п»ї 資本主義の現状:『新・日本の階級社会』を考える―その3 なぜ貧困層(弱者)を救済しなければいけないのか 『視点を磨き、視野を広げる』第29回 | ニュース屋台村

資本主義の現状:『新・日本の階級社会』を考える―その3
なぜ貧困層(弱者)を救済しなければいけないのか
『視点を磨き、視野を広げる』第29回

4月 01日 2019年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに―「なぜ貧困層(弱者)を救済しなければいけないのか」

社会学者橋本健二(*注1)の『新・日本の階級社会』という本をもとに、前回は格差是正を推し進めるための政治的方法論について検討した。今回は、そもそもなぜ貧困層(社会的弱者)を救済しなければいけないのかについて考えてみたい。救済に反対しているわけではない。格差は是正されるべきだと思うが、政策実行のためには痛みを伴う政策(他予算の歳出削減か増税)が必要であり、道徳的に正しいという主張だけでは社会を動かす力となりえないからだ。格差是正に関する社会的合意形成の積極的な理由を確認しておきたいのである。まず、社会全体にとって利益となることを明らかにしなければならない。これは経済学の仕事だ。

ただ、倫理面についても整理しておく必要があると考えている。経済的理由は重要だが、その根底にはやはり倫理観が必要だと思うからである。あれこれ思案していたときに偶然、精神科医の香山リカ(*注2)の『弱者はもう救われないのか』という本を見つけた。香山は、現代の日本は、国による「弱者切り捨て」が進み、社会もそれを受け入れつつあるという問題意識を持っている。しかし、経済的理由や個人の倫理観に期待するだけでは、人々は「自らの消費の自由を侵すような弱者救済策に賛成しない」可能性が高いと悲観的に観察している。そこから弱者救済の根拠を求めて模索を続けるのである。同書を参考に弱者救済の倫理的な理由についても考えたい。

◆経済的な観点からの理由

「自己責任論」という考え方がある。低賃金の職にしかつけなかったり、職を失ったりしたのは、学業や仕事に頑張らなかった結果なので自分の責任だとするものであり、格差拡大容認の根拠となっている。上位階層に同論への支持が多いのは理解できるが、橋本は低所得層にも自己責任論が広がっているとする(*注3)。これに対して、貧困や格差は自己責任ではなく経済や社会の仕組みが生み出したことを明らかにすることは、経済学の重要な役割だ。そして大きな格差の存在は社会にとって不利益をもたらしたり、有害でさえあることを示したりすることも必要だ。次に挙げるのは、こうした問いに対する答えである。

  • マルクス主義的解釈(労働価値説)

本書の説明は、マルクス主義的解釈に立脚している。橋本は、まずマルクス主義の労働価値説に基づく搾取概念を説明する。労働価値説は、労働のみが価値(利潤)を生み出す源泉と考える。労働者が労働の対価として受け取る賃金は、労働力の再生産(=生活)に必要な金額であり、自らが生み出した商品の価値との差額である利潤(剰余価値)は、資本家が手にする。これを搾取(さくしゅ)と考える。ここから生産手段を所有する資本家階級と所有しない労働者階級の間の階級闘争が導かれる。

こうした階級対立の視点から、橋本は、資本家階級=搾取をするので「悪」、労働者階級=搾取される側なので「善」として、格差是正の政策提言の基本においているようにみえる。しかし、わたしたちが生きている現在の日本社会は、マルクスが研究対象とした19世紀の英国と比較にならないくらい豊かになり福祉政策も整備されているし、両階級の中間の階級(新中間階級)の比重が増したことや階級内の階層化の進展もあり、階級構造の複雑化も見られる。また、マルクスの労働価値説自体が、理論的問題点に関する内部対立もあって、現在では影響力を失っている(*注4)。こうした現実を踏まえれば、労働価値説と搾取論に基づく議論の展開は、多くの人々から理解を得るのには適さないと思う。次に挙げる共有資本は、そうした階級史観に依らない社会経済学の考え方である。

