ジャカルタ州知事選後の不穏なインドネシア情勢
『東南アジアの座標軸』第25回

10月 10日 2017年 国際

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宮本昭洋(みやもと・あきひろ)

長谷工コーポレーションの海外事業の顧問、インドネシアコンサル会社アマルガメーテッドトライコール非常勤顧問。関西大学大学院で社会人向け「実践応用教育プログラム」の講師、政策研究大学院大学で「地域産業海外展開論プログラム」の特別講師を務める。1978年りそな銀行(旧大和銀)入行。87年から4年半、シンガポールに勤務。東南アジア全域の営業を担当。2004年から14年まで、りそなプルダニア銀行(本店ジャカルタ)の社長を務める。

◆既得権益層が復権

今年4月のジャカルタ州知事選は、現職のアホック州知事がイスラム強硬派による大規模な抗議デモを含む執拗(しつよう)な再選阻止運動により敗北しました。さらに宗教冒とく罪に問われていた公判では、地裁が、検察側の実質的な無罪ともいえる禁固1年、執行猶予2年の求刑を覆して、実刑2年の有罪判決を下し、アホック氏は即日収監されました。アホック氏の弁護団は控訴を主張しましたが、自らの宗教発言問題に端を発して社会的な混乱を招いたことから、これ以上問題を長引かせるのは得策ではないと判断して控訴を断念しています。

アホック氏が知事の座から引きずり降ろされたため、慢性的な洪水対策として河川沿いを違法に占拠し強制退去させられていた住民が、知事が失職した後に再び元の場所に戻り始めています、また、違法行為がまかり通っていた歓楽街の取り壊し後、市民の憩いの場所として緑地化を進めた公園も、再びマフィアが仕切るようになるなど、行政サービス向上のために進めていた施策は頓挫(とんざ)。改革派知事といわれたアホック氏の「降板」で、再び既得権益層が復権しています。

アホック氏が選挙キャンペーンの最中にうかつにも選挙民に対してイスラム教典コーランを引き合いに出したことが、宗教問題を政治利用するイスラム保守強硬派の格好の攻撃材料になりました。反アホック陣営も参戦し、保守強硬派と結託してアホック氏の再選を阻むとともに、イスラム教徒がマジョリティーのインドネシアでは、政治指導者はイスラム教徒であるべきだとする意見も主流になり、残念ですが今後はマイノリティーの華人が政治指導者になれる可能性は極めて低くなりました。

今回の問題は、多様性の中の統一を掲げるインドネシア建国5原則の理念である「パンチャシラ」を揺るがしかねない宗教と民族の分断の危機に発展しましたが、この亀裂はアホック氏の有罪により、終息するどころか深まるばかりです。

◆イスラム急進派と結託する野党勢力

州知事選以降もイスラム急進派が「パンチャシラ」を軽視した活動を続けており、ジョコ・ウィドド政権は社会的な混乱を再び引き起こす事態を憂慮していました。このため政府は、7月に憲法や国是「パンチャシラ」に違反したイスラム急進派団体のヒズブット・タフリル・インドネシア(HTI)に対して緊急政令で解散させる強硬措置を取りました。イスラム保守強硬派を抑え込む意図の緊急政令は、思想・信条の制限につながると賛否両論がありましたが、ジャカルタ州知事の命運を左右できるイスラム保守強硬派の台頭は、国政動向にもいずれ影響を及ぼしかねないと危惧(きぐ)するジョコ政権の決断です。

アホック氏糾弾の急先鋒(ぽう)だった強硬派団体イスラム擁護戦線(FPI)は、緊急政令に反対して大規模な抗議デモを計画。政府は警戒していましたが、9月下旬にイスラム強硬派団体が5千人規模のデモを実施し、国会議事堂周辺に集結して緊急政令に抗議するとともに、非合法の共産党(PKI)の復活の動きを政府が放置しているとして、ジョコ政権批判を繰り広げました。

また、9月中旬には「共産党の集会開催」とのデマにより、ジャカルタ法律擁護協会(LBH)にイスラム擁護戦線(FPI)が押しかけ、建物の一部を破壊するなどの暴力行為もありました。LBHはイスラム急進派により弾圧されているマイノリティー宗教の人権擁護にも尽力している組織です。野党勢力はイスラム急進派と背後で結託して、追い落としに成功したアホック氏の次の標的をジョコ大統領に据えてその再選阻止に絞り、大統領に対するネガティブキャンペーンを始めています。

ユドヨノ前政権時代からイスラム保守強硬派によるマイノリティー宗教に対する多くの弾圧行為の取り締まりに寛容な態度をとってきたことが、イスラム急進派の社会的な台頭を許し、そのつけがジョコ政権に回っています。

2019年4月の大統領選は、ジョコ大統領の対抗馬としてグリンドラ党の党首プラボオゥ氏の名前が挙がっています。グリンドラ党はアニス前教育文化相を擁立してジャカルタ州知事選に勝利しましたが、プラボオゥ氏はアニス氏に対してくれぐれも次期大統領選への野望を持たないようにと釘を刺していると伝えられています。イスラム急進派を利用した野党勢力による現政権への攻撃は次期大統領選に向けますます高まっていくと思われ、不穏な社会情勢が続きそうです。

◆汚職撲滅委員会へのやまぬ攻撃

イスラム急進派勢力による揺さぶりはジョコ政権だけにとどまらず、大統領直属組織の汚職撲滅委員会(KPK)に対する攻撃も止まりません。

いま、インドネシア国内を揺るがしている大きな疑獄事件は、国民の身分証明書の電子化に係る調達事業を巡る内務省の汚職です。この事業では、2010年のユドヨノ前政権時代の国会で総事業費5兆9千億ルピア(約500億円)の予算が通過しています。しかし実際の事業費は半分以下の2兆6600億ルピア(約230億円)で、予算が大幅に水増しされていたことをKPKが突き止めました。

