかもしれない。それでいいのだ。そのことを荷風は「内なる弟子」の凌霜に伝えたかった。

荷風には内面的な友人がいなかったと著者高橋は言うが、凌霜には「内なる弟子」として読書の神髄を伝えることができた。忙しく時の流れる現代では、こうした神髄を語れる者はもういない。

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