  • 共有資本と社会的規制

ここでは、資本主義の原則である(財の)私的所有と市場経済を容認する。したがって資本主義の一形態(修正資本主義)である。違うのは、「私有」と「国有」の間に共有資本という概念を置くことである。近代化以前の日本で一般的であった山林における村の入会権(いりあいけん)に近い概念である。これを現代に適用し、森林や海洋は私有でも国有でもない共有の資本(資源、資産)だと考えるのである。そしてそれは自然資本だけではなく「人間関係」や「文化」といった無形資産を含む。「人間関係資本」とは、家族やコミュニティーのように他の人々とのつながりを指す。その基盤の上に労働力が生み出される。また、「文化資本」は文字や芸術作品であり、技術・知識を生み出す。(*注5)

人間関係資本である労働力は、市場で自由に取引されると収益性と効率性を追求する資本によって低賃金や長時間労働を強いられる可能性がある。そうなると労働者は疲弊したり貧困に陥ったりして、共有資本である家族やコミュニティーが破壊される。共有資本は、長い年月をかけて形成されたものであり、いったん破壊されると再生が困難であったり、回復に長い時間がかかったりする。そのため市場機能を導入して効率性を維持しながらも、共有資本を守るために規制が必要となってくる。最低賃金制度や、労働時間の規制である。また、公的扶助や社会福祉などの社会保障の仕組みの充実も必要である。さらに、正規労働と非正規労働による差別をなくすために「同一労働、同一賃金」を実現することも求められる。

このように共有資本という考え方を用いることによって、人間労働を守るために労働条件を改善したり、格差を是正したりする必要性が理解されるのである。

  • 社会全体の利益という観点(格差は社会的コストを増大させる)

格差是正は社会全体の利益になることを示す事例も挙げておきたい。例えば教育である。歴史を振り返ると、農業段階から工業段階への移行期においては、労働者に知識(読み書き)、技能(計算能力)を求めるようになる。それを実現するのが国家による基礎教育制度である。明治以降の日本の産業化の成功は、義務教育の無償化と普及が大きく寄与している。同じことが現代にもあてはまる。貧困家庭の子供が教育を受けることによって基礎的知識、技能を持った人材となって市場に供給されることで経済成長に貢献するからだ。国家による教育への適正な投資は、社会全体にとって利益をもたらすのである。橋本は、「貧困層の子どもたちが教育を受ける機会を奪われるのは莫大な人的資源の損失である。OECD(経済協力開発機構)の調査では、1990〜2010年の日本のGDP(国内総生産)成長率は、格差拡大によって5.6%引き下げられた。」としている。

社会保障の必要性についても、経済性からの説明が可能である。例えば社会保険のうち、雇用保険、労災保険は、労働者を失業や災害から守ることで、安心して働ける環境を提供することによって社会全体の円滑な経済運営に資している。また公的扶助は、税を財源とする社会手当や公営住宅制度などであり、貧困者対策を通じて人格や尊厳といった個人の権利が保護される社会を築くことで社会の安定の維持に貢献していると考えられる。共有資本の観点から言えば、社会保障は人間関係資本を保護することによって労働に伴う不確実性を縮減する役割を果たしているのである。橋本は、貧困層が増えれば税金を払えない人が増大し、社会保障支出も増大するので社会的コストは膨大になるとする。そして総合経済開発機構(NIRA)の試算として、「就職氷河期に非正規労働者となった若者が、老後に生活保護を受けるようになった場合、追加必要費用は17.7〜19.3兆円」だとしている。また、アンダークラスの収入は極めて低く、貧困率は高いので、安定した家族が形成できない状態にある。男性の有配偶者率は低く(25.7%)、結婚経験がない人が66.4%もいる。女性は離死別者が多い。また、職場では単純労働に従事しており、福利厚生の恩恵を受けることもない。健康状態は悪く、うつ病その他の心の病を抱える人が多い。貧困層の増大は短期的には社会保障支出の増大につながるし、中長期的には人口減少を加速する要因となっていくと考えられるのである。

◆倫理的な観点からの理由

最初にご紹介した『弱者はもう救われないのか』で、香山は、格差拡大の背景には「人の価値は稼ぎで決まるという価値観の浸透がある。この流れは、日本だけではなくグローバリズムに席巻された世界全体の潮流である。私たちは人類が苦闘の末に獲得した「自由と公正を柱とする福祉国家」のモデルをこのまま手放してしまうのか」と嘆いている。こうした問題意識から出発する香山の格差を巡る倫理観の模索は以下の道順をたどる。