KPKは、起訴された内務省高官の公判で、水増し予算の承認のために多くの国会議員に賄賂が贈られたと指摘するとともに、7月にはゴルカル党党首で前国会議長のセティヤ・ノバント氏にも巨額の賄賂が渡っていたとして収賄の容疑者に認定しました。、セティヤ氏は、次期大統領選でジョコ大統領支持を表明しています。今回の起訴について救済を訴えるべく大統領に面会を申し込んだようですが、大統領は応じず距離を置いてきました。

今回の疑獄事件では、与野党問わず多くの国会議員に賄賂が渡っているとされます。身の危険を感じた与党議員が中心となり、KPKの捜査のあり方などを検討するとして5月に「特別調査委員会」が設置され、委員長には賄賂を受け取ったとされるゴルカル党のアグン議員が就任しています。

委員会は要は、巨額の国費を不正流用した一大疑獄事件のもみ消し工作のためのもので、KPKを徹底的に追及して機能停止に追い込む意図です。既に、事件を担当していたKPKの主任捜査官への襲撃や、事件の容疑者および複数の重要参考人が不審死を遂げており、事件を葬り去ろうとする権力組織が暗躍しています。

KPKへの圧力は外部からだけにとどまりません。KPK内部においても、総勢90人の捜査官のうち既に55人が国家警察からの出向で、出向中の上級幹部は国家警察からのさらなる増員を検討しており、生え抜き職員との間で軋轢(あつれき)が生じています。出向者をこれ以上増やすとKPKが事実上の第2国家警察に成り下がり、汚職捜査の手の内が国家警察幹部に筒抜けになる恐れがあります。

KPKは2015年の国家警察長官人事を巡る問題でも、長官候補だったブディ・グナワン警察教育訓練所長(当時)を巨額の不正蓄財を行っていたとして容疑者に認定しました。ブディ氏はこれを不服として裁判所に予備審理を請求し、無罪を勝ち取りましたが、警察長官にはなれませんでした。この問題では、「国家警察・検察当局対KPK」の壮絶な争いが国民の目の前で繰り広げられました。容疑者の電話の盗聴などの特別捜査や起訴などKPKの持つ権限は、国家警察と検察当局の機能を併せもち、これまでに多くの国会議員、地方首長、官僚らの不正を摘発し、実績を残してきました。このため、KPKは既得権益層からは徹底して敵対視されています。

既得権益層の代表格の国会議員や地方首長は、ブディ氏の事件を契機にKPKつぶしを本格化させ、KPKの特別捜査権限である盗聴権限を削ぐ「KPK改正法」の審議を目指していますが、大統領が拒否しています。国会の特別調査委員会は、KPKの弱体化や機能停止を含む調査結果について大統領との協議を要請していますが、大統領は拒絶しています。

◆「予備審理」が巨悪の抜け道に

先述のセティヤ前国会議長も容疑者認定を不服として南ジャカルタ地方裁判所に予備審理請求をする一方で、KPKの捜査を回避するため仮病を装い入院していました。予備審理は1人の裁判官が担当し、9月末に大方の予想通り、「KPKの容疑者認定は証拠不十分で無効」との判断を下しました。ブディ氏の容疑者認定も無効にした地裁の予備審理というシステムは、限りなくクロに近い容疑者たちのいわば駆け込み寺になっています。

ちなみに、セティヤ氏はアジア通貨危機当時、バリ銀行が経営破たんした地場銀行インドネシアナシオナル商業銀行に多額のインターバンク債権を抱え、債権額の60%相当の手数料を同行が支払い、彼の経営する会社に債権回収を委託させ、その資金が政治資金に流用されたとされる疑惑(バリ銀行スキャンダル)に関与したとして一時、容疑者に認定されたことがありますが、訴追を免れています。また国会議長当時の2015年には、インドネシア・パプア州で銅や金を産出している米系資源会社大手フリーポート・インドネシアが2021年に期限を迎える採掘契約を巡り、セティヤ氏がジョコ大統領の名前をかたって同社の一部株式の譲渡を要求した密談の録音テープが公開され、大きな問題となりました。この時も、国会議長職は辞任したものの法的措置を逃れています。

インドネシアは主要20カ国・地域(G20)メンバーですが、汚職・賄賂のランキングはこの中で最低レベルです。国家警察、検察や裁判所の司法当局が腐敗にまみれている国で、KPKだけが法に則り不正行為を働いた者を捜査・起訴する特別捜査組織です。予備審理を担当する灰色に染まった裁判官がKPKの容疑者認定を覆すようなケースが増え、KPKの地道な捜査活動が報われないことも多くなっています。KPK職員のモラル低下も気がかりです。まさに「内憂外患」のKPKですが、国家警察、検察・裁判所などの司法機関に対して、インドネシアで唯一の正義を貫く汚職摘発機関として、国民と大統領の全面的な支持が必要です。

2019年の次期大統領選に向けてジョコ大統領は、イスラム急進派を巻き込んだ野党の攻撃が激しさを増すなか、与党連合勢力の協力を確実なものにしたいところです。今回の電子身分証明書の調達事業に絡む汚職事件では、水増し請求された予算の一部が多くの与野党議員に流れているとみられています。事件のもみ消しの決定打としてKPKの無力化も狙っている「巨悪」に、大統領はどう立ち向かうのでしょうか。

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