  • 経済的便益からの説明:弱者を救済するのはその人たちのためではなく、自分(社会)のためになるからだという考え方がある。これは前述の「経済的理由」で見たように、経済的便益の計算を行うことで説得力のある説明が可能になる。また、介護を例に倫理観に依存するのではなく、市場化による持続性のある運営の必要性を説く社会学者上野千鶴子の考えを紹介する(*注6)。香山はこうした考え方に理解を示しつつも、「社会全体の得にならなかったら救わない」に転じる可能性があるとして、やはり倫理的説明が欠かせないとする。
  • 個人の倫理観に依るもの:弱者を救済するのは、自分自身の成長につながるからという考え方がある。あるいは、自分を安心させる保険として考える人もいるだろう(明日は我が身)。後者は震災のケースを考えると共感できる理由だ。ただし香山は、個人の倫理観に依存するため広く社会的コンセンサスを得る理由としては弱いとしており、わたしも同感である。
  • 宗教からの回答:宗教は、「一神教においては神は絶対的な存在であり、その神のもとでは万人が平等であるから救うべき」という明確な答えが得られる。それゆえ「なぜ弱者救済が必要かの答えを与えられるのは宗教だけ」であるとする。しかし同時に、「宗教的土壌が乏しい日本で弱者救済に納得の行く根拠を見つけることは困難」と考える。
  • 脱宗教的な世俗化の高まり:香山は、一神教の土壌をもつ欧米諸国においても脱宗教的な世俗化の高まりがみられると指摘する。近代化の進展によって「世俗性(功利主義)」「市場経済(自由主義)」「多数決(民主主義)」の原理が生活に浸透し、倫理観が崩壊しつつあるという危機感が広がっているというのである。これを乗り越える試みとしてのロールズ「正義論」(*注7)、サンデル「共同体主義」(*注8)といった思索の挑戦がみられるが、(神なしで)現代的な倫理を確立することには成功していないとする。一神教の神が存在した場所でも近代化によって神の影響力が減少しているのであり、もともと一神教がなかった日本では、宗教の力に多くを期待するのは無理があるのではないかと香山は言っているのである。
  • 香山の結論:香山がたどり着いた答えは、「答えはない」である。弱者救済に理由はないのである。宗教的な解釈に近いが、そうとしか言いようがないということなのだ。なぜ人を殺してはいけないのかと同じ問題である。広い意味での宗教に近い結論である。香山は、「この説明不可能の行為に合理的な理由をつけ、納得したいために、長い時間をかけて宗教や道徳や倫理を作ってきたのではないだろうか」として同書を結んでいる。

◆むすび―映画『万引き家族』が教えてくれるもの

今回は、なぜ貧困層(社会的弱者)を救済しなければいけないかという問いから出発した。なぜなら格差是正のための政策実施には財政支出が伴うが、財政は非常に厳しい状況にあり、他予算の削減か増税が不可避である(そうでなければ単なる人気取りのバラマキ政策だ)。そうした政策実施の前提として、社会の過半数の人々の支持が必須となるからだ。社会的合意を得るためには、「なぜ必要か」に答えうるしっかりした考え方が必要だ。

まず、階級史観による善悪二元論的な論理展開では複雑化している現実理解にむしろマイナスだと考え、それに代わるものとして共有資本という概念を用いた。私有(資本主義)と国有(社会主義)の中間に共有資本を置くのである。共有資本は自然資源だけではなく人間関係資本を含む点に特徴がある。人間関係資本とは家族やコミュニティーであり、労働力を生み出す。資本主義では自由経済の名のもとに市場原理が共有資本を侵食する。海洋資源の乱獲がそうであるし、人間労働も効率性を求める市場原理を完全適用すると破壊されてしまう。人間労働(その基盤となっている家族やコミュニティー)を守るものが労働法制であり、経済的規制と区別して社会的規制と呼ぶ。資本は国境を超えてグローバルに活動し、製造業であれば賃金の安い新興国に工場を移転するか、国内に残すなら非正規労働者の増大によって競争力維持のためのコスト削減に走る。その意味で非正規労働者の増大は、経済のグローバル化が生み出した一つの必然なのであり、労働者の自己責任ではないのである。したがって非正規労働者の賃金格差の是正は、社会的責任だと理解されるべきである。

倫理面についても検討したが、結論としては香山が言うように、弱者救済に理由はない(救いたいから救う)という解釈が日本的な良心のあり方として理解しやすいように思う。それでは個人の倫理観の問題にとどまってしまい、社会的な支持を獲得するには力不足という批判はあるかもしれないが、そうとしか言いようがないのである。こう結論づけようとしたとき、昨年見た『万引き家族』(*注9)という映画が思い出された。「もう少し違う考え方もあるんじゃないか」と問いかけられたように思えてきたのである。

映画『万引き家族』は、社会の最底辺に生きる人々を描いている。非正規労働者や親に見捨てられた子どもたちが、血の繋(つな)がりのない年金生活のおばあちゃんのボロ屋で同居している。そこには鋭い社会批判が感じられる。しかし同時にそういった人々が寄り添ってたくましく生きている姿を淡々と映し出している。是枝監督は映画の中で答えを出さずに、観客に問題提起をしてあとは自分の頭で考えてくださいというスタイルをとる。この映画もそうだ。映画が描く社会的弱者が寄り添ってたくましく生きる姿というのは、格差是正は社会政策だけで解消されるものではないということを言いたいのではないだろうか。ここでは(政治性を帯びてしまう)「庶民」という視点ではなく、もっと底にある「人間」という存在を見ているのである。その生身の「人間」がなんとか助け合って生きていくところに家族があり、コミュニティーが生まれるのだというメッセージではないか。家族の基本は、一緒に住む、一緒にご飯を食べることにあるのかもしれない。そういえば皆でおいしそうに飯を食う場面がやたらに多い映画であった。そこに救済への一つのヒントがあるのではないだろうか。

<参考図書>

『新・日本の階級社会』橋本健二著 講談社現代新書(2018年)

『弱者はもう救われないのか』香山リカ著 幻冬舎新書(2014年)

(*注1)橋本健二(1959〜):社会学者、早稲田大学教授

(*注2)香山リカ(1960〜):精神科医、評論家、立教大学教授

(*注3)全体の過半数(52.9%)が自己責任論に肯定的(どちらともいえない29.9%、否定17.2%)であり、階層別には貧困層でも44.1%が肯定的(どちらともいえない34.3%、否定21.6%)。

(*注4)労働価値説の理論的問題点は、①投下された労働量によって規定された価値(時間によって測られる)と商品が交換される価値との整合性の説明が困難(転形問題といわれる)②単純労働と技術革新を生み出す複雑な頭脳労働の区別をしていないこと(マルクスも技術革新が生み出す特別剰余価値という概念を考えたが発展させられなかった)――である。また、労働価値説に立脚した労働者の窮乏化(需要の減少)とそれに続く資本主義の崩壊が現実には起こらなかった。社会主義体制の崩壊もあり、現在の経済学においては、マルクス主義経済学はかつての影響力を失っている。

(*注5)拙稿第21回『松原隆一郎「共有資産と社会的規制」』参照。松原は、共有資本を「本源的生産要素であり、自生的に生成したもの」と定義する。人工的に供給される公共財と区別している。

(*注6)上野千鶴子(1948〜)は、著書『ケアの社会学』において「介護に関係した行為をもっと市場化していくことにより、社会や経済にとって明らかなメリットがある」と主張。

(*注7)ジョン・ロールズ(1921〜2002):米国の政治哲学者。格差は是正されるべきという根拠を、社会的な要因(環境)で不公平が生まれる点に求め、社会システムの是正を主張。

(*注8)マイケル・サンデル(1953〜):米国の政治哲学者。ハーバード大学教授。コミュニタリアニズム(共同体主義)の論者でコミュニティーの力を重視。

(*注9)『万引き家族』是枝裕和監督。2018年6月公開。第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールに輝いた。

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